二ノ六 「明暗」
図書館の中央棟と学習棟の間にある中庭は、建物のおかげで風が遮られ、太陽の日差しだけが当たる気持ちの良い空間になっている。
この時期でも、半袖でいられそうなほどに暖かい。
館内から持ってきた本を、座り込んで読んでいる人や、寝転がって眠っている人など、図書館の利用客が、思い思いに過ごしている。
美奈は、端のベンチに腰かけて、ぼんやりと空を眺めていた。
別に、空を見ていたかったわけではない。
ただ、何となく、眺めている。
中学生になってから、ずっと勉強漬けで、楽しい事など何にも無かった。学校ではひたすら勉強、部活動はせず、学校の後も塾か家庭教師の指導。
勉強しか、していなかった。
それを、疑問にも思っていなかった。周りは皆そうだから、自分が選んだ学校だから、それが当たり前なのだと思うようにしていた。
祝日で、久々に何の予定も入っていなかった。
たまには休もうと考えて、ずっと来てみたかった此処へ来た。
そして、コウキと会えた。
まさか会えるとは、思ってもいなかった。
久しぶりに会ったコウキは、小学生の頃と変わらず眩しくて、優しかった。
コウキと会えた。それだけで、今日は素敵な日だった、と美奈は思った。
頑張って声をかけて、良かった。ご飯を一緒に食べられて、楽しかった。
抑えていた気持ちが、また目を覚ました。
やはり、コウキの事が、好きだ。
初めて、好きになれた人だった。そばにいるだけで、胸があたたかくなる。もっとそばにいたいと、思ってしまう。
一緒にいれば、どれだけでも話していられそうな気がする。
離れたくない、と思ってしまう。
どうしようもない想いが、溢れてしまう。
声をかけた時、コウキの傍には、洋子がいた。
洋子の反応で、彼女のコウキに対する想いは、すぐに分かった。
彼女も、コウキの事を好きになっていたのだ。
それに気がついた瞬間、心に、恐怖が生まれた。
自分は、今日以外、またコウキと会えなくなってしまう。次に会えるのはいつになるのか。そもそも、会える日など来るのか。
けれど、洋子はきっとこれから、何回もコウキと会える。もし洋子に魅かれるようになったら、コウキは美奈の事など忘れて、彼女と結ばれてしまうかもしれない。
コウキと洋子の間には、特別な信頼関係がある。
あの二人が両想いになったら、美奈の入る余地など、無くなってしまう。
そう思ったら、洋子よりもたくさん話さくては、と思った。
コウキを自分だけのものにしたくて、洋子には意地悪な感じになってしまった。
自分で自分が嫌になる。けれど、そうしないと、コウキの中の美奈が小さくなる気がした。
コウキに、好きと言えたら楽になるかもしれない。
けれど、きっと駄目だ。
会えないのに想いを伝えても、うまくいかない。いくわけがない。
会いたいという気持ちばかりが膨らんで不満が溜まって、喧嘩したり、悲しんだり、辛くなるだけだろう。
そうなったら、今よりももっと辛くなる。
それに、コウキは美奈ではなく、洋子を選んだ。
だから余計に、気持ちは伝えられない。
コウキなら、当然あの場面で、美奈より洋子を選ぶ。
いつも言っていた。身近にいる人を大切にしたいんだ、と。
そういう人だから、好きになれたのだ。
「大丈夫」
今日会えたから、まだ頑張れる。
会えるなどとは、思ってもいなかった。これは、頑張ってきた褒美のようなものなのだ。
もっと頑張れば、きっとまたコウキに会える。
そう思うことにした。
胸が苦しくて辛くて、嫌になる。けれど、暗くなっていたら、次にコウキに会えた時、幻滅されて嫌われてしまうかもしれない。
それは、嫌だ。
もっと、元気な姿を見せなくては。
自分にできる事は、それしかない。
自分で、選んだ道なのだから。
いつの間にか、頬を涙が流れていた。拭うのも面倒で、美奈は、流れるままに任せた。
洋子がどこにもいない。
駅に向かったと思ったのだが、まだ電車は来ておらず、ホームにも姿はない。駅の周辺も探し回ってみたが、見つからなかった。
