十ノ一 「集う新入生達」
金原みかは、歌うことが好きだ。だから中学校では合唱部に所属し、三年間を費やした。楽な部活動ではなかったけれど、毎日が充実していた。
合唱部は、ただ歌うだけではない。仲間と声を合わせて、一つの音楽を作り上げていくのだ。一体感によって生まれる極上のハーモニーは、歌う者の心も、聴く者の心も震わせる。あの瞬間を味わいたくて、頑張ってきた。
本当は、高校も合唱部が有名なところに行きたかったのに、学力が足らず、志望校には落ちてしまった。それで、仕方なく滑り止めで受けた花田高に来た。
行きたかった高校には通えないけれど、合唱部に関しては有名無名は関係なく、活動しているならそれで良いと思っていた。歌えるなら、どこでも構わないと。ところが、花田高の合唱部は、存在はするけれど活動はほとんどしていないという話だった。
部活動説明会で前に立つ合唱部の部長の話を聞きながら、みかは愕然とした。活動は週に一回。音楽室ではなく、何故か下の階の理科室で活動。大会やイベントには、全く出なくて、いつも一時間ほど歌って、終わりだという。
どこが部活動なのか、と思わずにはいられなかった。それでは、一人でカラオケに行く方がましだ。
合唱部に入部して、自分の力で部員を変えるなどと、アニメや映画のような芸当は、みかには出来ない。きっと、入っても無為に三年間を過ごすことになるだろう。そう思うと、入部したいという気持ちは失せた。
花田高にも合唱部はあると聞いて安心していたのに、最悪である。こんなことなら、もっとしっかりと調べてから、滑り止めも決めるべきだった。
「次は、吹奏楽部の紹介です」
司会の教師がそう言うと、八人の吹奏楽部員が出てきた。体育館の床に座らされた一年生が、一斉に手を叩いて迎える。どうでも良いと思いながらも、みかは八人に目をやった。
前に立つ人の体育館シューズが青色だから、三年生だ。細いフレームの眼鏡と右目の泣き黒子が印象的で、美人とはああいう人を言うのだろう。
他の七人は緑だから、二年生か。
「こんにちは。吹奏楽部部長の、星野摩耶です。お話を聞くばかりでお疲れだと思いますので、まずは皆さんに、私達吹奏楽部の演奏を聴いていただきたいと思います」
そういって前に立つ摩耶が礼をし、横にずれた。半円を描くように立っていた他の七人は、トランペットの女性の合図で、演奏を始めた。
「あ、『全力少年』だぁ」
隣に座るクラスメイトが言った。軽快でポップな曲調の、ちょっと前に流行った歌謡曲。カラオケでみかも歌うことがある曲だ。
「へえ」
吹奏楽になると、こんな感じなのか、とみかは思った。たった七人で、旋律と和音とリズムと、それぞれに分かれて音楽を作り上げている。しかも、かなり上手い。縦の線は揃っているし、音程も良い。さすがにこういうところで演奏する人達ともなると、上手い部員を選りすぐっているのだろう。
曲が後半に入ったところで、摩耶が再び前に出てきた。
「この子達は、全員去年から楽器を始めた、初心者だった子達です」
体育館が、ざわついた。みかも、驚愕で口が開いた。
「たった一年で、これだけの演奏を初心者だけで出来るようになる。それが、私達吹奏楽部です。経験者も、初心者も関係なく、誰もが楽しい音楽を奏でられるようになる。そういう部活です。去年は、全日本吹奏楽コンクールで東海大会金賞という栄誉を授かりました」
東海という位なら、全国大会の一つ前だろうか。それほど実力のある部活動なのか。
「勿論、初心者だったこの子達も一緒に舞台に上がりました。そして今年は、最高峰の全国大会出場を目指しています。私達吹奏楽部では学年は関係なく、誰にでもチャンスがあります。お約束します。吹奏楽部に入ったら、一生忘れられない宝物になる体験が出来ると。言いたいことはシンプルに一つ。私達と一緒に、青春しませんか?」
