十ノ七 「金原みか」
花田高の校舎は生徒棟と職員棟に分かれ、渡り廊下で繋がっている。ちょうどアルファベットのHのような形をした校舎で、音楽室のある職員棟から生徒棟に移動するには、必ず渡り廊下を通らなくてはならない。
渡り廊下は一階から三階までつながっていて、三階は外廊下になっている。ただ、今日は休日だからか、三階の扉は施錠されていた。
「二階から行こう」
逸乃が言った。
前を歩くトランペットパートの上級生達に、無言でついていく。
「うちらはパート練習は大抵生徒棟の二階の視聴覚室使うから、移動大変だよ」
「近くの部屋は使わないんですか?」
隣を歩いていた心菜が言った。一緒にトランペットパートに配属された子だ。
「音楽室のそばの教室は、打楽器とか低音楽器とか、移動が難しかったり大変な楽器に譲るんだ」
「あー、なるほど」
二階の渡り廊下を、七人で渡っていく。
「ま、移動は大変だけど、他の楽器の音が聞こえにくいから、練習には良い部屋だよ」
視聴覚室の前に着き、鍵を開けながら逸乃が言った。
扉が開き、全員で中へ入る。
「窓開けて―」
指示に従い、みかは北側の窓を開けた。
「もう一本ー!」
「しゃー!」
窓の外から、野球部の掛け声が飛び込んでくる。グラウンドで守備の練習をしているようだ。顧問らしき教師の怒号が、ここまで届いてくる。
ふと、野球部が練習でもユニフォームを身に着けているのは何故だろう、とみかは思った。
試合があるわけでもないのにユニフォームを着る部活動は、野球部と剣道部くらいではないだろうか。
「うちの野球部って、強いのかな」
隣に来た莉子が言った。莉子も、トランペットパートに配属された同期である。
「どうなんだろ?」
「夏の応援とかあるのかな」
「何、それ?」
「吹奏楽部は夏になると、野球部の試合で応援演奏するんだよ。夏の甲子園に行くような強い学校だと、吹奏楽部の応援演奏も凄いんだよ」
「へえ」
そういえば小学生の頃、夏休みに父親が甲子園の中継を見ていると、やたらと楽器の音が聞こえていた気がする。あれか、とみかは思った。
「うちは毎年一回戦で負けてるから、行かないよ」
いつの間にか月音が後ろにいて、莉子に抱きついていた。
「応援は二回戦からだから」
月音の腕が、莉子の身体を這う。
「莉子ちゃん、野球部の応援したいの?」
耳元で言われた莉子が、顔を真っ赤にして身体を震わせた。
「は、はひ、いえ」
「もしかして、もう野球部に好きな子がいるのかなあ?」
なまめかしい表情をして月音が言うと、莉子の身体から力が抜けていくのが分かった。
甘い声という表現がぴったりな声だ。耳元で言われていないみかでも、どきりとする。
「こーら、月音」
逸乃がそばに来て、月音を莉子から引きはがした。
「月音のそれ、平気なのはコウキ君だけだから。女の子でも他の子にすんのやめなさい」
「え~」
「ちょっと逸乃先輩。俺も平気じゃないんですけど」
「え、あ、そうなの?」
コウキまで、そばに来ている。
「全然効いてないのかと思ってた」
「んなわけないでしょ」
「へぇ、コウキ君もドキドキしてくれてるんだ?」
にやりと月音が笑って、コウキに近づいていく。
「ちょ、だから駄目だって」
「またまたそんなこと言って」
「だー、もう!」
コウキに抱きつこうとする月音。
みかは、思わず二人から目を背けた。
楽器体験期間の時点で、月音がコウキを好きなことには気がついていた。アピールが強烈なのだ。あれで、月音の想いに気がつかない人間はいないだろう、という程に。
こうして目の前で仲の良い様子を見せつけられると、きついものがある。
二人の間に割って入るような勇気は、みかには無い。
それは、万里もだろう。万里もコウキのことを好きなのだ。コウキのことを見るその顔で、すぐに分かった。
事実、遠くの席に座る万里は、不機嫌そうな表情をしている。
月音に万里。他にも、いるだろう。後から現れたみかが、コウキの心に入り込む余地はない。
入れたとしても、上級生の月音や万里と、コウキのことで張り合って勝てる気がしない。
胸の奥がちくりと痛むのを、みかは気にしないように努めた。
今なら、傷は浅くて済む。
「はい、もーそういうの良いから。練習するよ。一年生の楽器決めなきゃ」
「はーい」
「楽器の前に皆集まって」
逸乃の指示に従い、全員が集まる。
「莉子ちゃんも心菜ちゃんもマイ楽器は持ってないんだよね」
「そうです、逸乃先輩」
「じゃあ、三人とも備品からだね」
言って、机に並べられた六つのトランペットケースを逸乃が順番に開けていった。
中には、金色のトランペットが二本と、銀色のトランペットが四本入っている。
「全部整備はされてあるから、一番しっくりくるものを莉子ちゃんと心菜ちゃんは選んで。みかちゃんはまだどれが良いとか分からないと思うから、二人が選んだ後にみかちゃんに一番良さそうなのを選んであげるから」
