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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校二年生・オーディション編
206/444

十ノ二十 「星子とひなた 二」

「はい、どうぞ、チロちゃん。お水で良い?」

 

 ペットボトルを星子から手渡され、頭を下げる。


「……ありがとうございます。お金、払います」

「良いよ、奢り。今日、あっついね」


 花田高の校舎の中央にある渡り廊下の一階部分は、全てコンクリート製だ。中庭と繋がる出入口に扉はなく、窓も常に全開にされているため、ほとんど外にいるのと変わらない。

 校内唯一の自販機は、そこにあった。自分の分の水を自販機から取り出すと、星子は蓋を開けて飲み始めた。白く細い喉が、時折音を立てながら動く。

 ひなたも、手渡された水を少しだけ飲んだ。冷んやりとした水が、身体の中に染みこんでいく。


 星子が、開けられている窓の外に目を向けながら、髪をかきあげた。その仕草が妙に大人びていて、ひなたはどきりとした。たった一歳しか歳が違わないのに、そうは思えない色っぽさがある。


「……あの、部室に戻らなくて良いんですか? 皆、待ってるんじゃ」

「良いよ。リーダーには言っておいたから。ちょっと休も」


 バットが球を打つ、特徴的な金属音が聞こえた。運動場で野球部が試合をしているようだ。誰かがヒットさせたのか、歓声が上がっている。

 

「誰かに、何か言われた?」


 言い当てられて、固まった。

 星子が、ゆっくりと近づいてくる。白く透明感のある手がひなたの頭に置かれ、優しく撫でられた。


「話すと、楽になることもあるよ」


 優しい眼差しを向けられて、ひなたはまた泣きそうになった。

 涙が出るのを堪えて、息を吐く。

 心を握り潰されるような浩子のそれとは正反対の、あたたかな声色。普段の星子からは想像もつかないような、慈愛を感じさせる態度である。

 こういう面も、星子にはあるのだ、とひなたは思った。


「……誰にも、言わないでもらえますか?」

「約束する」

「……竹本さんに、私の音はチャルメラみたいだ。キツイから、もっと目立たないように小さい音で吹け、って言われました。バンドの音を濁してる、って……私、言い返そうと思ったのに、何も言い返せなくて、悔しかったです。だって本当のことだから。私が下手だから、馬鹿にされるんです。でも……」


 思い出すと、また悔しさがこみあげてくる。手の中のペットボトルを握りしめた拍子に、変形する音が短く鳴った。


「でも、何でそんな風に言われなきゃいけないんだろうって、悲しかったです」


 同じ部に所属する部員なのに、こんな気持ちを経験しなくてはならないのか。

 仲間、ではないのか。


 星子の身体が、もう一歩ひなたに近づいてくる。


「え」


 突然だった。やわらかな身体に、包まれていた。

 何が起こったのか、すぐに悟る。背中に腕を回され、さすられている。


「そんなことがあったんだね。気づいてあげられなくて……ごめん」


 星子の声が、耳元でする。


「せ、先輩」

「辛かったね」


 短い言葉。それでも、ひなたの緊張の糸を切るには充分だった。

 身体が、震えた。気がつくと、星子の腕の中で泣いていた。抑えていた感情が溢れて、止まらなくなる。

 ひなたが泣きじゃくる間、星子は抱きしめたまま、頭と背中を撫でてくれていた。






 

 誰かに抱きしめられ、撫でてもらう経験など、人生でそう何度もあることではないだろう。ひなたは、小さい頃に親にされたくらいだ。

 星子の腕も、身体も、香ってくる甘いにおいも。全てが優しくて、ひなたの冷えて固くなっていた心を溶かした。


 ずっと、強がっていただけだった。浩子や海は、表立ってではなくとも、以前からひなたに対してああいう態度を見せていた。他の部員の中にも、ひなたの音に対して顔をしかめる人はいた。


 それを、全て笑って済ませていた。時には、気がついていないふりをして。

 今は下手なのだから、疎まれても仕方がない。自分が音に対して鈍感だから悪いのだ、部員は何も悪くない、と言い聞かせてきた。

 本当は、辛かった。そんな顔をされるのも、させてしまう自分も、嫌だった。


 鼻をすすって、星子の鎖骨の辺りに手を触れる。


「ごめんなさい、星子先輩。制服、汚しちゃって」


 星子の制服に、ひなたが流した涙の跡がついている。


「そんなの、気にしなくていいから」


 頭を撫でられ、また涙が滲んでくる。


「……少しだけ、私の話してあげる」

「……星子先輩の?」

「うん。私もね、小学生の頃に同じ経験をしたよ」

「え」

「隣町の学生向けのオーケストラに、一時期入団してたことがあったの。初心者でもレッスンを受けながら学べるオーケストラでね。私がオーボエを始めたのは、そこがきっかけ。でも、私も最初は下手だった。なのに、周りのオーボエは上手い子ばっかりだった」


