十ノ二十一 「マゼランの見た空」
煮詰まった空気を入れ替えたくて、音楽室の窓を開けた。
風が入り込んできて、カーテンが揺れる。爽やかで、少しの熱っぽさを感じる外のにおい。胸いっぱいまで吸い込み、それからゆっくりと吐き出す。
五月の空気だ、と華は思った。
呼吸と一緒に、心の中のもやも抜けていく気がする。
心を落ち着けて、トランペットを持つ両手を上げた。マウスピースを、口元へと運ぶ。金属のひんやりとした冷たさが、唇に伝わってくる。
暗譜した一つの旋律を頭の中で再生し、出したい音のイメージを作り上げる。
そして華は、ゆっくりと息を吸い、トランペットへと流し込んだ。
自由曲として演奏する『マゼランの未知なる大陸への挑戦』。その、トランペットソロ。
空を、思い浮かべる。雄大で、どこまでも続いている青空を。そして、音で、表現する。
窓の外へ抜けていく自分の音を聴きながら、華は思った。自分は、この音をどこへ届けようとしているのか、と。
まだ、未完成のソロだった。
構えを解いて、ため息をつく。
ただ何かを想像し、それを表現しようとするだけの演奏では、このソロには足りない。
「凄い」
後ろで拍手が鳴って、華は振り返った。
「洋子ちゃん。いたんだ」
「うん、華ちゃん集中してるみたいだったから、声かけづらくって」
「聞いてたの? 恥ずかしいなあ」
「そんなことない。凄く良いソロだったよ」
華は、トランペットの中の水を、雑巾に抜いた。
「全国大会に行くなら、こんな音じゃ駄目だよ」
「綺麗な音だったけど」
「綺麗なだけじゃ、足りない。もっと良くしなきゃ」
この曲は題名の通り、自身の率いる艦隊が世界一周を果たした探検家マゼランにちなんだ曲だ。マゼランは、史実では航海の途中で命を落としているけれど、もし彼の魂がこの世に留まって世界一周を続けたとしたら、一体どんな景色を見ただろう、という想像を元に作られている。奥深く、壮大な曲なのだ。それを、ただ綺麗な演奏で済ませて良いはずがない。そんなもので、この曲は表現しきれない。
「……私は、華ちゃんのソロを聴いてたらね」
隣に来て、洋子が言った。
「青空が思い浮かんだよ」
「……え」
「マゼランが見た空も、こんな空だったのかなぁっていう青空が」
呟いて、洋子がはにかんだ。
「変かな」
「……ううん……洋子ちゃんの言う通り、私、さっき青空をイメージして吹いた」
洋子の顔が、輝く。
「ほんと? なら、ちゃんと伝わってきたよ」
「……けど……もっと、心にぐっとくる何かが無いと……聴いた人が、涙を流すような……じゃないと、皆を引っ張れない」
「皆を?」
「うん。それが、ソロの役目だもん」
全国大会を目指そうと決めてから、部内は一つにまとまっていた。新たに入部した一年生も、懸命に上級生の練習についてきてくれている。
今までの東中とは違う。全員が、同じ方向を見ている。
それをさらに確実なものとするためには、華のソロの完成が必要だ。
「圧倒的な表現力で、部員の気持ちを鼓舞するようなソロ」
東中は本当に全国大会に行けるのかと、一部の部員はまだ不安を抱いている。だから、華のソロがあれば大丈夫だと、そう思わせたい。
「そっかあ。やっぱり華ちゃんは、私達とは見てるところが一歩も二歩も違うね」
「……部長として、責任を果たしたいから」
「私も、副部長として頑張らなきゃ。全国に行くんだもんね」
「うん」
東中は昔は県大会に出たこともあるらしいのに、今では、地区大会でぎりぎり金賞を取れるか取れないかくらいの、万年弱小校だ。そんな学校が全国大会など不可能だと、他人は嗤うかもしれない。
それでも良い。他人がどう思おうと関係ない。華達は、華達に出来ることをする。そうすれば、結果はついてくる。
全て、結果で示せば良い。そのために、一日でも早くソロを完成させてみせる。皆が、自信を持てるように。
「そういえば、今日進路相談があったじゃん」
洋子が言った。
「あ、うん」
「先生に、怒られちゃった」
「どうして?」
