十ノ十四 「幡野美代 二」
クラリネットの練習室の窓から見える景色が、好きだ。
ちょうどマーチングチームの使う運動場が見える場所にあって、練習に励む萌の姿が見える。萌はこちらに気がつくと、いつも手を振ってくる。
東中出身の同期は陽介と萌だけで、二人の仲は良い。萌がどう思っているかは分からないが、陽介は萌のことを好いてもいた。
春から、萌はマーチングチームのメンバーに選ばれている。空間を把握する優れた能力があったようで、重たいスーザフォンを抱えながらでも、隊列から乱れずに動ける萌は、マーチングに向いていたのだろう。
互いにメンバーを目指そうと交わした約束は、萌のほうが先に果たしてしまった。
差をつけられたことに、引け目を感じないではない。だが、萌は全く気にした風もなく、変わらず接してくれる。それはありがたいが、同時にみじめにもなる。
もやもやとした気持ちが晴れなくて誰かと話したくなり、久しぶりに同期のコウキと連絡を取って、互いの近況報告をした。
東中の頃も、悩むとコウキと話していた。コウキの助言は、いつも的確だった。
コウキには、今は自分の音楽と向き合うのが一番だ、と言われた。萌に気おくれを感じると、音に影響が出て、余計にメンバー入りは遠のくからと。
コウキの言う通りだ。結局、吹き続けるしかない。吹かなくてはメンバーにはなれないし、萌に気持ちを告げることも出来ない。
コウキが進学した花田高の吹奏楽部も、部員数が増えたことで、コンクールメンバーを選ぶオーディションが開催されるらしい。それはつまり、花田高がベストメンバーでコンクールに臨んでくるということだ。去年までよりも、ずっと手強い相手になるのだろう。
コウキなら、きっとメンバーに選ばれるに違いない。中学校の頃から、トランペットの演奏技術は高かった。それに、底が知れない男で、常に何か力を隠しているという印象だった。
東中の吹奏楽部時代、陽介を部長に推薦したのはコウキだ。陽介はてっきりコウキがやると思っていたのに、部長も副部長もやろうとはしなかった。一部員であろうとし続け、しかし、部にとっては誰よりも重要な存在だった。
コウキの言葉で部員が動く。そういう時も、幾度もあった。
今は、学生指導者という音楽面のリーダーの補佐をしているという。東中でリーダーをやろうとしなかったコウキが、どういう心変わりをしたのか。
どう考えても、陽介よりもリーダーに相応しい男だった。もし東中の部長がコウキだったら、陽介達の代は県大会に行けたかもしれない、と思うくらいには。
「陽介。何か考え事か?」
いつの間にか、隣に部長の畑中修斗がいた。部の頂点に立つ男で、陽介と同じクラリネットパートである。
「あ、はい、ちょっと」
「浮かない顔だが、悩みか?」
「いえ……そういう訳ではないです」
「話しにくいことでないなら、俺に言ってみろ」
「え、と……」
安川高校吹奏楽部では、部員はコンクールチームとマーチングチームのどちらかに配属され、それぞれメンバー、補欠、練習生に分けられる。
合同バンドに参加できるのは、コンクールチームのメンバーだけだから、まだ補欠に上がったばかりの陽介は参加出来ていないし、普段の練習も忙しいため、直接コウキとは会えていなかった。
修斗にコウキのことを聞いてみたい、と陽介は思った。修斗なら、コウキのことをどう評すのか。
「先輩は、合同バンドに参加してる花田高の三木コウキって分かりますか? 俺と同期のトランペットなんですけど」
「トランペット……ああ、あいつか。分かるぞ」
「先輩から見て、コウキってどんな奴ですか?」
修斗が、腕を組んだ。
「どんな、と言われてもな。話してないから、特に印象は無い。トランペットの腕は良い方だろう。だが、三年の古谷や山口の方が上手い。まあ、際立ったものは持っていない普通の男という感じだが」
修斗は、そう思うのか。
