十ノ十二 「元子の普通の休日」
朝、目覚めて、窓の外の光に目を細めた。
雀の交わす鳴き声が聞こえる。
今日は何て最高の日だ、と元子は思った。
久しぶりの休日である。
昨日のフレッシュコンクール後のミーティングで、今日を休日にすることを丘が発表した。
いきなり部活動が休みになったのは驚いたけれど、元子ももう少し休日を取り入れたほうが良いと思っていたから、喜ばしいことだった。
急だったから父親に仕事の手伝いも頼まれていないし、人に会う約束もない。
つまり、一日自由に過ごせる。
菓子を焼こうか、と元子は思った。
たまには贅沢にチョコチップを入れたクッキーも良いかもしれない。それから、買ったばかりの紅茶を開ける。邪魔されないように、父親の分の昼食も用意しておけば完璧だ。
後は自室で、ずっと三国志を読む。
「ふふ」
想像すると心がうきうきとしてきて、元子は勢いよく布団から飛び出した。
鼻歌混じりに寝間着から着替え、ヘアゴムを使って髪を後ろでひとまとめにする。
「邪魔されないように、携帯の電源切っておこうかな」
独り言を呟いて、携帯を手にした瞬間だった。
ぶるぶると、携帯が震えた。メールの受信を報せる振動だ。
嫌な予感が、頭をよぎる。
送信者として、幸の名前が表示されている。
見ずに、電源を切ってしまえ。何も気づかなかったと思えば良い。見てしまったら、休日は無くなるかもしれない。
そんな思いが頭に浮かぶ。
丘は今後も休日を取り入れていくとは言っていたものの、演奏を披露するイベントは五月だけでも、まだ部のミニコンサートと合同バンドの爽やかフェスティバルの二つがある。
だから、実際は次の休日がいつ来るかは分からない。
今日は、貴重な休みなのだ。したいことを、すべきだ。誰にも、邪魔されずに。
「なんて、そうも……いかないよね」
呟いて、ため息をついた。
仕方なく携帯を開き、受信したメールを画面に表示する。
『元子ちゃん、おはよー☆
今日、暇!?
じつは……相談したいことがあるの……
今日会えないかなぁ?』
やはりか、と元子は思った。
最近の幸はいつも悩んでいる様子だったし、昨日も何か言いたそうな顔だった。
忙しくて相手をしてあげられなかったものの、いずれ相談される気はしていたのだ。
椅子に腰を下ろし、背もたれにもたれる。
携帯を机に置き、息を吐いた。
今年に入ってからだろうか。幸から相談されることが増えていた。親友の智美や夕にすれば良いのに、幸は元子を頼る。
元子の助言が、一番参考になるから、と幸は言っていた。
そう言われて、悪い気はしない。元子にすらそう思わせる程、幸は人の心に入り込むのが上手い。
「無視は、出来ないか」
相談内容は、大体見当はつく。頼られた以上、聞いてあげるしかないだろう。
つい先ほどまで頭の中を占めていた、素敵な休日を過ごす自分の姿が、音を立てて崩れていく。
「去年もこんなことがあったなあ」
あの時は、父親に仕事を頼まれたのだった。
ぼやきながら返事を打つと、すぐに幸からも返ってきて、近くのファミレスで会うことになった。
部屋を出て、店にいる父親に顔を見せる。
「おはよう、お父さん」
「おはよう」
「用事出来たから、外出てくる」
「そうか。分かった」
「お昼ご飯、簡単なの用意しておくから、あっためて食べて」
「ああ、ありがとう」
話していると、ミケが現れた。元子の足元に来て、身体をこすりつけてくる。
「おはよう、ミケ。今日は家に居るつもりだったんだけど、人に呼ばれちゃった」
しゃがんで、ミケの顔を優しく撫でる。
気持ちよさそうな顔をしながら、ミケが喉を鳴らした。
「最近、人の相談に乗る回数が増えてきちゃったよ」
「ほう、良いことじゃないか」
父親が言った。
「ギャップに関する相談なら歓迎するけど、普通の悩みについてだもの」
「それだけ、周りの子にとって元子は頼りになるんだろう」
「さあ、どうかな」
「私は、嬉しいがね。元子が以前より周りの子を大切にするようになって」
「……そう?」
「そうさ。今から会うのは、友達なんだろう?」
「……そう、かな」
「でなきゃ、お前が貴重な休みを他人のために使おうとしないさ」
