十ノ二十九 「迫るオーディション」
梅雨で雨が降り続けようと、練習は重ねられていく。
六月はあっという間に過ぎていき、もう明後日には七月になる。そして、その日はちょうど日曜日で、オーディションの日だ。
オーディションが済んだら、それ以降のコンクール用の合奏は、五十五人だけで行われる。そうして、更に演奏を洗練させていくのだ。
課題曲と自由曲は今でも高い完成度になっているけれど、丘の細かな箇所や表現に関する指摘は止まらず、一つの小節、一つの音にまでこだわることを要求されている。
真澄は、日々の練習についていくので精一杯だった。
やはり花田高はすごい。共に吹いていく中で、真澄が抱いた感想だ。
奏者一人一人が自分の役割を自覚して演奏している。丘が絶妙にそれをまとめあげ、一つの巨大な音の塊に仕上げる。そうして出来上がる音楽は、吹いている自分自身ですら胸に来るものがある。
よしみも久也も、真澄からすると本当に優れた奏者だ。真澄は今でも曲中で苦戦する箇所があるのに、二人は丁寧に奏で、ユーフォニアムとしての仕事を全うしている。
きっと、オーディションは真澄が落ちるだろう。
どう考えても、二人には敵わない。定められた人数制限の中で、ユーフォニアムに三人も割くことは出来ないだろうから、必然的に真澄が外れることになる。
真澄はそれでも良かった。花田が全国大会に行くためには、最適なメンバーで臨む必要がある。自分の音にバンドの演奏を濁す部分があるのなら、メンバーになるべきではないのだ。
かつてコンクールで苦い思いをしたよしみには、全国大会に行ってほしい。そして、普門館という最高の舞台で、ソロを吹いてほしい。自分の中の苦しみから、解放されてほしい。
それが真澄の願いだ。そのためなら、自分は後回しで良い。
ただ、よしみは相変わらずソロに苦戦していた。
合奏で吹くことは増えてきた。それでもまだぎこちない演奏で、アルトサックスとのかけあいは微妙なものである。
全体的な完成度は増しているのに、『たなばた』のソロ部分だけが、中途半端なままだった。
久也は個人練習を頑張っているようで、ソロのレベルは上がりつつある。昼放課に、コウキと一緒に練習しているのだという。
今のままなら、久也のソロが選ばれるだろう。どうしてもよしみのソロには迷いや苦しみといった感情が見え隠れしていて、それが音を濁しているのだ。
久也は自分が吹けばよしみを救えると思っている。けれど、真澄はそうは思わない。
よしみは、よしみ自身でソロを乗り越えなくては、きっと救われない。
よしみが思い通りにソロを吹けるようになるには、どうすれば良いのか。
真澄に、出来ることはないのか。
考え続けてきて、まだ答えは見つかっていない。
ただ隣で吹いているしか出来ない自分が、情けなかった。
憂鬱な日々が続いていた。
もう明後日がオーディションで、いよいよ、トランペットパートから誰が選ばれるのかが決まる日が来る。心菜にとって、来てほしくない一日だ。
入部してからの二ヶ月半、それなりの練習で済ませてきた。ばれない程度に手を抜き、目をつけられないように真面目な態度を装った。
それが、心菜なりの部への関わり方だった。
心菜が頑張ることで、誰かから恨まれたり苦しめられるのは、嫌だった。
明後日のオーディションも、手を抜くつもりだ。
心菜にはまだ三年間ある。来年や再来年のコンクールでも間に合うのだ。わざわざ今、他人の席を奪いたくはない。
「心菜ー、帰る?」
部室の棚に楽器ケースを仕舞っていると、千奈が話しかけてきた。
「ごめん。今日は一人で帰るよ。考え事したくて」
「あ、そう。じゃあもうちょっと練習して、真二と二人っきりで帰ろっと」
二人っきりで、のところを妙に強調されて、千奈を睨んだ。
「何それ。帰れば良いじゃん」
「話が弾んで、手繋いじゃったりして」
「なっ」
想像して、嫌な気持ちが沸き上がった。
「何それ!」
「冗談だよ。心菜、分かりやす」
くすくすと千奈が笑う。
「っ~! からかわないでよっ」
「だって、心菜が元気ないんだもん」
「そっ……そんなことないもん」
「別に理由を話したくないなら話さなくて良いけど、そんな顔してると、真二に嫌われちゃうよ」
「あいつは関係ないじゃん!」
「そう? 心菜にとっては大事な問題だと思ったけど」
「もう、うるさい! 私帰るからっ」
千奈の身体を押して、部室から追い出す。笑い声を上げながら、千奈は手を振って去っていった。
また、心菜の反応を面白がっているのだ。いつものことである。真二なんて、別に好きではないのに。
熱くなった顔を手で仰ぎながら、部室を出る。そのまま、階段を下りた。
一階に着いたところで、コウキと正孝が職員室の方から歩いてきた。一日の報告に行っていたのだろう。
「心菜ちゃん」