「はい」
「私は、歓迎コンサートで使わせてもらったこの子で良いです」
莉子が、銀色のトランペットを手に取った。
「他のは試奏しなくて良いの?」
「はい、この子、気に入りました」
「そっか、分かった。ちなみにそれは、一個上のパートリーダーだった人がつい最近まで使ってたやつだよ」
「そうなんですね。じゃあ、大切にします」
「心菜ちゃんはどうする?」
「私も、同じやつで良いです」
心菜が手にしたのも、銀色のトランペットだった。
「あの、色によって何か違いってあるんですか?」
「あるある。そこに気がつくとは凄いよ、みかちゃん。トランペットはね、塗装の種類によって微妙に音色が変わるの。聴いてて」
逸乃が、持っていた銀色のトランペットを鳴らした。『アメイジンググレイス』の旋律だ。
吹き終えると、逸乃はケースに入っていた金色のトランペットを取り出して、マウスピースを付け替え、同じ旋律を吹いた。
「うっま……」
隣に立っていた心菜が、小さく呟く。
みかでも分かる。逸乃の音は、別格だ。
「ま、こんな感じ。分かった?」
「はい、何となく」
「それで、みかちゃんの好みは、金? それとも銀?」
聞かれて、逸乃の吹いた旋律を思い返した。
銀色の方が、逸乃が使い慣れている楽器ということもあるのかもしれないけれど、金色より深く豊かな音をしていた気がする。
好み的にも、銀色だ。
「銀、ですかね」
「じゃあ、みかちゃんにはこの子だ。古いけどしっかりした楽器だから。使いこなすと良い音出るよ」
逸乃に手渡された銀色のトランペットに目を落とす。
磨かれたばかりなのか、曇り一つない。ピストンを押すと、軽く滑らかに動いた。
「……これから、これが私の楽器なんですね」
「そうだよ」
逸乃が、にこりと笑いかけてくる。
花田高で心震えるような合唱は、もう出来ない。それは、みかにとって最悪の展開だった。
けれど、吹奏楽部の演奏を聴いた。そして、魅かれた。
声と楽器という違いはあっても、同じ音楽である。
みかの目指す音楽を、このトランペットで奏でたい。
「私、頑張ります」
握りしめたトランペットから伝わってくる冷たさが、今は心地よかった。
吹奏楽部の自主練習は日が落ちた後も続き、二、三年生の中には、遅いと八時まで残る人もいるのだという。
中学生の時より完全下校時刻が二時間も遅く、こんなところでも、中学生と高校生の違いを感じるものだ。
みかも早く莉子や心菜のように吹きたくて、親には無理を言って遅くまで残らせてもらっている。
それでも七時が限度と言われているのが、悔しい。
これから先、コンクールのオーディションに合格しようと思ったら、人よりも練習しなくては無理だろう。
トランペットパートはみか以外経験者だから、どう考えても、みかが一番不利だ。
初心者だからといって、諦めたくはない。万里は去年からトランペットを始めた初心者でありながらコンクールにも出て、東海大会金賞のメンバーの一人となっている。
みかも、そうなりたい。
その気持ちを汲んでくれているのか、コウキは活動時間の後もつきっきりで練習を見てくれる。
ペア練習という、二人一組で練習する仕組みが吹奏楽部にはあって、みかはコウキとだった。
コウキの教え方は、分かりやすいし面白い。
トランペットについての理解が、ぐんぐん深まっていく。
ただ、さすがにまだまともに吹けない。情けないほどかすれた音だ。
歌では自由に表現出来る音楽が、トランペットになると途端にぐちゃぐちゃになるのが悔しい。歌なら、思い通りに歌えるのに。
それは、トランペットで歌うことに慣れていないからだ。吹いて音にする楽器でも、音楽的に奏でるためには、歌うように吹く必要がある。だから、常に歌うように吹くことを意識すると良い。
コウキはそう言った。
その発想が、みかの中でぴたりとはまった。
トランペットで歌う。声と同じなのだ、と思った。
「みかちゃん、考え事?」
呼びかけられて、はっとした。逸乃が、まっすぐこちらを見ている。
熱せられた鉄板の上のお好み焼きから、かけられたソースが垂れて弾けた。湯気が立ち上り、香ばしく甘い匂いが漂う。
「ごめんなさい、逸乃先輩」
「謝んなくていーよ。つまんないのかなと思って」
逸乃が笑った。
「そ、そんなことないです!」
「そ? なら良かった」
「コウキ君、へら貸してー」
「はいどうぞ、月音さん」
「これももうひっくり返すよ」
「良いんじゃないですか?」
月音がへらを使って、器用にお好み焼きを裏返すと、油の弾ける大きな音が立った。
今日は、トランペットパートで一年生の歓迎会をしてくれることになって、自主練習の後、七人で学校近くのお好み焼き屋に来ていた。
学校帰りに寄り道をするのは、みかは初体験である。お好み焼きも、今まで食べたことが無い。だから、実はかなり楽しみだった。