にこりと摩耶が笑って、頭を下げる。演奏が終わって、八人が体育館を出て行った。
「うちの吹部、上手くなーい?」
「初心者ってマジかなぁ。一年であんな風になるもん?」
「えー、入ろっかなあ。楽しそう」
しばらく、体育館の中はざわめきで満たされた。それも、当然だろう。摩耶の言葉は短いのに、強烈にみかの心に刺さった。他の一年生も、そのはずだ。
次の部活動の説明が始まっても、みかの頭の中は、吹奏楽部の紹介のことでいっぱいだった。
これから三年間をどうしよう、と思っていたところだった。歌と楽器。違いはあっても、同じ音楽である。
合唱部で、互いの声を合わせて一つの音楽を作り上げる過程が好きだった。きっと、吹奏楽部にも似た部分があるだろう。
何より、摩耶は、楽しい音楽を奏でられる、と言った。
音楽は、楽しんでこそだ。そこも、考え方が合う。
吹奏楽部の見学に、行ってみようか、とみかは思った。
「早く行こ、早く!」
絵里と双子の姉妹を急かして、廊下を抜けていく。
「慌てなくても、まだ始まってすらないでしょーよ」
ため息をつきながら絵里が言った。
吹奏楽部の紹介には、驚いた。上手いと思っていた人が、全員初心者だったのだ。完全に経験者だと思っていた。
一年で、あれだけのレベルになれる。つまり、ひなたにも不可能ではないということだ。
初心者でもコンクールに出ることも出来る。希望があるではないか。
「早く、早く!」
部活動説明会が終わった後、教室に戻る時に各部活動が宣伝のチラシを配っていた。貰った吹奏楽部のチラシには、生徒玄関前と音楽室の二か所で楽器体験会を開催すると書かれてあった。
ひなた達は、音楽室の楽器体験会に行こうとしていた。
「ちょっと、丸井さん」
「……ん?」
渡り廊下を抜けて、職員棟の階段を上がろうとしたところで、階段の上から話し声が聞こえてきた。思わず、足を止める。
「丸井さんも吹部の楽器体験に行くの?」
「あー……うん、そう」
「結局、丸井さんも入るのね。てことは、他の中央中生も?」
絵里達と顔を見合わせる。
「入ると思うよ」
「先に言っておくけど、人数が多いからって偉そうな顔をするのはやめてね。私達は、あなた達に主導権を握られたくないの」
「そんなつもり、こっちには全く無いけど?」
「どうだか。合同バンドの時みたいにはいかないよ」
「あれはそっちが勝手に張り合っただけじゃん」
「なっ」
「もういい? 始まっちゃうよ」
階段を上がる足音が聞こえてくる。
「何よ!」
気の強そうな声。
「中央中生って、ほんとむかつく。私達も行こ、海。負けないように頑張らないと」
もう一人いたのか。海と呼ばれた子ともう一人は、悔しそうな声を上げながら、階段を上がっていった。
「……何、今の」
絵里が、小声で言った。
「分かんない」
「な、仲の悪い子達が、いるのかな」
「やだぁ、仲良くやりたいよぉ」
睦美と七海が身体を寄せ合っている。正直、ひなたも驚きを隠せずにいた。
「吹部って、皆仲良いもんじゃないの?」
「私達の西中は、仲良かったけど」
「花田北はそーでもなかったかな。金管と木管の女子で仲違いとか普通にあったし」
「絵里も金管の子嫌ってたの?」
「うん。今思うと、何で仲違いしてたのか意味不明だけど」
何それ、怖い。呟いて、ひなたは自分の身体を抱くような仕草をした。
吹奏楽部はもっとほんわかとした部活動だと思っていたのに、理想と現実はかなり違いそうだ。そんな怖いところで、やっていけるのだろうか。
一抹の不安が、ひなたの頭によぎった。
青空の下で、好き勝手に鳴らされる楽器の音。まともに鳴らせている子は一人もおらず、音が出ていたら良い方だった。大抵の子は、音を出す段階にすらいない。