「それがどうした?」
「コウキが、うちに来てたらなぁ、と思って」
「……何故だ?」
「コウキは何ていうか……周りの力を引き出すのが上手い奴なんです。あいつの言葉で、スランプに陥ってた子が抜け出すとか、沈んでた部員が一瞬で元気になるとかって場面が何度もあって。もしあいつが安川にいたら、俺も今とは違ったかな、ってふと思って」
「陽介がそこまで評価する男なのか、三木という奴は」
「つかみどころのない男でしたけど」
ふむ、と修斗が呟いた。
「まあ、三木という奴がいてもいなくても、お前がやることは変わらず努力するだけだ。他者には頼るな。お前の成長はお前にしか出来ない。なげく暇があれば練習しろ、陽介」
「……そうですね」
「お前はいずれメンバーになれる」
「……だと良いですけど」
「俺が言うのだから、間違いないさ。頑張れよ」
そう言って、修斗は去って行った。
修斗は、顧問の鬼頭が誰よりも優れたリーダーの器である、と評した程の男だ。中学校は吹奏楽の名門の海原中出身で、当時からトップの成績だったという。今は部長職と同時に、コンクールチームのリーダーであるコンサートマスターも兼任している。
圧倒的なカリスマ性を持つ男で、修斗の背中を見て部員は安心感を覚え、修斗の言葉で鼓舞される。
今の吹奏楽部が強固な結束を築き上げているのは、修斗の存在が大きい。
だが、と陽介は思った。
もしコウキが安川高校へ来ていたら。修斗とコウキの、どちらが部長に相応しかっただろうか。
修斗は、確かに頼りになる男だが、優しいわけではない。練習についてこられない者に救いの手を差し伸べたりはしないし、辞めた者はもう仲間ではないとすら考えている節がある。
誰もが、修斗についていけるわけではない。
陽介と共に練習生として頑張っていた仲間は、すでに数人が退部している。彼らはもう戻ってこない。いずれも、中学時代はトップを担う奏者だった子達だ。
コウキだったら、きっと彼らを見捨てはしなかっただろう。そして、今とは違う部の姿が、あったはずだ。
「さわやかフェスティバルの動きなどの連絡は以上です。配布した紙は頭に叩き込んで明日を迎えてください。合同バンドの初舞台です。成功させれば、今後も合同バンドが活躍する場は増えるかもしれませんから、皆さん頑張りましょう」
指揮台の横に立つ丘の言葉に、バンドのメンバーが元気に返事をする。
満足そうに頷いた丘は、指揮台に座る鬼頭に何か話しかけ、それから全体を見回した。
「では、今日はこれで終わり、昼食にしましょう。午後以降は各学校の顧問の指示に従ってください。お疲れさまでした」
「起立!」
クラリネットパートの一番右端に座る男の人が、よく通る声で言った。安川高校の部長だという人だ。
すぐに、全員が立ち上がる。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
解散となった。
美代は、トロンボーンの中に息を吹き入れて、溜まった水分を水抜きから抜いた。滑らかな布で丁寧に管を拭い、それからケースへ仕舞う。
「美代ちゃん、ご飯行こう」
ケースの鍵を閉じて立てかけたところで、東中の華が話しかけてきた。隣に、真紀もいる。
「うん、行く。芝生だよね」
「そう、他の子もすぐ来ると思う」
「分かった」
椅子の下に置いていた鞄を手に取り、華と真紀と共に講堂を出た。
眩しい日差しが降り注いできて、一瞬、目を細める。もう、すっかり暑い時期になった。陽に当たっていると、しっとりと汗ばんでくる程だ。美代の苦手な、夏が近い。
「明日楽しみだねー」
「うん。でも私、さわやかフェスティバルって行ったことないんだよね。華ちゃんと真紀ちゃんはある?」
「あるよー」
「私も」
「どんなイベント?」
