十ノ六 「智美を智美として」
誠は、絵で自分の内側を表現するだとか、世界を変えるだとか、そんな高尚な想いがあって描いているわけではなかった。
ただ描くことが好きなだけで、深い理由など何も無く、将来は漠然とイラストレーターにでもなれたら良いという程度の夢しかない。
学校でも絵を描くのは、人と話すのは苦手だからだ。話そうとすると緊張して言葉が出なくなる。そのせいで周りに友達と呼べる人間はおらず、小学校も中学校も、去年も、ずっと一人だった。
平気なわけではないが、もう、慣れてしまっている。
うつむいてノートに向かっていれば、時間は過ぎるのだ。
「山田く~ん、何それ、美少女キャラ?」
人影が差して、誠は身体が固くなるのを感じた。
手が伸びてきて、腕の下に隠したノートを取り上げられる。
「あっ」
クラスメイトの、いかにも上位グループに所属していそうな男。汚い物を触るような手つきで、誠のノートの端をつかんでいる。
誠の絵を見た男は、醜く顔を歪めた。
「……うわ、キッツ。高校生でこんな絵描いてんのかよ」
投げかけられた言葉に、心が一瞬にして冷える。
下卑た嗤い声。
「キモ」
ノートが無造作に放られ、地面に落ちた。
黙ってそれを拾い上げ、胸に抱えた。
手に、力がこもる。
誠の絵を嗤ったクラスメイトは、黒板の前に数人で集まり、こちらを指さしてにやついている。
胃が、ぎゅっとなる感覚。
恥ずかしい。
気持ち悪い。
苦しい。
不快な感情が胸に満ちてきて、誠は目を瞑った。
いつものことだ。どうせすぐ無視されるようになる。それまで耐えていれば良い。
自分を誤魔化す言葉を、無理やり頭に浮かべていく。平気だと、自分に言い聞かせる。
ずっと、そうしてきた。
彼らに言い返すことなど出来ないのだから、ただ耐えるしかないのだ。
「山田、見せて」
不意に、横から声をかけられて、はっとした。
「ん」
手が、差し出される。
隣の席の、中村智美だった。
「ノート、見せてよ」
挨拶をされはするが、話したことは一度も無い。その智美が、今は誠を見ている。
息苦しさを感じた。
何故、声をかけてきたのだろう。
智美も多分、上位グループの人間だ。誠とは住む世界が違う。
見せたくない。だが、抵抗すれば何をされるか分からない。
逆らわないほうが、良い。
諦めて、ノートを智美に差し出した。
すぐに、ぱらぱらとノートをめくる音が聞こえはじめる。
誠は、うつむいて机の染みを見ていることしか出来なかった。
きっと、智美も誠の絵を嗤うのだろう。
今か。もうすぐか。まだか。
智美が嗤う声を待っていた。早く、解放されたい。
嗤われて終わりなら、マシなのだ。それだけで済ませたい。
時間が、ゆっくりと進んでいるような感覚。
いつまで経っても、智美は何も言わない。
ちらりと、横に目を向けた。
智美は、真剣な表情で誠の絵を見ていた。
「ふーん」
智美の声に驚き、身体が跳ねた。慌てて、目を逸らす。
ノートをとじる音。椅子がずれる音。そして机の上に、ノートが置かれる。
誠は、恐る恐る顔をあげた。
「山田、絵上手いね」
目を細めて、智美が笑いかけてくる。
それは、今まで誠が見せられてきた醜い笑みとは、全く別のものだった。
「私は、山田の絵、良いと思った。恥ずかしがんなくていーよ。自信持ちな」
「……嗤わないの?」
思わず、問いかけていた。
「山田が真剣に描いた絵だもん、嗤わないよ」
そんな。
「う、嘘だ」
「嘘じゃない。山田が何を描きたいのかが、ぼんやりとだけど伝わってきた。プロの絵みたいに上手いかって言われたら、そんなことない。でも、山田にしか描けない熱が、その絵にはあるよ」
開け広げていた口が乾いていることに気がつき、唾を飲み込んだ。
今まで、そんな風に言われたことはない。
誰もが誠の絵を嗤い、気持ち悪いと言った。
智美はどこまで本気で言っているのだ。
不意に、智美が肩に手を置いてきた。
心臓が、跳ねる。
「今度山田の絵を嗤うやつがいたら、言って。私が許さない」
呆然として、言葉を理解するのに時間がかかった。
はっとした時には、もう、目の前に智美の姿は無かった。
美術部の活動は週に二回あり、美術室と部室である美術準備室を使う。
美術室は、普段は吹奏楽部が練習に使うが、美術部の活動がある日だけは空けてくれる。
だから、美術部員は伸び伸びと創作に集中できるのだ。
美術部では創作物の指定も無く、秋の文化祭時期以外は、自由に好きなことをして良い。
おかげで、活動時間にじっくりと絵をかける。
部員は誠以外に五人いるものの、全員女子だから自分から話かけることはできない。
結局、ここでも一人だ。ただ、誠を馬鹿にする人間はいないため、落ち着いて過ごせる。
誠にとって、学校で唯一くつろげるのが、部活動の時間だった。