「私、花田高に行くつもりだから。あなたは頭が良いから、もっと上の学校を目指しなさい、って」
「ああ」
洋子は、前からコウキが居る花田高へ行くと、宣言していた。
「気にすることないよ。自分の行きたいところへ行くべきだと思う」
「うん。私も変えるつもりはないよ。お父さんとお母さんにも言ってあるし」
「なら、大丈夫だね。洋子ちゃんなら、勉強しなくても合格出来るよ」
「……華ちゃんは? 華ちゃんは、どこの高校に行くの?」
「私?」
「うん……ずっと、気になってたんだ。教えてもらえてないから」
まだ、誰にも伝えたことはなかった。今日の進路相談でも、教師が薦めてきた高校の資料を眺めながら、曖昧に濁した。
志望校を明かせば、反対されることは分かりきっている。自分の意思で行くと決めた高校だ。他人に、否定されたくはない。
「私にも、言えない?」
洋子に見つめられて、華は息を呑んだ。
私も否定すると思ってるの。洋子の瞳が、そう訴えかけているような気がした。
友達じゃないの、私達。洋子の口は動いていないのに、そう言われた気がした。
首を振って、洋子を見つめ返す。
「ごめん、洋子ちゃんにまで秘密にすることじゃなかったね」
言おう、と華は思った。
「……私も、花田高に行くよ」
一瞬の間があって、洋子の目が見開かれた。
「そう、なの?」
「うん。私も洋子ちゃんと同じ理由。コウキ先輩がいるから、花田に行く」
「え」
「あ、好きだからとかじゃないよ。私にとって、師匠みたいなものなんだ、コウキ先輩は」
コウキは、生き方や考え方のような部分に関して、誰よりも深いところまで考えている人だ。コウキと話していると、音楽と関係のない話題であっても、自然とそれがヒントとなって、演奏の解決に役立つことが多かった。
コウキの言葉が、華の思考を深め、広げてくれる。ただがむしゃらに技術の追求をしていた頃より、華は成長した。プロのレッスンを受けるとか強豪校へ行くとか、それら以上にコウキと話し、その考え方に触れることが、華にとって必要だと確信している。
「そっか」
「うん。ごめん、言うの遅くなって」
「ううん。驚いた……けど、じゃあ高校でも一緒にいられるんだね」
「そうなるね。嬉しい?」
ぶんぶんと、洋子が首を縦に振る。
「勿論! すっごく嬉しい! 私ね、高校でも華ちゃんと一緒にいられたらって思ってたんだ。だから……えへへ、良かった」
洋子の笑顔。それを見ていると、肩の力が抜けた。
洋子が、華の意思を否定するはずがなかった。分かっていたはずなのに疑ってしまっていた自分を、華は恥じた。
安川高校の全校生徒は、千二百人近い。その一割以上が吹奏楽部員であり、毎年各種の大会で優秀な成績を収めているため、安川高校の中で、吹奏楽部は特別扱いされている。
練習のために空き教室を使いたい時は、他の部活動よりも優先されるし、校内のどこで吹いていようと、文句を言われることはない。学校全体が、吹奏楽部を中心に動いている。
しかし、顧問の鬼頭はそれで優越感を感じたり他の部活動を見下すようなことを、厳しく禁じていた。
生徒の自主性を重んじ、自由を保障するという校風に従って、部員を五名以上確保すれば、自由に新しい部活動の創設が出来る制度があるため、安川高校は必然的に部活動の数が多く、五十は超える。
生徒一人一人が自分の行いに責任を持ち、他人の自由を尊重する行動をしてきたから、今の校風が存在している。歴史のある部活動だからとか、実力のある部活動だからとかで、他部の活動を邪魔することは、権威を笠に着る下劣な行いである、と鬼頭は言う。
クラリネットパートはコンクールチームだけで、十九人いる。その全員が一斉に音を出せば、たとえ木管楽器といえど、それなりの騒音にはなる。だから、なるべく他の部活動の邪魔にならないよう、練習室は音楽室の傍の空き教室を使う。
冷房が設置されているため、窓も扉も閉め切って、音が漏れないよう配慮して吹くのが決まりだった。
「もう一度コラールを合わせるぞ。三音担当は特に音程を意識しろ」
「はい!」