「どこにいるんだ……」
駅の方角へ去っていったのは間違いない。
駅に来ていないのなら、どこか別の場所で止まっているのかもしれない。
このあたりで、座ったり休めそうな場所を懸命に思い出す。大人になってからも、あまりこの中心街には来なかったのでうろ覚えだ。
駅の向こう側に公園が一つあったはずだが、和菓子屋からあえて駅を超えてそこに行くだろうか。
それよりも、駅までの間にどこかあるはずだ。そっちのほうが可能性がある。
何かヒントはないか、必死で周囲を見回す。
犬を連れて散歩する老人が、こちらへ向かってきている。その老人を、ランニング中の若い女性が追い越し、颯爽とコウキの隣を走り抜けていった。
よく見ると、次から次へとそうした通行人がやってきていた。こちらから向こうへ向かっていく人もいる。
それで思い出した。駅のそばには川がある。
川の堤防は桜並木になっていて、散歩やランニングコースとして人気だ。堤防から川原に降りる階段は、座って花見をしたり休む人が多い。今の時期は桜も枯れているが、それでも人通りはそこそこあるだろう。あそこにいる可能性は高い。
すぐに、コウキは駆けだした。
川は、駅から二分とかからない距離にあった。
堤防の上の道。ランニングする高校生の列がこちらへ向かってくる。
立ち止まって息を整えた。
高校生達の掛け声が後ろに去っていくのを聞きながら、彼らが今来た方向を見つめる。
川原に降りる階段に、洋子が座っていた。水面をぼんやりと見下ろしている。
やはり、正解だった。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと歩き出す。
表情が見える距離まで近づいたところで、洋子が泣いていることに気がついた。
「……洋子ちゃん」
そばまで寄って、そっと声をかける。
洋子は反応せず、こちらを見ず、ただ自分の頬を流れる涙を拭った。
隣に腰をおろす。
洋子が何も言わないので、コウキも黙ったまま水面を眺めた。何かわからないが、小魚の群れが泳いでいる。
桜はほぼ葉が落ちて寂しい風景だが、日差しはあるので、風が吹いてもそれほど寒くなく過ごしやすい場所だ。
次から次へと道を人が行き交っていく。時折自動車が通って、臭い排気ガスをまき散らした。
こちらから声をかけるより、洋子の言葉を待ったほうが良いだろうと考え、ひたすら待った。
どれくらい二人で座っていたのか分からない。
いつの間にか太陽は夕日に変わっていて、景色が赤く染まっていた。気温も下がりだし、一気に肌寒くなってきた。
「嫌いって、言ったよ」
小さく、洋子が呟いた。
「俺は嫌いじゃない」
すかさず返す。
「そばにこないでよ」
「やだ」
洋子が少し離れたので、すぐにそばに寄る。
今度は、無言でコウキの身体を押して離そうとしてくる。
「美奈さんのとこに行ってよっ」
押し倒されそうになるのを、手で支えて耐える。
ぽろぽろと、洋子の目から大粒の涙が流れだした。声も震えている。
その涙が、コウキの胸を締め付けてくる。
「……行かない」
「なんでっ」
顔を俯けたまま、力を込めて押し続けてくる。
「洋子ちゃんといたいから」
「美奈さんが好きなんでしょ!」
「洋子ちゃんも大切だ」
洋子の口から、嗚咽が漏れだす。
「洋子ちゃんを傷つけてるのは分かってる。でも、嘘やごまかしで済ませたくない。嫌われても良いから、ちゃんと自分の気持ちを伝えておきたい」
一言一言、選びながら声に出していく。
「まだ俺達はこどもだ。好きだから付き合うとか、そういうことを考えられる歳じゃない。美奈ちゃんは確かに好きだけど、好きだから一番優先したいわけじゃない。洋子ちゃんも大事だ」
これで合っているのか、わからなかった。
洋子がどう思うのかも不安だ。
だが、自分の想いを言葉にして伝えることでしか、洋子と向き合うことは出来ない。
