十ノ三十 「心菜に出来ること」
丘は指揮台の椅子に座り、全体を見回した。
生徒が真剣な表情でこちらを見ている。緊張や不安で眠れなかったのだろうか。目の下に隈の出来ている者もいる。
音楽室の隅に寄せてあるピアノの傍には、副顧問の涼子が立っている。普段、涼子が音楽室に来ることはほとんどないが、今日は特別だった。
「七月一日になりました。いよいよオーディションです」
丘は言った。
「皆さん今日のために練習をしてきたと思いますので、その成果を聴かせていただきます。オーディションは、パート毎に行います。呼ばれたパートは全員で審査会場の英語室へ来てください。その場で、同時審査をします」
オーディションの方式を個別審査にするか同時審査にするかは、涼子と何度も話し合った。
オーディションはどうあってもパートの仲間同士で競うことになる。それなら、本人達も隣で仲間の演奏を聴いておくべきだ。
自分の演奏と仲間の演奏を、自分達で比べて判断してほしい。そのうえで、丘と涼子の出す結論に、納得してほしい。
そういう意見で一致した。
「審査にあたっては、課題曲と自由曲の中から、ランダムで選んだ箇所を演奏していただきます。ソロがあるパートは、全員ソロも審査します。説明としては以上ですが、質問はありますか?」
誰も手を挙げない。
「では、早速始めましょう。まずはクラリネットパートから、五分後に英語室へ来てください。他の生徒は、音楽室で待機しておくように」
「はい」
立ち上がって、涼子と共に音楽室を出る。
生徒達は、緊張しているのだろう。すぐには、練習の音は聞こえてこなかった。
部員の中にはオーディションの結果を受けて、誰それをひいきにしただとか、初心者だから選ばれなかっただとかで不満に思う者も現れるだろう。
だが、そう思ってしまうのは無理もないことだ。不満が出るのを防ぐのは難しい。人の心は、操れないのだから。
丘達に出来るのは、生徒を平等に審査し、上位大会への進出という結果をもってそれを示すことだけだ。
「今更ですけど、私も審査に加わって、良いのでしょうか」
歩きながら涼子が言った。
「私は音楽について詳しいわけではないですし」
「だからこそ見えるものもあるのです。佐原先生の視点で生徒を見ていただければ大丈夫です。最後の判断は、私が下します。責任は私にあるのですから、気負わずに審査してください」
「……はい」
このオーディション審査に涼子を参加させたのは、吹奏楽部の顧問の一人として、涼子を成長させる目的もあった。
丘は、花田高に赴任して十年以上が過ぎている。いつ、ここを離れることになるか分からないのだ。その時、新たにやってくる顧問と生徒の橋渡しの役を担うのは涼子となる。
彼女は年々、部の顧問としての自覚を身に着けつつある。いずれは、指揮も覚えさせたい。
そのためには、彼女自身がもっと部へ関わりたいと思うようにならねばならないし、生徒からの信頼も勝ち取らなければならない。
気負う部分はあるだろうが、それは、生徒を導く者として必要なことだ。
このオーディションを経て、生徒達と共に涼子も変化していくだろう、と丘は思った。
木管セクションのオーディションが終わって、金管セクションに移り、最初はトランペットパートからだった。
七人で英語室に向かい、丘と涼子を前にして、一人ずつ吹いていった。
逸乃、月音、コウキ、莉子が終わり、心菜の番だった。
万里は、それを横で聞いていた。
この数ヶ月の間、万里は目標を持って努力してきた。
コウキの隣で吹きたい。
逸乃や月音の力になりたい。
まこが叶えられなかった全国大会への出場を果たしたい。
二つ上の代から受け継いだ想いに、結果で応えたい。
そうした強い目標が、万里を動かしていた。
中学生までの万里だったら、こんなに一つのことに真剣になったりはしなかった。いつも適当で、無気力な人間だった。
