十ノ八 「正学生指導者に相応しいのは」
正孝は、元々リーダーをやるつもりはなかった。一年生の時に、周りに担ぎ上げられて学生指導者になっただけで、自分からなろうと思ったわけではなかったのだ。
自分は本当に学生指導者に相応しいのかと、何度も自問し続けてきた。それについて、未だに、答えは出ていない。
自室の机の上に置いたノートに、目を落とす。奏馬に貰った指導法をまとめたノートで、何度と読み返していた。家でも学校でも、暇があれば読んでいる。読めば読むほど、奏馬がどれほど凄い人物だったのか思い知らされ、自分が学生指導者であり続けることに、迷いが生じてしまう。
奏馬は、奏者としても随一の存在だった。音大に進学した奏馬は、まだ入学からひと月も経っていないのに、すでに学内で注目されているという噂も耳にしている。
学生指導者としても、彼ほどの適任者は居なかっただろう。奏馬が言葉を発すれば、誰もがその言葉に耳を傾けたし、ミーティングで議論が停滞すると、部員は自然と奏馬の意見を求めた。
丘も、誰よりも奏馬のことを買っていた。
その奏馬ですら、東海大会の金賞という結果が限界だったのだ。自分が、その先を目指さなくてはならない。部員を、導かなくてはならない。その責任の重さを考えると、眠れない日もあった。
もう来週にはフレッシュコンクールだし、ふた月後にはオーディションでメンバーも決まって、コンクールシーズンが始まる。
今年はシード権を獲得したため、自動的に地区大会を超えて県大会からの参加となるから、他の学校よりは時間的余裕があるとは言える。だが、それが良いこととは限らない。本番の回数が一回減るのだから、特に初心者にとっては厳しいだろう。
このままで、本当に全国大会に到達できるのか。去年の今頃、奏馬もよくぼやいていた。
あの時は自分は二年生だった。だから奏馬ほど焦ってはいなかったが、今なら、奏馬の気持ちが良く分かる。
一年生が入ったことで、バンドのバランスは大きく変わった。初心者も、去年より人数がかなり多い。その全員を、正孝がまとめなくてはならないのだ。
本当に、このまま自分が学生指導者として存在していて良いのか。コウキに、譲ったほうが良いのではないのか。四月に入ってから、何度それについて考えたか分からない。
コウキは、奏馬に似たものを感じる。いや、指導者としての素質なら、奏馬以上かもしれない。
二年生の間で、コウキは完全に中心的な人物になっている。逸乃や月音、理絵といった主に金管セクションの三年生の間でも、コウキは重要な人物として認識されている。
それは、かつて正孝が一年生だった時の奏馬を思い起こさせる。正孝と奏馬の代は、二個上の代とうまくいっていなかった。それでも奏馬のことは二個上の代の何人もが認めていた。
今の二年生の初心者だった七人が、十分なレベルの奏者として成長したのも、コウキの支えによるところが大きい。実際、去年の東海大会金賞という結果は、コウキの下支えがあったことも要因の一つだ、と正孝は考えている。
部の運営や練習メニューの面でも、コウキの意見によって大きく変わった部分がいくつもある。
確実に、この部はコウキの存在に救われている。
対して、自分はどうだ。特に何かを為せたわけではないし、未だに、迷いを抱えてばかりいる。こんな人間が、正学生指導者で良いのか。
頭の中で、同じ問いが繰り返される。この問いに答えを出すことが、正孝の仕事ではないのか。
ため息をついて、奏馬のノートを閉じる。部屋の電気を消し、ベッドに横たわった。
今日は、寝られるだろうか、と正孝は思った。
一日の授業が終わると、すぐに部室へ向かう。いつも一番に来ようと思っているのに、必ず智美が先に来ている。
智美が部室の鍵を管理する係になってから、正孝が智美より先に部室に来れたことは一度もなかった。鍵管理の係としては優秀であると言えるが、ホームルームが長引く日もあるはずなのに、何故毎日一番になれるのか、全く不思議である。
音楽室の中の机などを廊下に出し、合奏隊形を整えていく。
平日の部活動が始まる前に必ずやる作業だ。来た部員から作業に参加していき、それが終わったら音出しを開始する。正孝も音楽室を整えた後、いつものように総合学習室で自分の楽器を取り出して音出しを始めた。
ゆっくりと、管に息を吹き込んでいく。音出しの時でも、常に出したい音のイメージを忘れたことはない。まろやかな音をイメージして、丁寧に一音一音音を当てていく。
今日も良い調子だ、と正孝は思った。
楽器に関しては、調子を崩したことはほとんどない。いつも最高の状態を目指して、努力している。演奏なら絶対の自信があり、奏馬にも負けないはずだ。
「良い音だね」
そばに摩耶が来て、言った。
「今日も綺麗な音してる」
「あ、ああ、ありがとう」
珍しい。いつもなら、摩耶は打楽器のセッティングをした後、活動開始のための準備をしているはずだ。しかし、なぜか摩耶はその場から動こうとせず、正孝を見続けている。