パートリーダーの修斗が、メトロノームを鳴らす。全員がクラリネットを構え、修斗の合図で、コラール曲を吹く。
安川高校では、各パートに専用の練習曲が用意されている。派手な曲ではないが、旋律の歌い方、ハーモニーや速度の変化、音程といった総合的な音楽技術の向上に役立つ。
優秀な顧問である鬼頭がいるため、練習は鬼頭の指導が中心なのだろうと他校からは思われているが、実際は違う。パート練習での、徹底したコラール曲と基礎練習の反復によって、基礎技術の確立と合奏力の向上を実現しているのだ。
つまり、各パートリーダーの指導力と統率力が重要であり、毎年、パートリーダーの選出には鬼頭と三名の副顧問、各セクションの指導コーチが集まって行われる。
修斗は、部長を務めると同時に、コンクールチームをまとめるコンサートマスターであり、パートリーダーでもある。陽介とは別格の、雲の上の存在だ。
陽介は、練習についていくだけで精一杯である。
「陽介、今の三音、お前だけズレているぞ。気をつけろ」
「すみません」
「戻ってCから合わせる」
再び、全員で吹く。修斗のパート練習は、ひたすら吹き続けるのが特徴だ。その中で発生する問題を、修斗の抜群の耳が的確に捉え、指摘し、改善していく。手を抜けばすぐに修斗に気づかれるから、常に全力の演奏になる。集中力を途切れさせたら、他の部員に迷惑がかかるし、ひと時も気を抜けないのが、クラリネットパートの練習だった。
一時間ほど徹底的にコラール曲を演奏し、休憩となった。ぐったりと椅子にもたれる者、机に突っ伏す者、水筒の飲み物を一息に飲み干す者。全員が疲労を見せる中、修斗だけは平然とした表情をしている。
たった一学年違うだけなのに、陽介と修斗の差は大きい。陽介が、来年の今の時期になったとしても、修斗のレベルにたどり着けている気がしない。
大きく息を吐き出して、陽介は練習室を出た。
トイレを済ませ、廊下へ出ると、階段から話し声が聞こえてきた。
「それは本当か、恵奈?」
修斗の声だった。一緒にいるのは、マーチングチームのドラムメジャーを務める山内恵奈のようだ。
「うん。修斗にだけは、知っておいてもらった方が良いかと思って」
「鬼頭先生が……?」
「お母さんが通院してる病院でね、見かけたらしいんだ」
どきりとした。話の内容に不穏な気配を感じ、陽介は忍び寄るように傍に寄って、聞き耳を立てた。
「そんな様子は、見かけたことが無かったが」
「私も。でも、確かに最近の先生、マーチング指導の時に椅子に座ってることが増えたかも」
「言われてみれば、こっちでもそうだな。指導は相変わらず厳しいが、座って指揮することが多い」
鬼頭の体調に、何かあったのだろうか。
「先生に、直接聞いた方が良いかな」
「……そうだな。問題があるのなら、対策すべきだしな」
「一緒に来てくれる?」
「ああ。なら、パートに伝えてくる」
はっとした。聞き耳を立てていたことがばれてしまう。慌ててその場を離れようとしたが、間に合わず、修斗に見つかってしまった。
「陽介。聞いていたのか」
「す、すみません。声が聞こえてきたので、気になって」
修斗の後ろから、恵奈が顔を覗かせる。
「陽介君。いけないんだ、そういうの」
「すみません……」
恵奈が笑った。
「冗談だよ。こんなとこで話してた私達も悪いから」
「あの、鬼頭先生、どこか悪いんでしょうか」
「分かんない。それを聞いてみるから、他の子には言いふらさないでね?」
「はい、それは勿論」
「ちょうどいい。陽介からパートに伝えておいてくれ。しばらく自主練だ」
「分かりました、修斗先輩」
「行くか、恵奈」
「うん」
じゃあね。
恵奈が手を振って、修斗と共に階段を下りていった。
胸の中に生じた、かすかな不安。陽介は、首を振ってそれを追い払おうとした。鬼頭はもう六十を超えている。それなりの年齢だから、少し体力的に大変なだけだろう。病院だって、誰でもちょっと行くことくらいある。
きっと大したことはない。自分にそう言い聞かせ、陽介は練習室へと戻っていった。




