十ノ二十六 「星子とひなた 三」
ひまりと星子が習っているオーボエ奏者の滝沢は、隣町に住んでいた。
星子の話によると、この地域の学生オーボエ奏者で腕に覚えのある子は、そのほとんどが一度は彼女の元を訪れるのだという。
ひなたは今まさに、その滝沢の自宅の居間に案内され、ソファに座っていた。
ひなたがプロの演奏家と会うのは、滝沢が二人目だ。
木管セクションのレッスンをしてくれているクラリネットの蜂谷が一人目で、彼は恐ろしい人だった。初心者にも容赦がなくて、吹きながら耳元で怒鳴られるので怖い。
事前に星子からは、滝沢は真面目に取り組めばしっかりと上達へ導いてくれる先生だ、とは教えられていた。けれど、どんな教え方をしてくれるのかまでは聞いていない。
滝沢も、蜂谷のような感じなのだろうか、とひなたは思った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ、チロちゃん」
隣に座って携帯をいじっていた星子が、苦笑をしながら言った。
「は、はい。でも、プロのお宅でレッスンって不安で」
「すぐ慣れるよ」
星子が紹介してくれたことで、ひなたも今日から滝沢の指導を受けることになった。
土曜日で、他の部員は練習をしている時間である。丘やリーダーには事情を伝えて、午前の練習を休んで来ている。
通常は滝沢と生徒の一対一のレッスンのところを、星子とひまりの後輩であるということで、初回の今日は、特別に星子も交えてレッスンをしてもらえることになった。
個人レッスンを受けたことがないひなたにとっては、ありがたい。
「それじゃあ、気を付けて帰ってね」
「はい、ありがとうございました」
居間から続く防音室の扉が開いて、滝沢と学生が出てきた。制服からして、中学生だろう。
「お先に失礼します」
こちらに気がついた学生が、ひなたと星子に向かって頭を下げる。
星子が優雅に頭を下げたので、ひなたも真似をした。
居間の扉から、学生が出ていった。
「二人とも、お待たせね」
「こんにちは、滝沢先生」
立ち上がって、星子が微笑んだ。慌ててひなたも立ち上がり、頭を下げる。
「一ツ橋さんね。星子ちゃんから聞いています」
「は、はい。よろしくお願いします」
「それじゃあ、早速始めましょうか。中に入って」
滝沢が防音室の扉を開けて、招いてくる。星子の後に続いて、ひなたも防音室へと入った。
防音室に入るのは、初めてだった。中は三畳ほどの広さで、端にアップライトピアノと机が置かれている。
「椅子に座ってて。ちょっと席を外すから、その間に楽器を準備しておいてもらえる?」
「分かりました」
促され、中央の椅子に座る。
扉が閉まると、外の音はほとんど聞こえなくなった。
「付き添いだけど、私も出しとくかなあ」
言って、星子が楽器を組み立て始める。ひなたも、持ってきた自分の楽器を組み立てた。
心臓が、どきどきと音を立てている。
どんな練習をするのだろう。滝沢はどんな人なのだろう。疑問が次から次に浮かんできて、思考がまとまらない。
不意に頭を撫でられて、横を見た。
「大丈夫だよ、チロちゃん。怖くないから」
星子に優しく微笑みかけられる。その微笑みを見ていると、少しだけ気分が落ち着いた。
「……ありがとうございます、星子先輩」
「うん」
楽器の準備が終わった頃に、滝沢が戻ってきた。
「お待たせ。それじゃあ、始めましょう」
「よろしくお願いします」
「一ツ橋さんは、高校からオーボエを始めたんだってね」
「そうです」
「難しいでしょう、オーボエは」
「……はい」
「でも大丈夫。適切に練習を続ければ、オーボエは必ず応えてくれる完成された楽器だから。その適切な練習方法は、私が教えます」
滝沢の穏やかで自信に満ちた物言いに、ひなたは少しだけ安心感を覚えた。
年齢は三十歳後半から四十歳くらいだろう。長い黒髪を編み込んでいて、すらりとした身体は細身のワンピースに包まれている。ひなたの漠然と抱いていた音楽家のイメージそのものといった感じの女性だ。
「それで……最初に聞きたいのは、一ツ橋さんは、どんな目的で私のレッスンを受けに来たの?」
「え、っと」
星子を見る。
自分で答えなさい。星子の目がそう言っている。
「上手く……なりたくて。私は、私が下手なせいで部員の皆に迷惑をかけています。それが、嫌で」
「そう。仲間想いなのね」
「い、いえ……」
「他人を想うのは大切な気持ちよ。音楽は決して一人ではできないもの。ソロを専門とする音楽家だって伴奏者やオーケストラを必要とするし、そもそも聴いてくれる人がいなければ音楽を届けられない。仲間を想う気持ちを持っているのなら、大丈夫、きっと上手くなれるわ。一緒に上達していきましょう」
「は、はい」