鉛筆を動かしながら、ふと、智美のことを思い出す。
不思議な子だ。
二年生に上がり、同じ四組になって、席は隣だった。
最初に抱いたのは、友人が多そうな子という印象だ。男女構わず、誰とでも話している。
返したことはないが、誠にも挨拶をしてきた。
授業中は寝ていることが多く、時々、学校には来ているはずなのに授業に出ていないこともあるし、昼食の時間には必ずどこかへ消える。
よく分からない、近づかないほうが良い人間。
それが、誠が出した智美に関する結論だった。
だが、智美から声をかけてきた。
誠の絵を見て、良いと言ってくれた。
あれは、誠を嗤うクラスメイトから、守ってくれたのだろうか。あれから、クラスメイトに絵のことで馬鹿にされたりはしていない。
「……まさか」
首を振って、浮かんだ考えを振り払う。
「そんなはずがない」
そんなことをしても、智美に何もメリットがない。
下手をすれば智美も目をつけられかねないのだから、普通なら見て見ぬ振りをする。今まで周りにいた人間は、皆そうだった。
「山田、何か言ったー?」
「あっ、いえ……」
声に出ていたと気がついて、顔が熱くなった。
考えるのは、やめよう。
考えても、仕方がないことだ。
「お、山田」
廊下から声をかけられて、顔をあげた。
楽器を持った智美が、顔を覗かせていた。
「あ……」
「絵描いてるの?」
手元を覗き込まれて、慌てて腕で隠した。
「隠さなくても良いじゃん。そっか、美術部だったんだね」
「……うん」
「新しい絵が描けたらさ、また見せてよ」
「え、い、いや」
「楽しみにしてるから」
笑いかけられて、鼓動が早くなった。
笑顔が、眩しい。
「……何で、僕に構うの?」
「え?」
「僕と話したって、面白くないのに」
智美が首を傾げる。
「理由なんて無いよ。話したいから話すだけ」
「……分からないよ」
「話しかけられたく、ないの?」
「……そうじゃ、ないけど」
「じゃ、良いじゃん。せっかくクラスメイトになったんだもん。仲良くしよ」
また、智美が笑った。
誠は、答えられずにいた。
ただ、智美の笑顔が綺麗だという思いが、頭の中にぼんやりと浮かんでいた。
「コウキ」
昼練に行くために迎えに来てくれたコウキに向かって、両手を顔の前で合わせ、謝罪を示す姿勢を取った。
「ん?」
「ごめん、今日は昼練休む」
「珍しいな」
「ちょっと用があって」
「良いよ。じゃあ、また後で」
「ん」
二年生になって、コウキとは別のクラスになってしまった。最近は帰りも常に他の誰かがいて、二人きりで帰ることは少ない。
だから、普段は弁当を部室に持っていって二人で食べ、それから昼練をしている。そうしないと、二人でゆっくりと話す時間がないからだ。
二人で協力してやっていく。智美が入部した時からの約束で、そのためにコウキとは部のことで、いつも意見をすりあわせている。
そういう貴重な時間だけに、よほどのことが無いかぎり、智美は昼練を休んだりしてこなかった。
コウキからすれば、事情を詮索したくなってもおかしくない。けれど、こういう時のコウキは黙って流してくれる。だからありがたい。
コウキが去って行く後ろ姿を見送って、智美は自分の席に戻った。
「山田」
「……何?」
「ご飯一緒に食べようよ」
「……え?」
「今日は昼の用事ないから。嫌?」
少しの間のあと、誠がゆっくりと首を振った。
「良かった。弁当何持ってきた?」
「コンビニの」
「えー。体力つかないよ、それじゃ」
「僕、料理出来ないから」
「親は?」
「忙し、くて」
「ふーん」
自分の弁当の包みを開く。
おにぎりと、具がパンパンに詰まった揚げ春巻きだ。
「春巻き一個あげるよ」
「え? い、いいよ」
「代わりにその唐揚げちょうだい」
「あっ」
言った時には、もう誠の唐揚げを口に含んでいた。
「あげるって言ってないのに……」
「へっへっへ。もう遅いなー。ま、ほら、春巻き食べてよ」
眉間に皴を寄せながら、誠が春巻きを取る。
そのままかじりついて、パリッとした皮が砕ける小気味良い音が鳴った。
ちょっと、誠の目が見開かれた。
「どう、美味しいでしょ」
「……うん」
顔を赤くする誠を見て、智美は思わず微笑んでいた。
ここ数日で、誠は大分言葉を交わしてくれるようになっている。
まだ目はあまり合わせてくれないけれど、数日前に初めて話した時よりも、智美に心を許してくれている気がする。
それまでは、挨拶すら返してくれなかったのだ。
誠に話しかけたのは、クラスの男子が誠を馬鹿にしていたのが、不快だったからだ。
誠は友達がいないのか、いつも一人で絵を描いている。
そういうところが、男子はからかいたくなるのだろう。
こどもじみた嫌がらせ。けれど、誠を傷つけるには充分すぎる。
