十ノ十六 「真澄とよしみ」
合同バンドの本番が終わってから、正孝と摩耶と、明日の予定について話し合っていた。
ようやく決めたコンクールの自由曲を、二人には先に教えてあり、全体への発表は、明日の合奏時に行う。楽譜はすでに用意してあるから、その時に配布も済ませる。
今の花田高が演奏するに相応しい曲。
例年なら五月のゴールデンウィーク中には発表していたのに、悩みに悩んで、一週間も遅れてしまった。
その分練習時間が短くなったということであり、厳しい状況だ。ただ、今年の地区大会はシード権を得たおかげで免除となり、県大会から参加なのがせめてもの救いである。
県大会は八月に入ってからだから、練習期間は三ヶ月弱。今の部員達なら、何とか仕上げられるだろう。
「問題は、オーディションですか……」
独り言を呟きながらステージ裏の関係者控えのテントに入ると、鬼頭が椅子に座って休んでいた。他の学校の顧問の姿はない。
鬼頭は腕を組んで、目をつむっている。
「鬼頭先生」
呼んでも、反応がない。
「先生?」
そばに寄って、肩に触れる。
「……おお、丘先生」
目を開いた鬼頭が、気だるそうに顔を上げた。
「鬼頭先生……どうかされましたか?」
「ん?」
「御気分でも悪いのですか?」
「……ああ。指揮疲れかもしれん。ちょっと、胸の辺りがな」
どきりとした。
「大丈夫ですか? 急にですか?」
「ん、いや……去年の暮れ位から、たまにな。他の人や生徒には言わないでくれよ」
「病院へは行かれましたか?」
「ああ。まあ、歳だからな。医者には激しい指揮はするなと言われたが、馬鹿を言うなと逆に叱ってやったよ」
にやりと笑う鬼頭。
鬼頭は、奏者の感情を引き出すような情熱的な指揮をする人だ。時に激しく、時に静かに。その緩急が、安川高校の心を揺さぶる演奏を作り上げている。
鬼頭に激しい指揮をするなと言うのは、つまり指揮者を辞めろという宣言に等しい。
鬼頭が怒るのも、無理はない。
「あまり、ご無理をなさらないでくださいね」
「そうも言っておれんよ。今年の子達は、今までと比べてもあまりレベルが高いとは言えん。引っ張り上げねば、全国へは届きそうもない」
「部長の畑中君は、優れた奏者でありリーダーという感じでしたね」
「修斗はな。他のこども達は修斗におんぶにだっこという感じだ。修斗の強すぎる個性が、逆に他の子の考える力を弱めている」
かつて花田高の顧問だった王子も、似たようなことを言っていた。
丘の一つ上の学年だった進藤。彼の強烈なリーダーシップに導かれて、花田高は二度の全国大会出場を果たした。だが、彼のおかげで進化した花田高は、彼がいなくなったことで成長が止まった。
「安川は、今年も全国へ行くよ」
不敵な笑みを、鬼頭が浮かべた。
「私も、今年の花田高は全国へ届く気がしています」
「ほう、遂にか」
「はい。私が花田高に赴任してから、初めての感覚です。今年こそはいける。そんな気がしています」
「長かったな。壁を超えるのに」
「……はい」
鬼頭が姿勢を変える。粗末なパイプ椅子が、きしむ音を立てた。
ステージでは目玉のお笑い芸人のコントが繰り広げられていて、客席の笑いが巻き起こっている。
「君は、どういう音楽を奏でようとしている?」
「はい?」
「全国大会を目指すために、何か掴んだのだろう?」
さすがに鬼頭は鋭い。
「……私は、オーケストラサウンドを目指しています」
「ほう」
「木管セクションを中心とした編成で奏でる、自然な音楽表現。豊かなダイナミクスに、まるで弦楽器セクションが存在するかのような調和のとれた響き。そういう演奏を目指しています」
「良い目標だ」
「今までは、部員数の関係で理想的な編成に出来ず、金管セクション中心の演奏でした。それを、今年は変えます」
すでに、安川高校はそうしている。豊富な部員数を誇る安川高校だから可能な、理想的な編成バランス。
花田高も、それに近くなっている。だからこそ、ようやく丘の求める本当の音楽作りが出来る。
「オーディションも、やるのだろう?」
「はい。花田高では久しぶりなので、生徒達の中には初めてオーディションに挑むという子もいます」
「心のケアが、大事だな。うちのような部員数が多い学校では、一人一人をそこまで深く見てやることが出来ん。だから頻繁にメンバーの入れ替えを行うことで、オーディションという概念を無くして、誰でもなろうと思えばなれるし、気を抜けば外れるという環境にした。それによって、部員が落ち込む暇を与えないようにした」
それも、選択の一つだろう。
「花田高では、花田高のやり方でやると良い」
「はい」
鬼頭のやり方は、安川高校の環境を考えると悪いものではない。中にはついていけず辞めてしまう生徒もいるだろうが、全体で考えると、百五十人近い部員がぶつかりあう環境で人間関係の崩壊を招かないためには、有効だと言える。
部員も常に気を張り、高いレベルの精神状態を保つことだろう。
合同バンドにも参加している海原中は、安川高校程部員は多くないが、全国大会の常連中学校だ。あそこは完全なる実力主義を掲げていて、上手いこどもにしか演奏機会は与えられない。補欠から上がれなければ、三年間舞台裏ということもあり得る。
熾烈なレギュラー争い。顧問は、意図的にそれを起こしている。
ああいうやり方は、丘は好まない。花田高にも海原中からやってくる子はいるが、そうした子は、心に問題を抱えているケースが多い。
