十ノ十 「森ののか」
吹奏楽部員にとって、ゴールンウィークとは休日ではない。学校行事や授業に煩わされずに活動できる、貴重な練習日だ。
しかも、新年度で初の本番であるフレッシュコンクールも期間中に開かれる。そこの結果で今年の各学校の実力が見えると言われている大会だけあって、上級生を中心に緊張感が漂っていた。
音楽室では今まさに、『マーチ「ブルースカイ」』の合奏が行われている。
今年の吹奏楽コンクールで用意された五つの課題曲の一つで、題名の通り、青空を思い起こさせる爽やかで軽快なマーチである。
かすかに聞こえてくる合奏の音を、英語室の窓辺で聴きながら、ののかはため息をついた。
転向さえしていなければ、自分もあの合奏に混ざっていたはずなのに。
アルトサックスからクラリネットに転向したことで、ののかは初心者扱いとなり、フレッシュコンクールには出られなくなった。他の初心者と一緒に、別室で練習である。
背後でオーボエの、開ききった汚い音色のラが鳴る。ひなただ。耳を塞ぎたくなるような音をしているけれど、そんな音でも、彼女にとっては自分が出した唯一無二の音であり、初心者の自分でも自由に音を出せるのだという喜びを感じていることが伝わってくる。
あんな風に無邪気に喜べたら、どれだけ幸せだろう。
クラリネットになって嬉しいなどとは、全く思えない。ののかの身体には、まだサックスを吹いていた頃の感覚が残っているのだ。
忘れるわけが無い。サックスは、身体の一部のようなものだった。
中学校で吹奏楽部に入り、任された楽器がアルトサックスだった。すぐに、その魅力に取りつかれた。毎日一生懸命練習したし、寝ても覚めてもサックスのことばかりを考えていた。
あの頃は、自分の人生はサックスに出会うためにあったのだ、などと思ったものだ。これから先も、ずっとサックスを吹き続ける。そう心に決めていた。
それが、たった三年でサックスと離れることになり、そして今はこんな場所にいる。
「お疲れ、森さん」
呼びかけられて、横を見た。コウキが立っていた。
「お疲れ様です、コウキ先輩」
「クラリネットは慣れた?」
「……少しは」
「サックスと、やっぱり違う?」
「全然違いますね。音も、吹き方も」
「そうか。でも、まだひと月も経ってないのに、森さんはかなり吹けてると思うよ」
「いえ、そんなことは……」
「自信持って良いよ。音も綺麗だし」
「ありがとう、ございます」
コウキが窓の桟に手を置いて、外に目をやった。
「ブルースカイ、良い曲だよなあ」
いつも初心者合奏が休憩になると、コウキは必ずののかのところへやってくる。
「ですね」
「俺、あの曲好きなんだ」
「私もです」
「短いけど、明るくてウキウキしてくるよな」
「はい。吹けるのを楽しみにしてました」
「俺も。あの曲で全国目指せると思うと嬉しいよ」
頷いて、ののかも外の景色に目をやった。
抜けるような青空。『マーチ「ブルースカイ」』の作曲家は、どんな青空をイメージしたのだろうか。
「丘先生はさ」
ぽつりと、コウキが言った。
「今年からクラリネットに力を入れようとしてるんだ」
「そうなんですか?」
「うん。今までは人数の関係で編成バランスが悪かったけど、今年は一年生が沢山入ってくれたおかげで、バランスを変えやすくなった。それで丘先生は、本来先生が理想としてた編成に近づけたみたい」
「……先生は、どんな編成が理想だと思ってたんですか?」
「クラリネットが中心となる、分厚い木管サウンドが奏でられる編成、かな」
「へえ」
「金管と木管って、そもそも楽器の構造からして出せる音量が違うじゃん。例えば、トランペット六人とクラリネット六人なら、圧倒的にトランペット六人の方が音が大きくなる」
「そうですね」
「しかも、音色も金属特有の金気がある音でね。去年はまさにそんな状態で、金管の人数が多くて、どうしても金管中心のサウンドになってた」
「それを、丘先生は変えたかったと?」
「そう。しかも、サックスやフルートって分類は木管楽器だけど、ボディは金属で出来てるだろ。だから、音にも金気が含まれる」
「……確かに」
「金管の華やかなサウンドと、木管のあたたかでやわらかいサウンドを両立させるためには、クラリネットの働きが重要になるんだ」
「吹奏楽では、クラが中心って言いますもんね」
「うん。クラリネットの人数が少ないと、金管に対抗するために、クラリネット本来の良さを潰して音量勝負しなきゃいけなくなる。それじゃあ、あたたかでやわらかな木管サウンドにはならない。それで、クラリネットが本来の良さを活かせるように、人数を増やした」
「だから、私が転向したんですね」
「そういうこと。森さんには、悲しいことだけど」
「……いえ」
首を振って、ののかはコウキの方を向いた。
「丘先生がそういう風に考えていたとは知らなかったですけど、部活の事情は何となく理解してました」
「そうなのか?」
「はい。アルトサックスはサウンドの中心になる楽器じゃないから、何人も要らない。反対に花田高に不足してたのはクラリネットで、誰かは入らなきゃいけなかった。だから、たまたま私が選ばれた。そういう感じかな、って想像はしてました。だから……納得はしてませんけど、受け入れてます」