目の前でそういうことをされるのは、嫌だった。
男子を注意しても、やめない。むしろ、見えないところで誠へのいじめが始まる可能性もある。
だったら、誠を一人にしなければ良いと思った。
「山田、クラス以外に友達は?」
「……いないよ」
「作んないの?」
「人と話すのは、苦手だから」
「私とも?」
誠の箸が止まる。
「まだ、ちょっと」
「そっか」
沈黙。
「……じゃ、私と友達になろう」
「え?」
「私が最初の友達。少しずつ、仲良くなっていこう」
誠が、ぽかんとした表情をしている。
「嫌?」
慌てて、誠が首を振る。
「じゃあ、よろしくね」
笑いかけると、誠は目を逸らしてしまった。
「ゆっくりで良いから」
スピーカーから、放送部による昼の放送が流れ始める。最近流行りの歌だ。
それに耳を傾けながら、智美はおにぎりを頬張った。
授業が終わり、音楽室へ向かうところだった。
「智美ちゃん」
星子が肩を叩いてきた。星子も、同じクラスだ。
廊下を、並んで歩く。
「山田君に声かけるなんて、勇気あるねえ」
「え、何?」
「私、去年も山田君と同じクラスだったけど、あの子すっごい暗い子だよ。何考えてるか分かんないし」
「だから?」
「話してて楽しい?」
むっとした。
星子のこういうところは、あまり好きではない。
オーボエは神がかった上手さなのに、人に対する思いやりが足りていない。
「楽しいよ。それに、山田の絵は素敵だし」
「絵描きって、なんか暗いじゃん。変わってるね、智美ちゃん」
「そういうの……聞きたくない。じゃあ星子ちゃんは、由菜やゆかのことも暗いと思うの? 二人も絵描くの好きだよ」
う、と星子が身体をのけぞらせた。
「……由菜ちゃんとかゆかちゃんは、別に暗いとは思わないよ」
「何で?」
「ちゃんと話して良い子達って知ってるもん」
「なら、山田とも話してみれば良い子だって分かるよ。話さずに決めつけないでよ」
「何、智美ちゃん。何真剣になってるの? ごめんごめん、冗談だよ。山田君はほら、男の子だから、話しかけずらいんだよね」
星子が笑いかけてくる。
その顔を見たくなくて、前を向いた。
人を肩書きや性別、見た目で判断するのは、智美は嫌いだ。
そんなつまらない要素で決め付けたくないし、決め付けられたくない。
昔から智美は、女の子として見られるのが何となく苦手だった。
女の子らしいことをするのは、別に嫌いではない。
けれどスカートを履くのは嫌で、本当は制服のスカートだって履きたくなかった。
中学三年生頃までは、何故女の子として見られるのが苦手なのか、スカートが嫌なのか、自分でもはっきりと分からなかった。
コウキと仲直りして、一緒に過ごす時間が増えて、ある時その理由が分かった。
コウキは、智美を一人の人間として見てくれる。女の子扱いをされることもあるけれど、だから特別扱いをするとか、そういうことはしない。
智美を、智美として見てくれる。
その心地良さに気がついた時、自分は自分として見て欲しかったのだと理解した。
スカートを履いたり足を出すと、異性の視線が集まることにも気がついた。
智美を智美としてではなく、女の子という存在、性の対象として見ている人間が多いことが、不快感の理由だったのだ。
だから自分以外の人にも、相手を一人の人間として接することを心がけるようになった。
それが、相手への礼儀なのだと思った。
きっとコウキはずっと前からそれに気がついていて、やってきていたから、誰といても自然体でいられるのだろう。
万人に、コウキのような生き方は求められない。
星子も、星子だ。星子はコウキにはなれない。
星子の陰口を言う所は、好きではない。けれど、それだけで星子を見限ったりはしない。星子にも、良い所はあるのだ。
変わってくれたら、とは思う。
変わることを、強制は出来ない。
「私の前で陰口は言わないでよ、星子ちゃん。悲しくなるから」
そう伝えることが、智美に出来る、せめてもの行いである。
「……ごめん」
星子は、目線を落としながら、小さく言った。
誠は、どこにでもいる普通の子だ。別に暗くない。大人しいだけで、それは誠の個性と言える。
智美には誠のような絵は描けないし、誠は智美のようにサックスを吹けない。
誰にだって、出来ることと出来ないことがある。
だから、人は対等なのだ。
今までは、コウキがそばにいた。
コウキがいたら、誠のことを放っておかなかっただろう。
コウキが動いて、きっと誠を嗤ったあの男子も、誠と仲良くなったに違いない。
けれど、四組にコウキはいない。
なら、智美がやるしかない。
誰かがやってくれるのを待っていても、解決はしないのだ。
望むことがあるのなら、自分で動く。
少なくとも、コウキならそうするだろう。