トランペットの一年生の沖田莉子も、そうだ。莉子はもう少しレベルが上がれば、ファーストを任せられるだけの力は持っている。中学でなら、十分すぎる程の腕だろう。だが、三年間サードしか担当していなかったという。それが莉子の自信を失わせ、音に力が無い原因となっている。
音楽と部活動が部員の心に陰を生むようなことは、あってはならない。コンクールがただの勝負や結果を追い求める場となってはならない。音楽はそういうものではないはずだ。
「オーディションは、本来優劣などないはずの音楽で、明確に優劣を決める行為だ。コンクールも、そうだがね。そこの矛盾にこども達は心を悩ませる。くれぐれも気をつけなさい、丘先生」
「はい、ありがとうございます」
課題は、山積みである。花田高には、安川高校のように完成された運営システムがあるわけではない。探り探りにはなるが、こども達がコンクールでも音楽を楽しめるような指導をしなくてはならない。
ステージの方で、どっと笑いが上がった。お笑い芸人のコントは好評のようだ。
こども達は今、コントを見ているだろうか。それとも、祭り会場を回っているだろうか、と丘は思った。
去年は部活動漬けで、高校生らしい過ごし方をこども達にさせる時間を与えてやれなかった。今年は、去年よりは与えてあげたい。それが、こども達の心を育て、音楽性を深めることにも繋がるはずだ。
「教師は、大変な仕事だよ」
鬼頭の呟きに、丘は無言で頷いていた。
磯貝真澄は、小学校の鼓笛隊からユーフォニアムを始め、花田北中でも吹奏楽部でユーフォニアムだった。
「ユーフォニアムは、バンドの響きの繋ぎ手である」
顧問が言った言葉だ。金管セクションと木管セクションの間を受け持ち、バンドの響きを豊かにする役目を持つ楽器。その表現が気に入って、真澄はユーフォニアムのことを好きになった。
中学一年生の時には、今と同じでパートに池内よしみがいた。よしみは当時もユーフォニアムが上手かったけれど、高校三年生になった今は、さらに上手くなっている。
真澄の、あこがれの人だ。いつも笑顔で、明るくて、誰にでも優しい。よしみに会いたくて、真澄は花田高を選んだ。
右隣によしみがいる。それが、何より嬉しい。
左隣には元口久也がいた。久也も、花田北中だった。中学一年生の頃と同じ三人。並びは、あの時は真澄が一番左だった。今は、二人の音を両側から聞いて合わせられるようにと、真ん中にしてもらっている。
また、この三人で吹ける。真澄にとって、最高の環境だ。
音楽室。音出しをする部員達。丘が来るまで、自主練習だった。皆が思い思いに吹いているせいで、自分の音は聞こえにくい。こういう時、真澄は無理に音は出さず、軽く音出しするだけにしている。聞こえない状態で吹いていても、意味がない気がするからだ。
やがて丘が音楽室に入ってきて、音出しが止んだ。摩耶の合図で挨拶をして、丘が指揮台に座る。
「お待たせしました。自由曲の発表をします」
短く、丘が言った。部員が歓喜の声を上げたのを、丘が手で制し、指揮者用の総譜の題名を、見えるように掲げた。
「『たなばた』。今年の自由曲は、これにします」
吹奏楽曲には詳しくない真澄でも知っている曲だった。あまりにも有名な曲。
豊富なソロパートにキャッチーなメロディーライン。日本人に馴染みのある曲調。まぎれもない名曲だ。
「今の皆さんなら、素晴らしい演奏になるでしょう」
丘が言った。
「早速楽譜を配ります。パートリーダー、取りに来てください」
よしみが楽器を椅子に置き、前に出て行った。楽譜を受け取って、戻ってくる。真澄も一枚貰い、譜面をざっと眺めた。
中間部のところを見て、はっとした。
そうだ。この曲には、ユーフォニアムのソロがあるではないか。
悟られないように、よしみの方を見る。やはり、よしみの顔は強張っていた。
「以前お話したように、今年はオーディションを行います。同時に、各ソロパートもオーディションを行います。ソロのあるパートは、一年生であろうと三年生であろうと、練習をしておくようにしてください」
その後も丘が細かなことを言って、すぐに初見の合奏になった。
「モッチー」
よしみが小声で久也に呼びかける。元口だから、モッチー。今、花田高では久也はそう呼ばれているらしい。前はパート内だけだったのが、全体にも広がっているのだという。
「とりあえずソロ、モッチーが吹いて良いよ」
「分かりました」
短く応えて、久也はソロパートの指を確認しはじめた。
やはり、よしみはまだ中学の時のことを引きずっているのだ、と真澄は思った。
真澄が中学一年生の時、久也が二年生で、よしみが三年生だった。あの年のコンクールの自由曲で、よしみのソロがあった。
よしみは、緊張しすぎて、ソロを演奏出来なかった。
一音も。ただの一音も、よしみは出せなかった。
部は、地区大会で終わった。ユーフォニアムパート以外の部員は、よしみを責めた。あの出来事の記憶が、よしみの中でまだ残っているのだ。
あの時、一年生だった真澄には何も出来なかった。
涙を流しながら自分を苛むよしみを。
心をすり減らして部員に謝罪を続けるよしみを。
日に日に瞳の輝きを失っていくよしみを。
真澄は、助けてやれなかった。
真澄は、ぎゅっとユーフォニアムを抱きかかえた。今度こそ、よしみの力になりたい。