楽器体験に参加している新入生の間を通りながら、理絵は苦笑した。
初心者の部員数増加のために、例年通りの四階での楽器体験だけではなく、生徒玄関の前でもやることにした。帰りがけにふらりと立ち寄る新入生の中から、吹奏楽部に入ってくれそうな子を見つけるためだ。許可を得るのに苦労したけれど、吹奏楽部の功績もあって、特別に許されたのである。
「おー、お前、才能あるぞ!!」
純也の声がして、そちらを向いた。
ドラムセットの前に男の子が座り、スティックをぎこちない手つきで振って叩いている。リズムも何も、あったものではない。騒音レベルだ。けれど、純也が男の子の両肩を掴んで笑った。
「ドラムが叩けるならもう何でもできるな! 即戦力だ!」
男の子が嬉しそうに頬を染めている。純也は、持ち上げて持ち上げて、入部させる算段らしい。そうやって入った子は、部の理想と現実に戸惑って辞めやすい気もするけれど、純也のやることに関しては下手に何か言うよりも、任せておいた方が良いだろう。つつくと、反発を受けかねない。
「おし、次はお前だ、叩いてみろ!」
純也が、隣に立っていたもう一人の男の子をドラムセットに座らせる。それを見届けて、理絵は再び足を動かした。
ホルンのかすれた音。トランペットから漏れる息の音。頑張っても音が出せず、諦めて帰っていく子もいる。全員が入ってくれるわけもないから、そういう子がいても仕方がないだろう。一人でも二人でも、入ってくれる子が現れれば幸運と思うしかない。
「あの」
後ろから声をかけられて、理絵は振り向いた。
「はい」
「楽器体験、お願いします」
男の子だった。
「お、ありがとう。何が希望?」
「中学では、トロンボーンでした」
「経験者か、良いね。私もトロンボーンです。遠山理絵。よろしくね」
「内藤真二です」
「マウスピースは持ってる?」
「はい、持ってきました」
「じゃあ私の楽器を使ってみて」
ブルーシートの上に置いていた自分の楽器を持ってきて、真二に渡した。真二が、マウスピースをトロンボーンにつける。構えて、にやりと笑った。
「ああ、久しぶりに持った。良いですね、やっぱ」
「どうぞ、自由に吹いてみて」
「はい」
頷いて、真二がマウスピースに口をつける。そのまま、鼻から息を吸って、吐き出した。
しかし、音は、出なかった。
「……ん?」
「久しぶりだと、音出ないですね」
恥ずかしそうに、真二が笑った。期待していたのだが、あまり上手くないのか、と理絵は思った。
「もっかい」
言って、真二が再び楽器を構えた。出た音は、お、と思うような音だった。発音はクリアで伸びやか。かすれたりもしていない。
「なんだ、良い音出すじゃん」
真二が目だけで笑って、音階を吹いた。音程感も、悪くない。スライドの動かし方も良い。音の変化が滑らかだ。
「内藤君、吹くのは何か月ぶり?」
「半年くらいぶりですかね」
それでこの音が出せるなら、十分だ。
「すごく良いね。良かったら、もうちょっと吹いて行かない? 音楽室では経験者向けの体験もやってるから、上に行ってみてよ」
「良いんですか?」
「うん。岸田美喜っていう子に声をかけて。トロンボーン持ってる背がちっさい子」
「分かりました」
トロンボーンを受け取る。真二がマウスピースを鞄に仕舞って、頭を下げた。校舎内に戻っていくその後ろ姿を眺めながら、理絵は一人、頷いた。
音を聞いた感じでは、去年の美喜ほどの腕は無さそうだけれど、十分メンバーに入れそうな力量だ。入部してくれたら、間違いなく即戦力だろう。
トロンボーンは人数が少ない。経験者が加わると、かなり助かる。
「すみませーん。楽器吹いてみたいんですけどぉ」
「あ、はーい」
次の子に呼ばれて、理絵はそちらに向かった。
クラリネットは、駄目だった。トロンボーンも音が出ない。チューバなど、重すぎてまともに構えられなかった。