莉子と心菜も、心なしかうきうきとしているように見える。
「ここのお好み焼きは、安くて量が多いのが良いんだ」
コウキが言った。
財布と胃に優しいから、吹奏楽部員は休日の昼食などでこの店をよく使うらしい。実際、鉄板の上で焼かれているお好み焼きは随分大きい。みか一人だったら、一枚でも食べ切れるだろうか、と不安になるほどだ。
肉の焼ける臭いが、食欲をかきたててくる。
「これはもう焼けたかな。切り分けますよ」
言って、コウキがお好み焼きを一枚、七人分に切り分けた。
「皿使っても、鉄板の端に置いてても良いよ」
みかは、自分の分を鉄板の端に寄せた。
早速、お好み焼きを一口食べてみる。
「いただきます」
口に含んだ瞬間、身体が跳ねた。冷まさずに口に含んだせいで、熱かったのだ。慌てて、舌が火傷しないように口の中で転がす。その様子を六人に笑われて、みかは顔まで熱くなるのを感じた。
「どうだ、美味い?」
「は、はいっ、美味しいです!」
野菜の甘味と肉の旨味に、ソースの香ばしさが混ざり合って、得も言われぬ美味しさだ。これが、お好み焼きか。
それに、思ったよりも軽い食べ応えで、これなら一人一枚でも食べられそうである。
「高校生って、良いですね。遅くまで練習できるし、こうやって寄り道も出来て」
莉子が言った。
「でしょ。中学生よりやれることも増えるし、楽しいことがいっぱいだよ」
にこりと、月音が笑う。
「それに皆さん、仲が良いですよね」
「そうだねぇ……うちのパートはね、一個上の先輩達がいた時、全パートの中で一番良いハーモニーを作ってるって言われてたくらい、仲も良かったし音も良かったんだよ」
「へえ……なんか、海原中とは大違いですね、逸乃先輩」
「海原中は、仲悪かったの?」
「……はい。パート内はいつもぐちゃぐちゃでした。トップ争いが酷かったし、陰口とかも多かったです」
「マジかぁ」
「先生が、お互いに競い合えっていう方針の人でしたから」
「莉子もトップ争いしてたの?」
心菜が言った。
「あ、ううん、私は基本サード吹いてたから」
「えっ!? 嘘でしょ?」
「ほんとだよ。三年間、ファーストは吹いたこと無い」
「莉子のレベルで?」
「皆、腕良かったから。私なんか全然」
心菜が、口を開け広げている。
「海原中って、凄いの?」
「コンクールの全国大会常連校だよ、みか」
「え、そこで吹いてたんだ、凄いね」
パートの一年生三人は、心菜の提案で、互いに呼び捨てで呼び合おうと決めた。みかも、そのほうが気兼ねがなくて良い。
「サードだから、そんなでもないよ。二年生の時はレギュラーから落ちたし」
それはつまり、一年生と三年生の時はレギュラーだったということだ。十分凄いことだと思うけれど、莉子はそうは思っていないのだろう。
莉子は確かに、初心者のみかでも分かるくらいには上手い。その莉子がサードという事実は、心菜でなくても驚く。
莉子のレベルにみかが達するには、いつになるのか。逸乃やコウキ達のレベルは、遥か先すぎて、想像もつかない。
「そういえば、万里先輩って、まだトランペット吹き始めて一年なんですよね」
「え……うん、そうだよ」
「でも音もかすれてないし、高い音もしっかり出てて、凄いですね」
恥ずかしそうに、万里がうつむいた。
「私も万里先輩みたいに吹けるようになりたいです」
「なれるさ」
コウキが言った。
「橋本さんにトランペットの才能があるのは間違いないけど、それ以上に努力したから今のレベルにいる。みかちゃんも適切に努力すれば、必ず吹けるようになるよ」
「コウキ先輩に言われると、本当にそうなる気がします」
「みかちゃん、分かってるねえ。そうなんだよ、コウキ君は妙に言うことに説得力があるんだ」
「妙に、は余計じゃないですか、逸乃先輩」
笑い声が上がる。つられて、みかも笑っていた。
新しく焼けたお好み焼きが切り分けられ、みかの前に差し出される。すでに、鉄板の上では三枚目と四枚目が焼き出されていて、月音とコウキがああだこうだと言い合いながら、形を整えている。
上級生の四人の様子を見ていると、このパートはコウキを中心に回っているのだということがよく分かる。
万里はコウキの言うことを絶対だと感じている節があるし、逸乃はパートリーダーではあるけれど、コウキの意見を重視していて、月音は完全にコウキにべったりである。
一年生の女の子の間でもコウキは注目の的になっているし、人を惹きつける魅力が、コウキにはあるのだろう。
正学生指導者は正孝だというけれど、みかからすると、コウキの方が存在感がある気がする。
年功序列、というやつだろうか。だとしたら、くだらない話だ。適した人間が正リーダーを務めた方が、上位大会に行ける可能性は高くなるだろう。
そう思わずにはいられなかった。