「コウキ先輩、正孝先輩。お疲れ様です」
「帰るの?」
「はい、もうすぐオーディションって思うと落ち着かなくて、集中出来ないので」
「そっか、一人で? 珍しいね」
「何となくですけど、気分で」
「んー……なら迷惑じゃなければ、途中まで一緒に帰らない?」
「えっ!?」
コウキの予想外の言葉に驚いて、大声を出してしまった。廊下に自分の声が響き、慌てて口を抑える。
「心菜ちゃんとまだゆっくり二人で話したことないじゃん? 少し話したいんだけど。でも、一人で帰りたいならやめとくけど」
「え、え、いや、良いですよ!」
「よっしゃ。じゃあすぐ準備してくるから正門で待っててくれる?」
「はいっ」
にこりと笑って、コウキは正孝と一緒に階段を上がっていった。
コウキと帰る日がくるとは、思ってもいなかった。同じパートの上級生といっても異性だし、格好良くて他の男の子より大人びているから、話すと緊張するのだ。それにコウキは、いつも人の輪の中にいる人気者で、大体毎日、誰かしらと帰っているようだったし、そもそも自転車通学だから心菜とは帰り道が違った。
外に出ると、ぽつぽつと弱い雨が降っていた。
予想外とはいえ、コウキと帰るのは、素直に嬉しい。話とは、何だろうか。
傘を差して校門で待っていると、自転車を押しながら、雨合羽を着たコウキがやってきた。
「お待たせ」
「いえ!」
「じゃ、行こう。帰り道そっちだよね?」
頷いて、歩き出す。
コウキの自転車につけられたライトが、小さく道を照らしている。
「心菜ちゃんは、千奈ちゃんと真二と仲が良いんだな」
「小学校から一緒なんです。チューバの隆も」
「へえ、良いなぁ。俺は隣町の東中なんだけどさ、あそこから花田に来る人は少なくて。同期は智美だけだよ」
「隣町だと、高校の選択肢多いですもんね。花田町の子は、とりあえず近いから花田高に行くんですよ」
「なるほどな。心菜ちゃん、狙おうと思えばもう少し上の高校も行けたんだよな。それなのにうちに来たってことは、近いから?」
「そうです」
「実際、中央中から来てくれる経験者の子はありがたいよ。レベル高い子多いし。今年の一年も、心菜ちゃん含めて四人とも上手いもんな」
「そ、そんな。私なんて、莉子の足元にも及ばないですし」
「んなことないよ。心菜ちゃんは絶対もっと伸びるぞ。高音も綺麗だし」
恥ずかしさで、顔を背けた。褒められて、悪い気はしない。
「コウキ先輩は、教えるの上手ですよね。すっごく分かりやすいです。基礎合奏も楽しいし」
「ありがとう。これでも、色々悩みながらだけどな。ひとり一人に的確なアドバイスをするのって難しいし」
「私は、後輩に教えるのとか苦手です」
「初めはそんなもんだよ。何回も繰り返して慣れていくんだ」
「じゃあ、先輩は経験豊富なんですね」
「そうそう……なんて言ったら自慢だな?」
顔を見合わせて笑った。
緊張するけれど、コウキと話すのは楽しい、と心菜は思った。学校から家までは徒歩で十分ほどしかなく、もうすでに三分の一は歩いてしまった。コウキと話していると、いつもの歩き慣れた距離が、あっという間に感じてしまう。
「そういえばさっき、オーディションが近くて落ち着かないって言ってたけど、それは不安で?」
「あ、いえ……そういうわけでは」
「なら悩みとか? もしそうなら、聞くよ」
「悩み、というか」
心菜は、口を閉じた。中学生の頃の出来事は、気軽に話せる内容ではない。親友の千奈にも話したことはないし、そもそも、他人に話す気はなかった。心菜にとっては、辛い思い出でしかないのだ。
雨音が、耳につくようになった。沈黙は苦手だけれど、雨がかき消してくれる。今は、それがありがたい。
うつむきながらしばらく歩いていると、コウキが口を開いた。
「……実はさ、俺、ずっと心菜ちゃんのこと気になってたんだ」
心菜は思わず自分の耳を疑ってしまい、反応が一瞬遅れた。
「……はいっ!?」
すぐに、コウキの顔を凝視する。至って真面目な顔で、こちらを見ている。冗談ではないらしい。
思考が、めまぐるしく変化しはじめる。つまりそれは、心菜に好意があるということか。そんな素振りを感じたことはなかったのに。いや、嬉しくないのかと聞かれれば嬉しい。けれど、いきなりすぎて困る。それに直球すぎるではないか。もしかして、それで一緒に帰ろうとしたのか。二人っきりを狙っていたということは、あわよくば手を繋いだりを狙っているのか。いや、コウキはそういう人ではなさそうだ。いやいや、澄ました顔をして、大胆な人なのかもしれない。はっ、そもそも付き合って欲しいとは言われていないではないか。でも、今求められたら拒否できるだろうか。
心菜の様子を見て首を傾げていたコウキが、はっとした顔を見せ、慌てだした。
「ごめんごめんっ、言い方が紛らわしかった! いや、そういう意味じゃないんだ!」