「そっか。偉いな」
仕方がないことだったのだ。ののかがサックスになっていたら、浩子か、あるいは別の誰かがクラリネットに転向させられていただろう。たまたま、ののかに役目が回ってきた。
「……私は多分、サックスよりクラを好きになることはないです」
「それは、仕方ないさ」
「でも、転向させられたからって、辞めるつもりはありません。ここで吹きたくて、花田に入りましたから」
学力的には、もっと選択肢はあった。けれど、花田高の吹奏楽部なら全国大会に行けるかもしれない、と感じた。明確な理由があったわけではなく、直感のようなものだ。
「すぐにとはいかないけど……私は、クラで頑張ります」
言って、笑顔を作る。上手く笑えているかは、分からない。
何か、コウキが感極まったような表情を見せた。それから、ののかの肩にそっと手を置いてきた。
「森さんみたいな子が入ってきてくれて、本当に良かった。一緒に、頑張ろうな」
「……はい」
「森さんは、ペア練習は夕さんとだったよな」
「そうです」
「クラリネットのことについては、夕さんに教わると良い。夕さんは、良い奏者だから」
知っている。夕は、二年生の三人の中で一番上手い。しかも、まだ吹き始めて一年しか経っていないという。
「それ以外のことについては、俺を頼ってくれ。俺は、森さんがクラリネットを思い通りに吹けるようになる手伝いをするよ」
「え?」
「自分で言うのもなんだけど、人に教えるのには自信があるんだ。森さんがただ上手くなるだけじゃなく、音楽をもっと自由に奏でられる奏者になれるよう、協力するから」
その言葉を聞いて、ふと、前に夕に言われたことを思い出した。夕は、コウキに教われば、きっとクラリネットを好きになるし上手くなれる、と言った。
その時は、トランペットの人がクラリネットを教えられるのかと半信半疑だったけれど、今思うと、それは本当のことかもしれない、という気がする。
入部してから、丘の曲合奏がある時は、必ず初心者の十二人は別室で練習だった。その時間はコウキが自分の練習を犠牲にして、付きっきりで面倒を見てくれていた。
初心者の面倒を一人で見るなど、普通は誰もやりたがらない。こんな騒音のような環境で、音楽について無知に近い子達を相手に一から教えるのは、相当困難だ。そんな暇があれば、自分の練習をしたいだろう。
なのに、コウキは嫌な顔もせずに一生懸命やっている。
そして、コウキは教え方も上手い。ただ知識を詰め込んだりひたすら吹かせるのではなく、初心者が楽器や音楽に興味を持ちたくなるように、論理的に話してくれる。だから初心者の子達の飲み込みも早いし、この合奏を嫌がっている子は一人もいない。
「森さんが、森さんらしく吹けるようになってほしいよ」
「私、らしく」
コウキが頷いた。適当に言っているとは思えない顔だ、とののかは思った。
きっと、コウキがいなかったら、ののかはもっと荒んでいたかもしれない。こんな風にクラリネットでもやっていこうとは、すぐには思えなかったかもしれない。
ののかのことを気にして、いつも声をかけてくれたのはコウキだ。いや、ののかだけではない。他の初心者の中にも、希望する楽器に配属されなかった子はいる。その子達のケアも、コウキはしている。一人でどれだけの仕事をこなしているのか、と思わずにはいられない。
顔をあげて、コウキを見た。
「信じます、コウキ先輩。私に、一杯教えてください」
「任せろ」
「よろしくお願いします」
「よろしく。さあ、やろうか」
「はいっ」
にこりと笑って、コウキが教室内に目をやった。
「皆、練習再開しよう、席に着いて」
「はーい」
思い思いに過ごしていた初心者の子達が、戻ってくる。ののかも、自分の椅子に腰を下ろした。
「フレッシュコンクールまであと数日だ。この初心者合奏もそこで終わる。それまでには、一曲通して演奏できるようになりたいよな」
コウキが言った。
「どう、皆、『朧月夜』の譜読みは進んでる?」
「楽譜を追いかけるので、精いっぱいです」
手を挙げて、ひなたが言った。初心者で合わせるために配られた、簡単な楽譜である。
「はじめはそれでも良い。吹いてるうちに皆で合わせる感覚を掴むことが大事だ。よし、一回合わせてみようか」
「はい」
「いつも言っているように、イメージをして。今自分は、このフレーズで何を奏でたい? 何を表現しようとしてる? この音は、何を表してる? 何でも良い、自分の心に浮かぶイメージを当てはめて、それを音にしようとしてみて」
「はい」
「打楽器の二人もだよ。打楽器はたった一発の音でも、聴く人の心を震わせられる。ただ叩くだけじゃなく、どういう役割を自分が担っているのか、イメージしてみて」
打楽器に配属された二人の男の子が、元気よく返事をした。
「指揮はひとまず無しで、リズム音で行こう」
言って、コウキがハーモニーディレクターからゆっくりとしたリズム音を鳴らした。
「じゃあ行くよ。構えて」
ののかは、自分のクラリネットのマウスピースを口にくわえた。コウキの言った通り、想像してみよう、と思った。
あたたかな、春の夜。空に浮かぶ、霞みがかった月。
コウキの合図に合わせて、深く息を吸い込んだ。