 考えてみれば当たり前のことなのに、星子にも下手な時期があったのか、とひなたは思った。


「私も、嗤われた。陰で下手って言われたりもしたよ。悔しすぎて、めっちゃ泣いた。泣いて、泣いて、全員負かすって決めた。親に頼み込んで、プロのオーボエ奏者のレッスンに通わせてもらうことにした」


 ふ、と星子が笑った。


「先生のレッスンを受けながら、家でもずっと練習して……中学に上がる頃には、オーケストラの中で私が一番上手くなってた。それで、誰も私を嗤わなくなった。あの悔しい経験があったから、私は私が下手なのを許せないし、誰よりも上手くあろうとしてきた。まあ、レッスンの先生の家でひまり先輩に出会って、格の違いを思い知ったんだけど」

「ひまり先輩も、同じ先生に?」

「そう。中学の時から、ひまり先輩は別格でね。高校生になってからは、この地区の同年代で、ひまり先輩のことを知らないオーボエ奏者はいないって言われてる」

「そんなに」

「私は、ひまり先輩を尊敬してる。でも同時に、ひまり先輩を超えたい。ひまり先輩を超えたら、本当に私は誰よりも一番になれる。私を嗤う人は、誰もいなくなる」


 また、星子の手がひなたの頭を撫でた。くすぐったいような、もっとしてほしいような、甘く痺れるような感覚が、頭や首筋を駆け巡る。


「チロちゃんから、私がどう見えてるかは分かんないけど、私も同じだよ。下手で、弱くて、悲しかったり悔しかったりですぐ泣く。人前では、絶対にそんなところ見せないけどね」

「星子先輩」

「今日の悔しさも悲しさも忘れないでね、チロちゃん。そう感じるってことは、チロちゃんはもう、音楽を好きになってるってことだから。本当に夢中になれてるから、涙が出るんだよ。自信を持って良い。もうチロちゃんは、一人前だから」


 その言葉が、ひなたの中の何かを、刺激した。


「……ひなたちゃん」


 星子が、あだ名で呼ぶのをやめた。


「はい」


 身体を離してから、まっすぐに見つめられる。ひなたも、逸らさずに見つめ返した。


「ひなたちゃんも、プロのレッスン、受けてみる? 今のひなたちゃんなら、きっと実りのあるレッスンに出来ると思う」

「……私が、プロの?」


 星子が、頷いた。


「蜂谷先生のセクションレッスンは受けてるよね」

「はい」

「あれも良いけど、オーボエの一から十までを知り尽くすには、専門の先生に習った方が良い。私とひまり先輩が受けてる先生は、本当にすごい人だから。お金はかかるけど、ひなたちゃんが本気なら、受ける価値はあると思う」


 星子の手が、ひまりの肩をつかんだ。


「一緒に、上手くなろう」

「……はい」


 即答していた。


 ひなたに、プロの指導を受ける資格があるのかは分からない。けれど、受けたい、と思った。

 変わりたい。下手なままで、いたくない。 


「……私も、私の個人的な感情でひなたちゃんを囲うのはやめる。ごめんね。私がひなたちゃんの成長の邪魔をしてた」

「そ、そんな風に思ったことないです」

「ううん。ひなたちゃんは、コウキ君の指導も受けた方が良いと思う」

「コウキ先輩の?」

「……コウキ君は、私とは正反対の、善意の塊みたいな人間なんだよね。そこはいけ好かないんだけど、でも、コウキ君の指導力は本物。私じゃ気づけないひなたちゃんの癖とかにも、きっとコウキ君なら気づく。そういうちょっとした気づきが、自分の演奏技術を大きく向上させることもあるの。私からも、コウキ君に頼んでみる」


 星子が、笑いかけてくる。綺麗な笑顔だ、とひなたは思った。


「これからも、頑張れそう?」


 ずっと、星子を怖い先輩だと感じていた。苦手という訳ではないけれど、ひまりと比べると、気を遣って接する必要のある人だろう、と。

 そんなことはなかった。星子にも優しさはあり、ひなたと同じように悩むこともある、普通の人だった。

 この人の下でなら、もっと頑張れる、とひなたは思った。


「はい」


 ひなたは、強く頷いていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 同年代で、コウキの事を好ましく思って無かったんだろうな。 と思っていた唯一の存在が、しっかりとコウキの存在は認めていた事。 そしてそんな彼女の心の強さと優しさがより現れる所。 コウキとい…
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