「洋子ちゃんが泣いてるのに、自分だけ好きな人といて楽しむとか出来ないよ。洋子ちゃんのことは、美奈ちゃんに対する好きとは違うけど、ちゃんと好きだ。ずっとそばにいてほしいと思う人も、洋子ちゃんだよ」
「わかんないよ、そんなの……」
コウキを押すのをやめて、洋子は静かに泣いた。
「……俺は、自分のそばにいる人を一番大切にするってことと、その人と真剣に向き合って、いい加減な付き合いをしないってことを決めてるから……だから、洋子ちゃんを放っておけないし、洋子ちゃんに嘘の気持ちを言ったり、打算で付き合ったりとか、そういうこともできないんだ」
「私のことは選べないけど、そばにはいたいってこと……?」
首を横に振る。
「違う。今までは、洋子ちゃんの気持ちに気づいてなくて、妹みたいに見てた。でも、洋子ちゃんの気持ちにさっき気づいたから、これからは洋子ちゃんを女の子として見る。まだお互いこどもだから無理だけど……もし、洋子ちゃんが高校生くらいになっても、まだ俺のこと好きでいてくれたら、その時は真剣に受け止める」
洋子は、まだ小学生だ。これから先、コウキではない別の人を好きになるかもしれない。今はコウキを想ってくれていても、この先は、どうなるか分からないのだ。
こどもの気持ちは、簡単に揺れる。
だからこそ、コウキも特定の誰かと付き合うといったことを考えてこなかった。
一時の感情でいい加減な付き合いをすれば、それをきっかけに今まで自分がしてきたすべてが、無駄になる可能性もある。
それでは、前の肉体を捨て、この時間軸の自分の身体を奪って戻ってきた意味がない。
洋子は、しばらく黙っていた。
俯いたままではあったが、涙は止まったようだ。
寒そうにしていたので、持ってきていたカイロの封を開け、温まったところで洋子に渡した。
カイロを両手で包むようにして持ち、洋子はそれを顔に近づけた。
日が落ちかけていて、周囲も薄暗くなってきた。そろそろ帰らなくては、洋子の両親を心配させるだろう。
声をかけようとしたところで、洋子が立ち上がった。階段を何段か降り、こちらに振り向いた。
ぐっと両手を握りしめ、泣き腫らして赤くなった目でこちらを見つめてくる。
「嫌いって言ったけど、嘘です」
落ち着いた声だ。
「いじめられてた私を、助けてくれた。いつもそばにいてくれた。初めは、私を守ってくれる、お兄ちゃんみたいな人って思ってたけど、今は、違うの」
「……うん」
「私、コウキ君が好きだよ。何があっても……気持ち変わらないよ。ずっとコウキ君のこと好きでいるし、そばにいる。コウキ君が他の誰かを好きでも関係ない。離れない」
強い意志を感じさせる目だった。
コウキからすれば、まだ小さなこどもだったのに、初めて、洋子が大人びて見えた。
薄暗いこの場所で、髪をなびかせながらじっと見つめてくる洋子を、綺麗だと思った。
「……分かった」
その場で、立ち上がる。自然と、洋子を見下ろすような形になった。
そっと手を差し出す。
「これからもよろしく、洋子ちゃん」
洋子が、やわらかな手を重ねてくる。冷えた手に、彼女の温もりが伝わってくる。
「うん」
ようやく、笑ってくれた。
引っ張って、同じ段に立たせた。
これから先、コウキの気持ちも、洋子の気持ちも、周囲の状況も、変わっていく。どんな風に変わっていくのかは、誰にも読めない。
この時間軸は、もう前の時間軸とは全く別物だ。コウキにも、未来は分からない。
自分に出来ることは、今を真剣に生きることと、隣にいる人を大切にすることだけだ、とコウキは思った。
「帰ろう」
「うん」
手を繋いだまま、駅の方向へ歩き出す。
明日からも、洋子は隣にいてくれる。だが、二人の関係は、もう以前とは違う。
いつかは、このままの関係ではいられなくなるだろう。
ただ、今は、今だけは、こうして洋子と歩いていたい。
先の事を恐れて、今を無駄にしたくはない。
強く、そう思った。




