十ノ十七 「金川心菜」
学校からの帰り道、千奈と心菜がファッションの話題で盛り上がっているのを、真二は黙って聞いていた。聞き慣れないカタカナの単語が飛び交っていて、訳がわからない。
真二は、ファッションの話には微塵も興味がなくて、自分の服すら母親に買ってもらっている。自分のことでさえそうなのだから、女子のファッションなど最早、異国の文化くらい未知の領域だった。
楽しそうに話している二人が、お洒落なのかどうかも真二は知らないし、知る機会も無かった。ずっと同じ吹奏楽部とはいえ、一緒に遊んだことがあるわけではない。せいぜい、こうして一緒に帰るくらいだ。
「真二、話聞いてんの?」
「え」
「だから、これからの季節はミニスカートと短パンだと、どっちが可愛いかなって話」
「聞いてなかった」
「んもう! どっち?」
「どっちって……ま、まあスカート、かな」
「ふーん、そっか」
「俺にも話してたのか、心菜?」
「当たり前でしょ。なんのために一緒に帰ってんのよ」
「そりゃ、心菜が一緒に帰りたいからでしょ」
千奈が言った。
「ばっ!? 馬鹿なこと言わないでよ!」
「違うの?」
「ち、違う!」
「へー、あー、そうなんだ。ふーん、私はてっきり」
「千奈!」
何だ、このやりとりは、と真二は思った。
「心菜、顔が赤いよ」
「あっ、か、くない!!」
心菜の大声が路上に響く。
「もう、からかわないで!」
「はは、ごめん」
「でかい声だすなよ、心菜。近所迷惑だろ」
「う……」
「怒られてやんの」
千奈が肩を揺らしながら笑って、心菜が頬を膨らませた。
「千奈、性格悪い。だから北川さんと竹本さんに嫌われるんだよ」
「えー、あれは、あの二人が勝手に嫌ってくるだけじゃん。それに心菜以外には優しいもん」
「何で私には優しくしないのよ」
「面白いから」
心菜の握った拳が飛び、千奈が真二を身代わりに差し出した。拳が、真二の肩に直撃する。
「いてえ! なんで殴るんだよ!」
「あ、あんたを叩こうと思ったわけじゃないよ! それに力入れてないじゃん!」
「まず謝れよ!」
「ご、ごめん」
「すぐ手を出すなよな」
「あはは」
なおも笑う千奈。心菜と二人で、睨みつけた。
千奈は真二達といる時だけ、こどものように悪戯やからかいを仕掛けてくる。小学生の頃からそうで、大抵、心菜がひっかかるのだ。他の人の前では、千奈はこんな風に無邪気にはしゃいだりはしない。
「ったく……俺は今ソロのことで頭がいっぱいなんだよ」
心菜が首を傾げる。
「ソロって、『たなばた』の?」
「そうだよ」
自由曲として決まった『たなばた』には、アルトサックス、ユーフォニアム、トランペット、トロンボーンにソロがある。トロンボーンは極短いものだが、それでも貴重なソロである。
「俺にもチャンスがあるんだから、当然吹きたい。どう吹こうか考えてるんだよ」
「えー、理絵先輩か美喜先輩が吹きそうだけど」
「二人にも勝つんだよ! 一年だからって遠慮するこたないだろ」
「頑張るねえ」
「お前だって、トランペットソロあるじゃんか、心菜」
心菜が肩をすくめた。
「私は、やらないよ。どうせ最終的なパートもセカンドだろうし」
「多分、セカンドだろうとサードだろうと、ソロのオーディションには参加だぞ」
「マジ? 嫌なんだけど」
「なんでだよ?」
「練習するだけ無駄じゃん。ラッパは逸乃先輩か月音先輩だよ。大穴でコウキ先輩か。莉子も上手いし、私なんて絶対ソロに選ばれないもん」
「やってみなきゃ分かんないだろ。悔しくないのかよ、吹けなくて」
「……別に」
「弱気だな」
む、と心菜が睨んできて、慌てて口を塞いだ。
さっきまで笑っていた千奈まで黙ってしまって、場に沈黙が流れる。
三人の靴音だけが、夜の道に響いている。真二は、何気なく空を見上げた。月が輝いている。満月だ。遮る雲がないから、はっきりとその形が見える。
だから今日は道が明るかったのか、と真二は思った。
月に照らされた心菜の横顔を、盗み見る。目線を地面に落としながら歩いていて、どこかすっきりしないものを感じさせる。
心菜は、何を考えているのだろう。
昔から、心菜のやる気が足りないところが不満だった。マーチングバンドの頃は、こんな風ではなかった。中学生のある時期くらいから、心菜はこうなった。
頑張れば、心菜はもっと伸びるはずだ。音だって、良い音をしている。真二と心菜なら、金管セクションの中心になれるはずなのに。
「何で、頑張らないんだよ、心菜」
つい、口にしていた。
「……何、急に」
「お前、中一くらいまですげえ頑張ってたじゃん。中二くらいからやる気なくなってきて……なんでそんな風になっちまったんだよ」
心菜の表情が、変わった。
「……真二には……関係ないじゃん」
「何っ」
瞬間的に、気が昂った。関係ないと、言われたくなかった。これでも、心菜のことは仲間だと思っているのだ。それなのに。
心菜が足を止め、唇を噛みしめた。
「私には、私の事情があるんだよ」
「お前……!」
だったら、話してくれないと分からないじゃないか。言おうとしたところで、千奈が腕を掴んできた。
「真二、もういいじゃん。ここ、道だよ」
はっとした。近くの民家の犬が、激しく鳴いている。
「……悪い」
ただ、心菜にやる気を出してほしいだけだった。その想いは、口には出来なかった。拒否をされたのに、言えはしない。