固まる。
言われた意味を理解して、一気に顔が熱くなった。
「あっ、あ、そうですよね! あはは、うん、はい! ですよね! ですよね!」
勘違いした自分が恥ずかしくて、死にたくなった。今すぐ、この場から逃げ出したい。コウキを置いて、駆け去りたい。布団に顔を埋めて、叫びたい。
まともにコウキの顔を見ていられず、傘で顔を隠した。
微妙な空気を紛らわすように、コウキが咳払いをする。
「いやあのね、ずっと心菜ちゃんの様子が変だなと思ってたんだよ。それで、何かあるのかと気になってたって意味なんだ」
「そ、そうなんですね。私、変でした?」
「変っていうと言い方が悪いけど……なんかさ、一見やる気はあるように見えるんだけど、でも練習ではあえて手を抜いてるような気がした」
どきりとした。
「心菜ちゃん、本当はもっとバリバリ吹けそうなのに、なんでそんなことしてるんだろうって思って。でも他の子がいるところで聞くようなことじゃないから、今まで切り出せなかったんだ」
「よ、よく見てるんですね」
「まあ俺の勘違いかもしれないし、勘違いじゃなかったとしたら、そんなことをしなくちゃいけない悩みがあるってことだから、あまり他人には聞かれたくないだろうなって。俺にも聞かれたくないかもしれないけど……でも、ほっとけなくて」
まだ出会って日の浅いコウキが、よく気がついたものだ。多分他の人でそれを見抜いているのは、昔からの付き合いである千奈と真二と隆くらいだろう。
千奈達は、付き合いが長い分、心菜が自分の悩みを人に言うような性格ではないことも知っている。だから見抜いていても、事情を深く聞いてこようとはしない。一度、一緒に帰っている時に真二に問い詰められそうになったけれど、あの時は千奈が止めてくれた。
今は、千奈は隣にはいない。
「俺はさ、部員皆がこの部に入って良かった、全力で頑張って良かったって思ってもらえるような部にしたいんだ。誰か一人でも苦しい、辛いって思いながら参加してたとしたら、良い部だとは言えないから」
コウキが言った。
「吹奏楽部ってさ、人数が多いじゃん?」
「……はい」
「それだけ人間関係も複雑で、だから問題も起きやすくて……でも、音楽とは関係のない人間関係の部分で辛い思いをして、音楽や部活が嫌になるなんて、悲しいじゃん。だから、そうなる前に力になりたいんだ」
いつの間にか、家は目の前だった。立ち止まって、向かい合っていた。
「俺のことを信用してもらえるか分からないけど、誰にも言わないと約束する。心菜ちゃんの心の中にある重りみたいなものを、軽くしてあげたい。俺は心菜ちゃんの先輩だから、心菜ちゃんの力になりたいんだ」
「……そんな真っすぐなこと、よくさらりと言えますね」
心菜は言った。
「本気だから」
コウキの目は、嘘をついていなかった。
きっとコウキなら、話を聞いて、心菜のために色々と動いてくれるのだろう。コウキなら、他人にばらしたりはしないはずだし、話しても良いのかもしれない。
けれど、もしコウキが心菜のために動いたら、それがきっかけで、他の人に心菜の気持ちを知られてしまうかもしれない。それは、嫌だ。
「……ありがとうございます、コウキ先輩。気持ちは凄く嬉しいです。でも……ごめんなさい。やっぱり話せないです」
頭を下げる。
「他の人に、知られたくないんです。コウキ先輩がバラすことを心配してるんじゃないです。コウキ先輩は優しいから、きっと私のために色々してくれます。でも、それで他の人にばれちゃうかもしれない。それが、怖いんです」
誰かに嫌われるのは、嫌なのだ。
「でも、コウキ先輩がそうやって心配してくれてるって知れて、私凄く嬉しいです。ありがとうございます」
笑いかけると、コウキは力ない笑みを返してきた。
「先輩が嫌いとかじゃないですから」
「分かってるよ」
「ごめんなさい、先輩」
「良いんだ。無理に聞くことじゃないから」
コウキが少し寂しそうな顔をしていて、胸が痛む。
「……じゃあ、また明日な」
「はい……さようなら」
玄関まで歩き、扉を開ける。入る時に、一度振り向いた。コウキはかすかな笑顔を浮かべたまま、小さく手を振った。心菜も振り返して、そっと扉を閉めた。
コウキに話せば、楽になれたのだろうか。この苦しい気持ちから、解放されたのだろうか。
それは、分からない。
心菜は、言わないことを選んだのだ。だから、やれることはもう一つしかない。オーディションで、誰にも気づかれずに万里が選ばれるように仕向ける。心菜さえメンバーから外れれば、万里が繰り上がるはずだ。そうすれば無駄な争いも起きず、皆が平和に過ごせる。
それで、全て解決する。
「あと二日だもん……」
誰にも、気持ちは明かさない。オーディションさえ終われば、この気持ちからも、解放されるのだ。