花田高に入学して、吹奏楽部に入部した。逸乃に出会った。まこに、修に出会った。そして、コウキに出会った。
関わる人達が、万里を変えてくれた。
今は、音楽が好きだ。この部が好きだ。
コウキの隣で吹きたいという気持ちは強いけれど、それ以上に、自分もメンバーの一人としてコンクールで演奏し、全国大会へ行きたいという気持ちの方が強い。
花田の一員として役に立ちたい。万里の、一番大切な想いだ。
だから、このオーディションは万里にとって、何よりも大切な場だった。
努力の成果を示して、自分の力で、メンバーの座を得たかった。
それなのに。
「何、その演奏……心菜ちゃん、ふざけてるのっ!?」
心菜の演奏を遮り、万里は声を上げた。
自分でも、こんなに大きな声が出せたのか、と万里は思った。
初めて経験する興奮に、気持ちの抑えがきかなくなった。
横に立つ心菜は、驚いて目を見開いている。
「皆、真剣にオーディションに参加してるのに……なんでっ」
ずっとコウキの隣で吹きたかった。けれど、今の万里にはサードを吹く技量しかなかった。だからコウキとは席が離れていて、隣はいつも心菜だった。たとえ数ヶ月でもいつも隣にいれば、心菜の音も、その癖も、分かるようになる。
心菜の審査演奏を聴いた時、心菜がわざと手を抜いていることが、万里にはすぐに分かった。
気がついたら、言わずにはいられなかった。
「なんで、わざと手を抜いてるの……!?」
「っ」
心菜が動揺を見せる。何となく、その理由は察していた。
コウキや逸乃達が、言っていたのだ。五十五人しかない枠の中でトランペットに割けるのは、多くても六人までで、丘の方針は、木管を中心としたサウンドづくりにあるから、木管に人数を割くためにトランペットは五人の可能性が高い、と。
コウキ達の予想が合っていたら、パートの中で二人はステージに乗れないことになる。
実力順で考えるなら逸乃、月音、コウキ、莉子、心菜の順に選ばれていく。万里はよほど頑張らなくては選ばれない。心菜が選ばれるということは、万里が心菜に負けることを意味する。
心菜は、先輩である万里に遠慮したのだとしか思えなかった。
「そんなことされて、私が嬉しいと思う……!?」
万里は、いつの間にか自分が涙を流していたことに気がついた。悲しいからではない。悔しいからだ。後輩が、自分に遠慮して手を抜いたことが。
自分の努力を、否定された気がした。
心菜の方が上手いのは万里自身も分かっている。それでも、負けるつもりはなかった。なのに、心菜は万里の腕では勝てないと決めつけて、万里をメンバーにさせるために、手を抜いた。
悔しいという気持ちが、これほど強く胸の中を焼くのだと、万里は初めて知った。
「私は、自分の力でメンバーになりたい! 誰かに譲ってもらった椅子になんて、座りたくない! そんなことのために、毎日頑張ってきたわけじゃない!」
喉が、潰れそうだった。大きな声など、出したことがなかった。いつも、声が小さいと言われ続けてきた。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
「真剣に吹いてよ、心菜ちゃん!」
心菜は、答えなかった。
万里に気づかれるとは思わなかった。さりげなく、手を抜いたつもりだった。それで、心菜が落ちて、万里がメンバーに選ばれるはずだった。
心菜の想いは誰にも明かさないままで、誰かに嫌われることもなく、恨まれたり傷つけられたりすることもなく、平和に過ごせるはずだった。
万里が顔を歪めて、心菜を睨んでいる。
「……どうしますか、金川。もう一度吹きますか。吹くなら、審査します」
丘が言った。ずっと、隠し通してきたのに、と心菜は思った。
「あなたは、それで良いのですか? それで、本当に後悔しないのですか?」