サックスやフルートは吹いてみたかったけれど、人が多くて断念した。
やはり、歌と楽器は違う。思ったようには音楽を奏でられない。
もう、帰ろうか。そう思っていたところだった。
「君、もう帰るの?」
声をかけてきたのは、すらりとした体型の男の人だった。
「あ、はい」
「トランペット、経験した?」
「いえ、でも、多分吹けないから」
「まま、吹いてみてよ。教えるからさ。俺、三木コウキ」
「……金原みかです」
「はいどうぞ。マウスピースは洗ってあるから」
コウキと名乗った男の人が、トランペットを渡してくる。
「持ち方は、こう」
手を添えて、持ち方を変えられる。コウキの手の温もりに、顔が熱くなるのを感じた。
男の人に触られたことは、今までない。
「そうそう。カッコイイねぇ。それで、口はそのまま閉じてみて」
言われた通り、口を閉じる。
「トランペットは、息で唇を振動させて音を出すんだ。イメージとしては、唇は常に閉じていて、息がそこを抜ける時に唇が高速で閉じたり開いたりしてる、ってイメージ。自分から唇を震わせるというよりは、息が出る時に勝手に震えると思ってみて。こんな感じ」
言って、コウキが唇の振動だけで音を出した。音程が、滑らかに変化していく。
「唇だけでも音になるんですね」
「そうなんだよ。だから、簡単。今の俺みたいな口の形で、口の周りの筋肉を意識してみて」
頷き、トランペットを構えて、マウスピースを口につける。
「早いスピードの息を出してみて」
言われた通り、息を吸って、吐く。空気の抜ける音が、トランペットから漏れた。
「やっぱり、出ません。他の楽器も駄目でした」
「いや、もっかいやってみて。そんで、よく聞いてみて。ただの空気の音じゃなくて、微妙に音のようなものが出てるから」
もう一度、吹く。空気の音に混じって、確かに別の音が聴こえる。
「ほんとですね」
「でしょ。無理に出そうとしなくても、音は出るから。よしじゃあ、出しやすくするためには、出したい音をイメージするのが大切なんだ。だから、一緒にトランペットのドの音を声に出してみよう」
言って、コウキがドの音を声で出した。みかも、合わせる。
「良い音程感だ。じゃあ、その音をイメージして、さっきよりも少し強めに息を吹いてみて」
「はい」
もう一度、息を吸って、吐く。今度は、息の速度を早める。
プッ、と一瞬だけ、音が出た。
口からトランペットを離して、コウキを見た。
「やった、出た出た。今のはソの音だ。目標のドより高い音が出たから、成功だね」
「今日、初めて音が出ました」
「ほんと? トランペットが向いてるのかもな」
いや、とみかは思った。恐らく、コウキの教え方が上手いのだろう。他の楽器の人達は、頑張れ、出せる、としか言わなかった。
「もうちょっとやってみる?」
「はい!」
「よしじゃあ、今度は今出たソの音を一緒に歌おう」
コウキに合わせて、声を出す。
なんだ、楽しいではないか、とみかは思った。吹奏楽も、歌ったりするのだ。こうして音程を耳で捉えて、音にする。やることは、一緒なのだ。
次に出した音は、かすれ気味ではあるものの、しっかりとソの音だった。
「凄い、吹き始めて数分だよ。みかちゃん、才能あるかもね」
コウキが笑いかけてくる。その笑顔が、まともに見ていられないほど眩しい。心臓が急激に苦しくなり、それに耐えられず、みかは顔を背けた。
「あ、ありがとうございました」
「え、もう良いの?」
「ま、また来ます」
トランペットをコウキに突き返し、自分の鞄を持って駆けだした。
心臓が、今までに鳴ったことがないような音を立てている。脈打つのが自分でも分かるほどだ。
何なんだ、あの男の人は。あの笑顔はコウキの笑顔が思い浮かんできて、みかは頭を強く振った。