「分かった風なこと言うね」
「心が読めるからな」
肩をすくめて、立ち上がる。
「いつも思ってたけど、勝手に心を読むのは乙女に失礼だよ」
元子が言うと、何度か目を瞬かせてから、父親が豪快に笑った。
ミケまで妙な鳴き声を上げていて、まるで笑っているようだ、と元子は思った。
元子達が暮らしながら店としている建物は、普通の人間には認識できない特別な場所に存在していて、各地に用意された拠点の扉と店の扉を繋げて出入りする仕組みだ。
そして、扉は建物に認められた者しか通れないため、元子が友人を連れてこようと思っても不可能である。だから今まで他人を家に招いたことはないし、家の場所を明かしたこともない。
他人と会う時は、必ず外でだ。
幸との待ち合わせは、花田町内の拠点から北へ、徒歩で十分ほどの所にあるファミレスになった。
ファミレスは好きではないが、話をするだけなら安く済ませられるファミレスで十分である。
到着すると、まだ幸は来ていなかったので、小説を読みながらファミレスの入り口の前で待つことにした。三国志は家から持ち出して汚したくないので、別の本だ。
やがて、待ち合わせ時間から五分ほど遅れて、幸が自転車でやってきた。
駐輪場に自転車を止め、駆け寄ってくる。
「ごめんね元子ちゃん、お待たせ!」
「良いよ、遠くから来たんだし。おはよう」
自転車で走って来たからだろう。幸の前髪が乱れているのが気になって、手で整えてやった。
「あはは、ありがと……ってあれ、元子ちゃん、眼鏡は!?」
「え……ああ、置いてきた」
「眼鏡無くて平気なの!?」
「うん、あれは伊達だから。別に視力は悪くないの」
「そうだったんだぁ。じゃあもう外しちゃえば? 眼鏡無い方が可愛いよ、元子ちゃん」
「あら、お世辞をどうも」
「えー、お世辞じゃないよっ」
あの黒縁眼鏡は視線を他人に気づれないようにする道具で、観察対象であるコウキに気を遣ってかけていたものだ。コウキの観察という目的を本人に知られている以上、別にかけ続けなくても良いものではある。
ただ、元子といえば黒縁眼鏡という印象が学校ではついているから、そのままにしていた。別に、可愛く思われたいという気持ちも無い。
「ポニーテールもおさげより似合ってるし……元子ちゃんまで隠れ美人だったとは……!」
「まで?」
「ホルンの園未先輩も、イメチェンしたらめちゃくちゃ可愛くなったじゃん」
「ああ」
「うちの吹部……女の子のレベル高すぎない?」
「私に言われても。それにそんな話は今どうでも良いでしょ。相談があるんでしょ?」
「あ、そうそう、そうなの」
話しながら、ファミレスの中へ入る。店員に案内され、テーブルに向かい合って座った。
「ご注文は後程お伺いいたします」
「いえ。ドリングバー二つで」
「かしこまりました。では、あちらのコーナーからご自由にお取りください」
頭を下げて、店員が去る。
二人とも席を立ち、ドリンクバーで適当にジュースを選んでから、戻った。
「で、相談って?」
「あのね……コウキ君のことなんだけど」
「うん」
「最近さ、ずっと月音先輩がそばにいるでしょ」
「そうだね」
「そのせいで近寄りづらくって、せっかく仲良くなれたはずだったのに、また上手く話せなくなっちゃたんだよね」
想像していた通りの悩みだ、と元子は思った。
コウキを観察していると、周りの子の様子も見えてくる。月音がコウキにべったりなのも、それを幸や万里が悔しそうに眺めていることも、一年生の中にすでにコウキに好意を持ちだしている子がいることも、全てだ。
幸が悩んでいるとすればコウキのことだろう、とは思っていた。
「二人きりなら、話せるのに……定演のホール練習の時もね、二人になったらちゃんと話せたんだよ」
「へえ」
「でも、自分から二人きりの状況は作れなくて……このままだと、どんどんコウキ君と月音先輩が仲良くなっていっちゃう気がして」
「だから、二人きりじゃなくても、コウキ君とまた上手く話せるようになりたい、と」
「うん、そう。月音先輩があれだけ積極的だと、私まで行ったら、きっとコウキ君に迷惑だよなあとか思ったら、全然動けなくなっちゃった。それに、二人の様子を見せられるのも、辛いし」