丘の言葉が、妙に勘に障った。
「橋本の言葉を聞いて、それでもなお、あなたはそのままでいるつもりですか? それで、自分を許せるのですか?」
苛立ちが増す。嫌な言い方だ、と心菜は思った。同時に、頭に鋭い痛みが走った。中学校時代の思い出が、脳裏を駆け巡った。
「あんたなんかがソロを吹くなんて」
顧問からファーストとソロを吹くことを言い渡された日に、先輩が言った。
あの時、先輩は泣いていた。三年生だった先輩は、自分が吹くつもりでいたのだ。その機会を、心菜が奪った。あれから、先輩は変わった。
「調子に乗らないで」
「練習でミスしてて、本番で吹けるの? 負けたらあんたのせいだよ」
「まともに吹けないのに、何へらへらしてんの、キモイ」
心菜にだけ聞こえるように、先輩は責めてきた。楽譜を隠されたこともあった。トランペットのケースに、辞めろと書かれた紙が入っていたこともあった。
先輩の言動が、心菜の心を蝕んでいった。それでも、心菜は誰にも相談しなかった。周りに心配をかけたくなかったし、先輩の怒りを静めるには、結果を出すしかないと思ったからだ。
心菜が頑張れば先輩も認めてくれる。そうすれば、また優しかった先輩に戻ってくれるはずだ、とも期待していた。
傷つけられても、心菜にとっては大切な先輩だったのだ。
けれど、日に日に心菜の演奏は質が落ちていった。コンクールの日も、心菜は酷い演奏をした。結果は、地区大会で終わった。
「ほら、あんたが吹いたせいで、私達の夏が終わった」
その言葉が、心菜の中で張り詰めていた何かを、完全に崩した。
心菜の頑張りは、無駄だった。頑張るほどに、他の誰かは嫌な思いをした。
心菜が他人を傷つけ、他人が心菜を傷つけた。
好きだった音楽が、心菜の中で苦しいものに変わった瞬間だった。
「心菜ちゃん……もう一回、吹こうよ」
逸乃の言葉で、心菜の意識は引き戻された。
「まあ……手を抜くのは、さすがに失礼だし無神経だよね、先輩に対して」
月音が言った。心菜は唇を噛んだ。ますます、苛立ちが募った。
追い打ちをかけるように、丘が口を開いた。
「それがあなたのためになると思いますか」
皆、人の気も知らないで、偉そうに。
「他の人の為になると思いますか」
うるさい。
「部のためになると……」
心菜の頭の中で、何かが弾けた。
「だって、仕方ないじゃないですか!!」
丘の言葉を遮って、心菜は叫んだ。あの先輩の顔が、頭に浮かぶ。それをかき消そうとして、心菜はさらに叫んだ。
「こうするしか、なかったんですよ! 私が一生懸命吹けば、他の人が落ちる! それで……その人から恨まれて、嫌がらせされるっ……! 皆が気持ちよく過ごすには、こうするしかなかったんですよ!」
好きで、心菜がこんなことをしていると思うのか。
心菜も、万里を睨み返した。
「万里先輩は、もしメンバーに選ばれなかったら平気でいられるんですか!? 口では実力だと言ったって、選ばれなかったら、絶対に私に対して嫌な気持ちを抱くでしょ!?」
「何で私の気持ちを決めつけるの!?」
万里が叫ぶ。
「皆、自分がメンバーになりたいし、ソロを吹きたいに決まってるじゃないですか! 自分が選ばれなかったら悔しいし、むかつくし、選ばれた人が嫌になる! それで、相手を傷つけるんですよ!」
心菜がソロを奪ってしまった、あの先輩のように。優しいと思っていた人が、豹変してしまう。
「私はそんなことしない! 今回駄目だって、東海大会ではメンバーになる! そこでも駄目でも、全国大会でメンバーになる! 私は絶対に諦めない!」
万里の声が、枯れていく。大声を出しているからなのか、苦しそうな顔をしている。
「それにっ、私より他の人が選ばれたなら、それは部にとってそのほうが良いと先生達が判断したからでしょ……それなら、私は選ばれた人を応援する! 私は負けたくない……でも、皆で全国大会に行く方が、ずっと大事! 先輩だから選ばれるべきとか、そんなので選ばれたくない!」