「俺、今日は一人で帰るわ」
「あ……」
「またな」
小道に入って、二人とは別れた。遠回りになる道だが、二人と気まずい雰囲気のまま帰りたくはなかった。
狭い路地を、黙々と突き進んでいく。
心菜がやる気を出してくれない理由は、考えても分からない。中学校で何かがあったのかもしれないが、真二は何も聞かされていない。
五年近く一緒にやってきたのだ。少なくとも、真二は心菜と千奈と隆のことを、大切に思っている。何かあったなら、頼ってほしかった。
心菜にとって、真二達は頼る相手に値しないのか。
「何なんだよ」
心がざわつくのを振り払いたくて、真二は道に転がっている小石を、思い切り蹴飛ばした。
トランペットを始めて吹いたのは、小学三年生だった。父親が吹いていて、それを吹かせてもらった。吹くと父親が褒めてくれるのが嬉しくて、吹き続けるようになった。
四年生から、マーチングバンドに所属した。そこには、逸乃もいた。当時の逸乃はとても下手で、今の逸乃からは想像もつかない音だったのを覚えている。
心菜も人のことを言えた演奏ではなかったけれど、皆と一緒に吹いて合わせるのは、楽しかった。
両親は、本番の度にカメラで心菜を撮影して、後で見せてくれた。一緒に映像を見ながら、世界一可愛くて格好いい自慢の娘だ、といつも言ってくれた。
もっと頑張りたい。
もっと褒めて欲しい。
もっと両親に見て欲しい。
心菜の中で、そうした想いは強くなっていった。
花田中央中に上がると同時に、マーチングバンドは辞めて、吹奏楽部に入った。部には、逸乃もいた。逸乃は、別人に思える程上手くなっていた。その逸乃が、心菜の腕を見込んで、色々教えてくれた。おかげで、心菜も技量が上がっていった。
中学二年生になって、コンクールでファーストとソロを任された。顧問からも認められて、嬉しかった。もっと頑張ろうと思えた。
しかし、一つ上の先輩は、そんな心菜を妬んだ。妬んで、他の子にはばれないように嫌がらせをしてきた。通り過ぎる時にキモいと言われたり、調子に乗るなと言われたり、楽譜を隠されたり。
今思えば些細なことだけれど、当時の心菜には、酷く傷つく出来事だった。精神的に参ってしまって、思うような音が出せなくなった。地区大会の結果は、散々だった。
「ほら、あんたが吹いたせいで、私達の夏が終わった」
先輩に言われたあの言葉は、今でも思い出す。
頑張ると妬まれ、嫌がらせを受ける。そして、うまくいかなければ心菜のせいにされる。
心菜は、ただ一生懸命吹いていたかっただけなのに。
あれから、心菜は頑張ることをやめた。心菜が頑張れば、別の誰かの活躍を奪う。そして、嫌われる。そんなことになるくらいなら、ほどほどに楽しく吹いていたほうが良い。
もう人間関係で悩まされるのは嫌だった。音楽で、苦しみたくない。
部活動を辞めずに続けたのは、仲間がいたからだ。マーチングバンドの頃から一緒の千奈と真二と隆は、心菜にとって大切な存在だった。けれど、三人には心菜が受けた嫌がらせのことは話していない。話してどうなることでもなかったし、三人といれば、楽しくて辛いことも忘れられた。
「ごちそうさま」
家の居間で、家族で夕飯を食べていた。母親の手作りのハンバーグは、いつもなら嬉しいのに、今日は妙に肉の脂が重たくて、箸が進まなかった。
「もういいの、心菜ちゃん?」
「うん、あんまり食欲ない」
「大丈夫か、心菜? 何か学校であったのか?」
父親が顔を覗き込んでくる。心菜は、笑って誤魔化した。
「そうじゃないよ。なんか、お腹いっぱい。残してごめんね、ママ」
「それは良いけど」
「部屋に行くね」
立ち上がり、居間を出た。廊下は暗くて先が見にくいけれど、生まれた時から住んでいる家だから、明かりを点けなくても、居間から漏れる光だけで歩ける。
自室にたどり着くと、中に入って鍵を閉め、ベッドに倒れこんだ。空気の抜ける音を立てて、身体が沈みこむ。電気は点けなかったから、部屋は暗いままだった。今は、その暗さがちょうど良い。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「……オーディション、やだな」
呟いていた。
吹奏楽コンクールの定員は、高校の場合、五十五人だ。丘は、トランペットパートに何人割くつもりだろうか。六人ならば、初心者のみかを除いた経験者の六人が選ばれるだろう。
もし五人なら。逸乃、月音、コウキ、莉子は間違いなくメンバーになる。残る一枠を、心菜と万里で奪い合うことになるのではないか。
自惚れでも何でもなく、心菜が全力を出せば、きっと万里はメンバーから外れる。いくら万理が初心者らしからぬ技術力を持っていても、心菜は負ける気がしない。
その時、万里も人が変わるかもしれない。それでまた、あの時と同じようなことが起きたら。
嫌だ。
もう、あんな想いはしたくない。 そうなるくらいなら、心菜がわざと下手に吹けば良い。心菜にはまだ三年間がある。最後の年だけでも出られれば良い。そうすれば、誰ともぶつからずに済む。
「……なんでそんな風になっちまったんだよ」
真二の言葉が、不意に頭に浮かんだ。
真二は、怒ったのだろうか。いつも一緒に帰るのに、途中で別れてしまった。心菜には、引き留められなかった。
「……分かんないよ、私だって」
呟きは、暗闇の中に溶けていった。