「普段から、何か目標のようなものはあるの?」
聞かれて、ひなたは大きく頷いた。
「ひまり先輩みたいになりたいです」
吹奏楽部を選んだのは、ひまりの演奏に出会ったからだった。ひまりは、ひなたの理想の姿だ。ひまりのような美しい演奏を出来るようになりたい。
「む……そこは星子先輩みたいになりたいって言うところだよ、チロちゃん」
「あっ……」
星子に睨まれる。
滝沢が、口元を隠しながら笑い声をあげた。
「二人は仲が良いみたいね」
指摘されて、星子が頬を染めた。
「ま、まあ先輩と後輩ですから」
「あの周りは全員敵みたいな態度だった星子ちゃんが、後輩を可愛がるなんてね」
「それはっ、昔の話です」
恥ずかしそうに、星子が顔を逸らす。
星子の過去の話は聞いていた。星子にとっては、周りの奏者全てが見返すべき相手だったのだ。
「うん、良い目標だと思うわ、一ツ橋さん。ひまりちゃんは特別な子だから、彼女のようになるにはとても大変だけど、目指すことが最初の一歩だものね」
「……はい!」
「じゃあ、まずは基本的な部分から見ていきましょうか。上達のためには基礎が何よりも大事だから、最初のうちはそこを重点的にやっていきましょう」
言いながら、滝沢がスタンドに立てていた自分のオーボエを手に取った。
いよいよ始まるのだ、とひなたは思った。
ひなたは、下手なことを部員に嗤われたのが悔しかった。それ以上に、部員にそうさせてしまう自分が嫌だった。一日でも早く、足手まといの自分から変わりたい。星子やひまりのように、部にとって必要不可欠な奏者になりたい。
ひなたの家は裕福ではない。オーボエは消耗品の購入で常に金がかかるのに、そのうえレッスンまで受けるとなれば、家計への負担は大きいはずだ。
それでも受けさせてくれた両親のためにも、このレッスンの時間を大切にしたい。
先程まで緊張で固くなっていたひなたの心は、今、静かに燃えていた。
ひなたの初レッスンが終わり、星子の母親が運転する車で花田高へと戻っていた。今からなら、ちょうど昼休憩に入るくらいの時間に着くだろう。
滝沢の指導を受けたひなたは、気持ちが昂っているのか、星子に次から次へと話を振ってきている。
それに適当に受け答えをしつつ、星子は車の外の景色を眺めていた。
レッスンが終わり、ひなたがトイレに行っていた時に、滝沢と会話をしたことを思い出す。
「初心者を教えるのは、大変でしょう、星子ちゃん?」
「はい。何から教えれば良いのか、って感じです」
「でしょうね。でも、決して見捨てては駄目よ。初心者の指導は確かに難しいけど、必ずあなたにとってプラスになるから」
「それ……ひまり先輩にも言われました」
くすりと、滝沢が笑った。
「ひまりちゃんも人に教えるのは苦手な子だったの。でも、あなたが花田高の吹奏楽部に入部して、ひまりちゃんはあなたに教えるようになった。それで、色々学べたみたいね」
「ひまり先輩が」
滝沢が頷く。
「音楽をするっていうのはね、人を育てるってことなの。音楽を奏でるのが楽しいと思う人を増やすことで、未来に音楽が続いていく。後に続く人がいなかったら、音楽は私達の代で消えてしまうもの。あなたも音楽家の一人なのだから、一ツ橋さんを導いてあげなさい。それは、あなたにとって力にもなるから」
「……やってみます」
人に教えるのは、苦手だった。ずっと自分の練習だけに力を注いできたからだ。けれど、ひまりもこの道を通ったというのなら、ひまりを超えるために、星子もやらなくてはならないだろう。
「……星子先輩?」
ひなたに話しかけられて、はっとした。
「ごめん、何だった?」
「あの、ありがとうございます、滝沢先生に紹介してくださって」
「ああ、うん、良いよ気にしないで」
「私、頑張ります。早く上手くなりますから」
健気で、可愛い子だ、と星子は思った。
「焦んなくて良いよ。まだチロちゃんには三年間あるんだから」
頭を撫でると、嬉しそうにひなたが目を細める。
現実的に考えれば、ひなたが今年のコンクールでメンバーに選ばれることはないだろう。来年も微妙だ。一人でもオーボエの経験者が新入生に入ってくれば、ひなたは先を越されてしまう可能性が高い。
ひなたには、厳しい道が待っている。
けれど、小学校のミニコンサートの日に見せたひなたの涙は、かつての星子を思い起こさせた。だからひなたには、負けないでほしいと思う。
努力を続ければ、三年生になった頃には、コンクールのメンバーになれる可能性はある。
滝沢に言われたように、ひなたを導いてやりたい。
それは、先輩としての星子の務めだろう。
「一緒に頑張ろうね」
「はいっ」
歯を見せて笑うひなたに、星子も笑顔を返した。
近いうちに作品のタイトルを変更いたします。