「……何か用か?」
「……うん」
「何だ?」
「あのさ、最近……何かあったの、正孝?」
どきりとした。
「いや、何も無いけど?」
「何か暗いし」
「そうか? 平気だけど」
なおも、疑うような目を摩耶が向けてくる。
「……ねえ、ちょっと来て」
摩耶に袖を引っ張られ、音楽準備室に連れ込まれた。扉が音を立てて閉まり、狭い部屋独特の圧迫感を覚える。隣の音楽室からは、部員達の音出しの音が聞こえてくる。
「部室じゃ駄目だったのか?」
「向こうじゃ、人が来るかもでしょ」
「あ、そう……」
「あのさ、私さ、正孝の彼女なんだよね?」
「え、ああ。当たり前だろ。急に、なんでそんなこと」
「なら、彼女にくらいほんとのこと言ってよ」
摩耶が、上目遣いで見てきた。その表情に、どきりとさせられる。
「私、正孝と付き合ってから、正孝の弱いところを見せてもらったことないよ」
「弱いところなんて、無いからな」
「そんなわけない。誰だって一つや二つはある」
「少なくとも俺には何もないぞ」
正学生指導者を辞めるか悩んでいる、などと摩耶に言えるわけがない。
「どうして嘘つくの?」
「ほんとなんだって。ちょっと寝不足なだけで、問題ないから」
摩耶が顔を曇らせて、うつむいた。
摩耶は、部長として適任者だ。本人は悩みもあるようだが、摩耶が部長であることに反対する部員は、一人もいない。
その摩耶が、正孝をリーダーとして認めている。恋人である以前に、リーダーとして正孝を必要としてくれている。その期待が重い、辞めたい、などと、口が裂けても言えない。
「……正孝、私のこと、好きじゃないの?」
「……は? どうしたんだよ急に」
「だって、全然私に気持ち明かしてくれない。いつも、何か隠してる。私、そんなに頼りない?」
「そんなつもりないって」
「つもりじゃなくても、やってるじゃん」
「意味分からんこと言うなよ。何も隠してないし、頼りないとか思ってない」
きっ、と摩耶が顔をあげた。
「意味分からんって何!? じゃあほんとのこと言ってよ!」
「だから、何にも無いって言ってるだろ!」
「嘘つき!」
「嘘じゃねえって! うるさいな!」
声を荒げてしまって、はっとした。摩耶の目が、見開かれている。慌てて、言葉をかけようとする。しかし、摩耶は正孝の横を抜けて、音楽準備室を出て行った。
勢いよく扉が閉まる。
「……何やってんだ、俺」
もう、帰りたい。呟いていた。
だが、リーダーにそれは許されない。
ため息をついて、音楽準備室を出る。ちょうど、音楽室から聞こえていた音出しの音が止んだ。中へ入ると、摩耶が何事もなかったかのように前に立っている。
出て行く時は泣き出しそうな顔をしていた気がしたが、思い違いか、と正孝は思った。
「始めます。お願いします」
「お願いします!」
摩耶と理絵が、点呼を取っていく。その間に、正孝は指揮台に上がり、基礎合奏の準備を進めた。ハーモニーディレクターの接続を確認し、教則本を開き、脇に奏馬のノートを置く。
「……では、基礎合奏に移ってください」
いつもならそう告げた後、正孝の目を必ず見る摩耶が、今日は見ようとしてこなかった。そのまま摩耶は、音楽室を出て行った。
「正孝、始めて」
理絵に言われて、慌てて前を向いた。
「じゃ、始めます。ロングトーン一番から。一年生は、上級生の音をよく聞いて。音色、発音、音程を先輩に合わせようとしてみて。上級生は、後輩に音を寄せてあげて」
ハーモニーディレクターから、テンポ六十のリズム音を流す。
「イチ、ニ、サン、シ」
全員で同じ音を出すと、きっちりと揃っていれば豊かな倍音が響く。だが、今はまだ、その段階の音にはなっていなかった。
部活動に恋愛を持ち込むべきではない。それは、よく分かっている。過去、部内恋愛をしていたカップルが破局して気まずくなったり、部の雰囲気を悪くした例を、摩耶はいくつも見てきたからだ。
それでも、正孝が好きだから付き合っていた。
まだ手を繋いだことしかなく、キスもしていない。もどかしく思う時もないではないけれど、互いに好きでいるとは感じているし、関係は上手くいっている。
正孝は特別顔が良いわけではないし、女の子の扱いが上手いわけでもない。けれど、一緒にいると安心出来るし、音楽のことで高めあえる関係でもあり、それが摩耶には心地良かった。
その関係を、崩したくはなかった。
今までは二人の関係性を、特に気にしてはいなかった。摩耶と正孝は、他のカップルとは違い、きちんと部と私情を分けて考えられる二人なのだと思っていたからだ。
しかし、二人とも三年生になり、二大リーダーとして部をまとめる立場になった。どんなに二人がそう思っていたとしても、部長と学生指導者が恋人関係にあるのは、部員に示しがつかないし、そこに私情が入り込むのではないかという疑念を部員が持ったら、部内の不調和に繋がりかねない。だから、三年生になった時に、正孝と別れるという選択肢も考えないではなかった。