「ぶううううん!」
突然、元子達の席の横の通路を、小学生位の男の子がはしゃぎながら駆け抜けた。追いかけて注意する母親の声が、ファミレスに響き渡る。
ゴールデンウィークだからか、午前のこの時間でも、ファミレスの中は客で一杯だ。親子のやりとりを眺めながら、元子は一口ジュースを飲んだ。甘ったるいオレンジ香料の風味が、炭酸と共に口を刺激する。
「まあ……大したことは言えないけど……二人だと話せるって言うなら、デートにでも誘えば?」
「デッ!?」
幸の顔が赤くなる。
「デートなら、月音先輩の邪魔は入らないじゃん。そこで仲良くなりなよ。今日なんか、ちょうど良いんじゃないの。まだ朝早いし」
「そ、そ、そんないきなり誘っても、絶対来てくれないよ!」
「分かんないでしょ。確実なのは、誘えばデート出来るかもしれないけど、誘わないと一生出来ない、ってことだね」
「うっ」
幸の表情が固まり、がっくりとうなだれた。
「デートなんて無理だよぉ……緊張で、死んじゃう」
「そんなこと言ってたら、一生好きな人とは付き合えないと思うけど」
「うぐっ」
「好きな人が出来ても、他の女の子と仲良くしてるのを見て傷ついて、諦めて別の人を好きになっても、また傷ついて」
「はうっ」
「男の子から来てくれるのを待ってるだけじゃ、その間に積極的な女の子に取られちゃうんじゃないかなあ」
「もう、やめて……」
机に突っ伏して、幸が涙目になっている。元子は、頬杖をついて、ため息を吐き出した。
「……ごめん、言い過ぎた」
「容赦なさすぎだよ、元子ちゃん」
「でも、事実だし」
恨めしそうに、幸が見てくる。
「私だって、分かってるもん。ただ、なんか月音先輩が凄すぎて、おんなじように出来ないんだもん……」
「別に月音先輩みたいにならなくても良いじゃない。幸ちゃんには、幸ちゃんの良さがあるでしょ」
「例えば?」
「人なつっこいところとか」
「そうかな……コウキ君には、全然だめだけど」
「幸ちゃんは、普通にしてるだけで人に好かれる子だと思う。コウキ君の前でも、いつも通りでいられたら良いんじゃない。そのためには、コウキ君と話す機会を作って慣れるしかないでしょ」
そうすれば、幸にだって可能性はあるはずだ。
「……なら、元子ちゃん、手伝ってくれない?」
「何を?」
「ダブルデートみたいな形で、複数で会うのなら出来るかも」
「いや、私好きな人とかいないから無理」
「じゃあ、同期の皆で遊ぶ会みたいな」
「……まあ、それなら」
幸が勢いよく身体を起こした。
「ほんと!? 協力してくれる?」
「でも、人を集めたら一対一になれないけど?」
「そこは、皆に協力してもらって、そういうタイミングを作るとか」
「それが出来るなら良いけど……誘うのは自分でやってもらうから」
「えっ、う、なんて誘おう……」
「さあ。公園でピクニックしよう、とかで良いんじゃない」
「それで、来てくれるかなあ」
「変に取り繕うより良いと思うけど」
「……うん」
「じゃあ、コウキ君が予定入れちゃうかもしれないし、早いとこ誘ったら?」
「う、うん」
幸が携帯を取り出し、画面を睨みつける。それから、慎重に文字を打ちはじめた。
当日の誘いだから、来てくれるかは微妙なところだろう。けれど、誘う努力をするのは幸にとって良いことだ。慣れれば、コウキの前でも自然体な幸になれるはずである。
「……送ったよ」
「返事、来ると良いね」
「うん」
元子は、恋愛に興味は全く無かった。誰と誰が付き合おうと別れようと、どうでも良いことで、そんなことよりギャップや吹奏楽について考えている方が、ずっと楽しかった。なのにいつの間にか、幸には上手くいって欲しいと思うようになっていた。なぜそんな風に思うのかは、自分でもよく分からない。
父親が言ったように、友達だからそう思うのか。
花田高に入る以前の元子なら、誰かを応援したいなどとは思わなかっただろう。
吹奏楽部が元子を変えたのか、それとも。
「幸ちゃんのせいかな」
呟くと、ジュースを飲んでいた幸が、微笑みながら首を傾げた。