「そんなのっ……嘘ですよ!」
「嘘じゃない!」
一際、大きな声だった。万里がせきこんだ。
「……だって」
絞り出される、潰れたような声。
「実力で選ばれなかったら……私が皆の足を引っ張ることになる……それで花田が全国大会に行けなかったら、私は、私を許せない」
そう言って、万里はまた涙をこぼした。
心菜は、言葉を失った。
入部以来、心菜はずっと万里の隣にいて、万里を見ていた。
万里は毎日、絶対に心菜より早く音楽室の椅子に座って練習をしていた。夜は、心菜より早く帰ったことはなかった。昼放課も、毎日練習していたという。誰よりも、努力している人だった。
「オーディション、頑張ろうね」
「一緒に吹けると良いね」
「負けないように、私ももっと頑張らなきゃ」
万里は、競う相手である心菜にも、そうやって何度も声をかけてくれていた。
中学生の時のあの先輩は、そんな言葉をかけてはくれなかった。コンクールの曲が配られてから、あの先輩は自分がファーストとソロを吹くことだけに燃えていた。
万里は物静かな人だったけれど、心菜や莉子、みかのことを気にかけてくれていた。万里とあの先輩は違うことも、心菜に手を抜かれて喜ぶような人ではないことも、見ていれば分かったはずではないか。過去の出来事に囚われて、万里のことを見ているつもりで、実際は自分のことしか見えなくなっていた。
自分の手の中のトランペットに目を落とし、唇を噛む。
間違っていたのは、心菜だったのだ。
「……万里先輩……ごめんなさい」
頭を下げた。
「私……自分のことしか、考えてなかったです」
顔をあげて、万里を見る。二人の視線が交わる。
「万里先輩の気持ちも、部活のことも……考えてませんでした。ごめんなさい」
もう一度、頭を下げる。
謝って済むことではないかもしれないが、そうすることしか、心菜には出来なかった。
万里は答えない。
「……では金川、もう一度吹くということで、良いですか」
丘が言った。そちらを向き、心菜は頷いた。
「ならば、トランペットのオーディションは明後日に延期します。橋本が喉を痛めているでしょうから、今のままでは公平な審査にならない。全員、それで良いですね」
「はい」
「勘違いしないように言っておきますが、オーディションは単に技術力のみでメンバーを選ぶわけではありません。経験者だから選ぶとか初心者だから選ばないとか、そういう基準で審査もしていません。誰にでも等しくチャンスがあるのです。せっかく延期するのですから、全員、もう一度自分の演奏を見つめ直しなさい」
それで、審査は中止となった。
「古谷、トロンボーンを呼んできてください」
「分かりました」
七人で英語室を出る。
前を歩く万里に、心菜は声をかけられなかった。
そのまま黙って、後ろを歩く。
心菜が、オーディションを滅茶苦茶にしてしまった。その後悔が、心菜の胸に重くのしかかる。
コウキが隣に並んできた。
その顔を見て、一昨日コウキに自分の気持ちを話していれば、こんなことにはならなかったのだろうか、と心菜は思った。
あの時選んだ心菜の選択は、間違っていたのか。
「間違いは、誰にでもある。次にどうするかが大事だ」
「コウキ先輩……」
「誰も、怒ってない。まだ大丈夫だ。心菜ちゃんに出来ることを、全力でやりな」
「私に、出来ること」
コウキが頷く。
万里を傷つけた自分に出来ることとは、何だろう。
音楽室の扉を開けて、中へ入っていく万里。その背中を見ながら、心菜は拳を握りしめた。
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作者にとって何よりも励みになります。
これからも頑張ります!
せんこう