丘は、摩耶と正孝の関係を知っている。知っていて、別れろとは言わなかった。言われてもおかしくないし、言われていたら、恐らく摩耶は正孝と別れていただろう。
丘が言ってこないことで、摩耶と正孝の関係を、丘は信用してくれているのだと思った。だから結局は別れなかったし、絶対に部活動に二人の問題を持ち込まないようにしようと誓った。
関係を深めるのは卒業してからでも良い。今は部活動で共に頑張ったり、一緒に手を繋いで帰る程度で十分だと、そう思っていた。
本当の摩耶は、自分で思っているよりも欲張りな人間だったらしい。
正孝が何か思い悩んでいるのだとは、新学期になってからすぐに気がついていた。暗く沈んだ様子を見せることが多かったし、一緒に帰っていても上の空になることが度々だったから、勘づいたのだ。
その悩みを、共有してほしいと思った。部長としてよりも、恋人として、頼って欲しいと思った。
それはもう、私情だ。
その想いは日に日に強くなっていった。同時に、正孝の様子も日に日に悪くなっていった。だから、思い切って声をかけた。
喧嘩をするつもりは、なかったのに。
「何やってるんだろう、私」
「え、何か言った?」
一緒に電車に乗っていた理絵が、顔を覗き込んできた。
「あ、ごめん、何でも無い」
「いや、何か言ったじゃん」
理絵が笑う。
「ほんとだよ。何にもな……」
言いかけて、正孝と同じことをしているではないか、と思った。
理絵に余計な負担をかけたくなくて誤魔化そうとした。正孝も、摩耶に聞かれて、そういう気持ちだったのだろうか。
「何、どうしたの、摩耶?」
「……あの、ちょっと悩みがあって、聞いてくれる?」
「え、うん。勿論。座る?」
促されて、二人で空いている席に座った。
電車は、不規則に揺れながら暗闇の中を走っている。
「正孝とさ、喧嘩したんだ」
「え、嘘。二人が喧嘩?」
「うん」
「初めてじゃない?」
「かも」
「何で喧嘩したの?」
「最近、正孝が何か思い詰めてる気がするの。それが凄く心配で、頼って欲しいって言ったんだけど、正孝は教えてくれなくて。それで言い合いになっちゃって」
「へえ……だから珍しく一緒に帰ろうって言ったんだ。いつもは正孝と帰ってるのに」
理絵が、天井から吊り下げられている広告を眺めながら、小さく唸った。
「ほんとに、正孝は何か思い詰めてるの?」
「うん。私には分かる」
くすりと、理絵が笑った。
「正孝のこと、大好きだもんね」
「からかわないでよ」
「だって、摩耶って正孝のことになると性格変わるし」
「は? そんなことないし」
「ほら、私には強気なのに、正孝のことになるとしおらしくなる」
「もう!」
理絵の太ももを叩く。
「相談するのやめるよ!?」
「ごめんごめん。そっか。でも摩耶がそう思うのなら、そうなんだろうね」
「……うん」
「どうしたら、正孝はほんとのこと言ってくれるんだろうね」
「そう、それが分からなくて」
「正孝ってあんまり自分のこと話さないよね」
「そうなの。今どう思ってるとか、どんな気持ちとか、二人でいる時も、全然言ってくれない」
以前から、それが不満だった。あまり気にしないようにしていたけれど、最近の正孝の様子は、普通ではない。
「言えない事情とかが、あるのかな」
「分かんない。今日言い合いになった時なんか、うるさいって言われちゃった。私がおせっかいなのかなあ」
「そんなことないでしょ。好きな人が元気なかったら力になりたいって思うのは、当たり前じゃない? 分かんないけど」
「次もこの話したら、また喧嘩になりそうで怖いんだ。その前に、仲直りもしなきゃだけど……」
不意に、理絵が頭を撫でてきた。
「忙しい時期だし、いっぺんに全部解決しようとすると大変だよ。一つずつ、ゆっくりやっていきなよ。正孝と別れたいとは思わないんでしょ?」
「うん、それはない」
「きっと向こうもそう思ってるはずだし、何か思い詰めてるからこそ、イライラしちゃったのかもしれないし。いつも通り接してみたら?」
「そう……だね」
「あんまり解決になってないかもだけど、ごめんね」
慌てて、首をふった。
「こんなこと話せるの、理絵だけだから。聞いてくれるだけで嬉しいよ、ありがと」
「何か困ったらさ、いつでも言って。他の部員には言えないことでも、私は聞くから」
「うん」
理絵は、優れた副部長だ。半端でない仕事量を苦も無くこなしているし、演奏技術も高い。人としての器も大きく、摩耶にとって、頼れる仲間である。
理絵は、部を第一に考えているから、本当は摩耶と正孝がリーダーなのに恋人関係であることを、快くは思っていないだろう。それでも、友人である摩耶の気持ちに寄り添ってくれる。
「ありがと、理絵」
摩耶は、もう一度、そう言わずにはいられなかった。