「んー、結構大きいお祭りで、道路が歩行者天国になるの。大道芸人とかバンドとか色々来るし、屋台も出るよ。商店街が主催してるってお母さんは言ってたかなあ」
華が言った。
「へえ、そうなんだ」
「私達が明日演奏する公園には毎年ステージが組まれて、そこでバンドとかの演技が披露されるんだよ」
芝生の適当な所に移動して、腰を下ろす。柔らかな草が肌に当たってくすぐったいけれど、それが美代は好きだった。コンクリートや土のザラついて熱い感触よりも、ずっと優しい。
「そっか。見るだけでも楽しそう」
「だね。ねえ、明日は本番終わったら自由行動だし、美代ちゃんも私達と一緒に回ろうよ」
「え」
「私、もっと美代ちゃんと仲良くなりたいと思ってたんだ。ね、真紀」
「うん」
「どうかな?」
「……うん、私で良ければ」
「やった」
に、と華が笑った。
曖昧に、美代も笑い返した。
「おっつかれー」
ひらひらと手を振りながら、東中のクラリネットのかなが近づいてきた。後ろから、他の木管セクションの子達も歩いてきている。
「いやいやはやはや、疲れたねぇ。金管は片付けが早くて羨ましいですなあ」
どさっと音を立てて、かなが座る。
楽器の片付けは、金管は水抜きと空拭きをして仕舞うだけで済むけれど、木管は管内の水分を丁寧に取ってから、分解して仕舞うため、時間がかかるのだ。
かなは恥ずかし気も無く胡坐をかき、芝生の上に置いた弁当を開いた。
「おっ唐揚げじゃーん、やったね」
唐揚げを手でつかんで、口に放り込む。
「かな、行儀悪いよ」
トランペットの真紀が、眉をひそめて言った。
「何言ってんの。インドでは手でつかんで食べるんだから、行儀悪くなんてないよ。知らないの、真紀?」
「手食する人は、左手では食べないけどね」
「む……細かい、細かいよ、真紀! 右も左も一緒でしょ! 差別は可愛そうだぞ。ねえ、左手ちゃん」
左手に口づけをするかなを見て、真紀がため息をついた。
二人のやり取りに、くすりと笑ってしまう。
「仲が良いねえ、二人は」
「えっ、うちらのこと、そう見えるの、美代ちゃんには?」
「うん、え、違うの?」
「んー……真紀とは幼稚園から一緒だから、仲良いとかそういう風に考えたことなかったなあ」
「私も」
「何でも言い合える関係って、仲が良い証拠なのかなって思ってた」
「確かに、何でも言い合うけど」
「言われてみればね」
「そうかー、真紀と私は仲が良いのか……」
にやりと、かなが笑う。
「どう、嬉しいか、真紀?」
真紀が、眉を歪めた。
「はあ? 別に嬉しくない。私はしょうがないから、かなに付き合ってあげてるだけだし」
「かーっ! 可愛くないねぇ。真紀ちゃんは気持ちを素直に言えない反抗期ですか~?」
「……アホ」
「あ?! アホって言うな!」
ぎゃあぎゃあと、二人が言い合いを始める。
「私……のせいかな?」
「放っておいて良いよ、美代ちゃん」
華が肩をすくめる。
言い合うかなと真紀を見て、喧嘩するほど仲が良いというのは、本当のことなのかもしれない、と美代は思った。
美代には、喧嘩が出来るような親しい友人はいない。海原中の部内には、一緒に弁当を食べる子はいても、かなと真紀のような関係性ではない。
部全体で、自分以外の部員は競争相手という風潮なのだ。馴れあうとか、仲間とか、そういうのを顧問は好んでいない。
それは、酷く息苦しい。けれど、海原中の強さの秘訣でもある。
「ところでさ」
華がおにぎりを頬張りながら言った。
飲み込み、美代の顔を覗き込んでくる。
「美代ちゃん、進学先決めた?」
「あ……ううん。まだ悩んでる」
「そっか。でも、北高は選択肢から外すんだよね?」
「……そうだね。あそこは、もう駄目かな」
北高は予想していた通り、今年で顧問が変わった。新しく来た女教師は、合同バンドへの参加を快く思っていないのだという。そのせいか練習に来ていないから、まだ姿を見たことはない。
今の北高生の表情の暗さと音の沈み具合を聴けば、いずれ北高が強豪校でなくなるであろうことは、簡単に想像がつく。
顧問が変わることで実力が大きく落ちる学校は、珍しくない。北高もその一つとなるだろう。
この地区の安川、花田、北の三強時代は終わるのだ。
吹奏楽部が弱い学校へ行くつもりは、美代にはない。勉強も音楽も、どちらも全力で臨める場所へ行きたい。
「でも安川は……やっぱり学力が足りないかな。最悪、他の地区の高校も選択肢に入れようと思ってる。名古屋とかなら、良い学校も多いし。光陽とか」
「遠くない?」
「それは、そうなんだけどね……」
「あのね、花田高の人から聞いたんだけど、今年、あそこから名古屋のN大学に受かった人がいるみたいだよ」
「え、嘘、花田高から?」
「うん。しかも吹奏楽部だったって」
N大は愛知県の大学の中でもトップクラスで、簡単に入れるような大学ではない。
「ちょっと、驚き」
「花田の進学クラスはちゃんとしてるっていうのは、本当なのかもね。本人の努力次第で、N大にも行けるんだもん」
「そう、だね」
「吹奏楽部もかなり強い。美代ちゃんの希望にぴったりだと思うけど」
花田高の学力は地区でも最低レベルにある。ただそれは普通クラスの話で、美代が入るとしたら進学クラスだから、関係はないのかもしれない。
「ちょっと、揺らぐね」
「遠くの学力が高い学校を選ぶのも良いと思うけど、私だったら、通学の時間がもったいないなって思っちゃう。その時間を勉強や練習に充てたいもん。勉強は、どこの学校でも出来る。結局のところ自分次第かなって気がするし」
「それはそうかも」
移動時間は、確かに不安の種ではあった。
一度、花田高については教師に相談してみたほうが良いかもしれない。恐らくこのまま行けば、美代は安川高校には届かない。無理をして目指すのも悪くはないけれど、労力を割いてまであそこに行きたいわけではない。
安川高校は、海原中ほどではないにしろ実力主義だ。しかし、レギュラーの争いは海原中以上に激しいという。そういうストレスは、高校では抱えたくない。
「考えてみる」
「うん。花田高なら、きっと全国大会まで行くよ」
「華ちゃんは、もう行く高校決めてるんだっけ」
「決めてるよ。まだ、誰にも言ってないけどね」
「そっか」
ふと、もしかしたら華は花田高へ行くのではないか、という考えが頭をよぎった。美代に花田高を薦めてくる理由を考えると、それがしっくりくる。
以前、周囲からあれこれ言われたくなくて志望校を隠している、と華は言っていた。それが学力の低い学校で周りに反対されるから、という意味なのだとしたら。
かまをかけてみようか、と美代は思った。
「……華ちゃんと、同じ高校になれたら良いな」
言うと、ぱっと華の顔が明るくなった。
「なりたい! 超なりたい!」
華が、美代の手を握ってくる。やわらかな手の感触に包まれ、心臓が音を立てた。
「想像してみて、美代ちゃん! 普門館の、真っ黒な床。客席は満員。全国大会のステージ。そこで、私と美代ちゃんが雛壇の中央に並んでトップを吹いてる。絶対、楽しくない?」
目を輝かせる華。その勢いに、思わず美代は頷いていた。
「……良いかも、ね」
「でしょ!」
華が、満面の笑みを向けてくる。
やっぱりそうなのかもしれない、と美代は思った。
だから美代に花田高を薦めてきたのだと考えれば、自然だ。
華とは、より高い次元で吹きたい、高度な音楽を奏でたい、という意見が合う。同期で美代と並ぶ実力を持つのも、華だ。
確かに華と二人で金管セクションの中心を担えたら、心が躍るかもしれない。
「美代ちゃんと、もっと沢山一緒に吹きたいなあ」
手を放して、華が言った。
一緒に吹きたい相手。今まで、美代には居なかった。
華には居る。それが、美代だという。
自分でも分からない不思議な気持ちが、美代の心の中に生まれ始めていた。




