三 「こんな世界で生きるくらいなら」
扉を開けて入ってきたのは、元子と同年代の女だった。
仕事の制服らしきものを着ているが、手ぶらで鞄類は何も持っていない。
随分と容姿の整った人だ、と元子は思った。背はそれほど高くはないが、すらりとしていて、鎖骨の辺りまで伸びた、綺麗な黒髪が印象的である。
ただ、頬が赤く腫れているのが気になった。誰かに叩かれたような腫れ具合だ。
「いらっしゃい」
「え」
「そんなところに立ってないで、まあ入って」
「あ……はい」
女は扉の外に一度目をやり、それからゆっくりと閉めた。
「あの、ここは……お店、なんですか?」
「そう。とりあえず、座って」
カウンタ―の前の椅子を示すと、女は遠慮がちに歩いてきて、そこに腰を下ろした。きょろきょろと、店内を見回している。
向かい合いながら、女をさりげなく観察した。随分、暗い顔をしている。生きていることに、何の希望も感じていない、とでもいうような様子だ。生気を失った表情のせいで、せっかくの整った容姿も、どこか陰を感じる。
「私はこの店の店主で、山口元子。あなたの名前は?」
「あ、大村……美奈です」
「大村さんね」
聞き覚えの無い名前だった。
ミケは、過去に元子と関わりのあった人物の知り合いが来ると言っていた。誰と関わりがあるのか、興味はある。
「あなたが入ってきた扉は、空き地にあったでしょう」
「はい。扉を開けたら、ここに繋がってて……塀だったはずなのに」
「戸惑うのも無理はないね。ここは、日常とは半歩ズレた空間なの。普通の人には、決して来ることの出来ない場所。あなたは、この店を求めた。そして、この店と商品が、あなたを求めた。だから、扉が繋がった」
「仰る意味が……分かりません」
「まあ、そうでしょうね。とにかく、あなたはこの店にたどり着いた。それが事実」
「私はたまたま海を見に行こうと思って、この町に来たんです。こんな店のこと、知らなかった。なのに求めたなんて」
「意識的に求めたかどうかではないの。その辺のことは、私にも詳しくは分からない。ここにある商品も、私が集めたわけではなく、勝手に集まってくる。そして、勝手に客のもとへ旅立っていく」
「あなたのお店なのに?」
「私はただこの店を維持して、客と商品を繋ぐ仲介人みたいなものだから」
この店の仕組みを一般人の美奈に話しても、理解はしづらいだろうし、話す気もない。
「ところで、あなたが求めたものは、これね」
そう言って、カウンターの下から小箱を取り出し、美奈に渡した。
軽く、ざらりとした質感の小さな紙の箱である。封はされておらず、箱には何も書かれていない。
これが店に届いた時には、心底驚いた。遠くにいる父にも確認して、同じものだと判明している。この店に、同じものが二度もやってくることは、滅多にないことだった。
「薬、ですか?」
中身を確認して、美奈が言った。
「ええ。それは、時間を渡る薬」
勢いよく、美奈が顔をあげた。その目が、大きく見開かれている。
「正確には、あなたの意識だけを過去に渡らせる薬。いつの時代かは、分からない。似ているけど、微妙に異なる時間軸の過去へと渡ることになる」
「……そんなもの」
信じられない。震える声で、美奈が呟いた。
「信じようと信じまいと、それは現にそこにある。そして、あなたの手に渡った。もうあなたの物だから、使っても使わなくても、自由だけど」
「時間を戻るなんて、ありえない」
「戻るというのは、正確な言い方ではないかな。確かに渡った先はあなたがかつて過ごした時代だけど、そこから先はまったく別の未来になっていく。同じようで、違う時間軸なの」
「時間軸?」
「あー、何て説明すべきかな」
椅子の背もたれにもたれ、元子は腕を組んだ。
「……無数に存在する世界のこと、かな。例えば、今あなたが生きている時間軸。ここをAだとするなら、あなたが薬を飲むことで渡る先は、Bという時間軸。あなたが飛んだ時点では、Aと全く一緒と言っても良いけれど、そこからあなたの行動が変わることで、未来も変わっていく。だから似ているようで違う。分かるかな」
「……例えば、私が過去と全く寸分違わない行動をしたら?」
「Bという時間軸だけど、Aと全く同じ未来に繋がっていくでしょうね」
「私の行動次第で時間軸というものが変わるなんて、都合が良すぎませんか?」
「別にあなた次第というわけじゃなくて、この世界は、そういう風に出来ているの。誰かが常に選択をしてきた結果、その時間軸になっている。一方で、もう一つの選択肢を選んだ時間軸も、確かに存在している。そうやって、この世界は無数に存在するの。その薬みたいな特別なものがないと、私達には認識も移動もできないけど」
「つまり、平行世界みたいなもの、ですか?」
「まあ、そんな感じ。残念だけど、私にも時間軸について正確なことは分からない。この世界のことは、私達人間が理解するには複雑すぎる」
客にとって不利にならないように、嘘と本当を混ぜて話す。そうすると、相手は真実にたどり着くことはない。客を相手にする時は、こういう話し方をするのが、元子の癖になっていた。
本当は、元子は時間軸を移動することが出来る。
この店は、扉を通じて、全ての時間軸に移動することが可能なのだ。訪れる客も、様々な時間軸から来る。だから、こちらから行こうと思えば、好きな時間軸に行けるし、実際に仕事で赴くこともある。
ただ、それは、この店を守る人間である、元子と先代の父にだけ許されたことであって、他の人間が時間軸を渡ることは出来ない。
「……意識だけが過去に渡ると仰いましたが、私のこの身体はどうなるんですか?」
「消えてなくなる。それだけじゃない。あなたという存在そのものが、今の時間軸から消え去る」
「存在そのものが?」
「その薬を飲む代償や対価みたいなものだね。あなたと関わった全ての人の記憶からも、あなたの存在は無くなる」
「薬を飲むだけで、他の人の意識にまで影響を及ぼすんですか?」
「それ、私達には薬に見えているだけで、実際は薬じゃないの。人智を超えたものだから、私達が認識しやすい形になっているだけで。理屈じゃない」
「……でも、私が生きた痕跡は残るんですよね? 例えば、今住んでいる家とか」
「世界が再構築されるわけじゃないから、そうだね。でも、誰もあなたが住んでいたとは認識出来ない。まあ、あなた一人がこの世界から消えたところで、世界という視点から見れば、些細なことだから、気にすることではないよ。問題なく、世界は動く」
薬に目を落としながら、美奈は沈黙している。
戸惑うのも無理はない。だが、美奈はすでにこれが本物だと感じているはずだ。
「他に聞いておきたいことがあれば、今のうちに」
「……意識だけ、ということは、私はどうやって過去で肉体を得るんですか?」
薬を飲んだ場合の想定を、様々、頭の中で巡らせているのだろう。
賢い人だ、と元子は思った。
元子は客を相手にする時、基本的には商品の使い方を教えるだけで、問われない限り、それ以上の情報を出すことはない。逆に言えば、問われれば、答えられる範囲は答える。
美奈のような客は、相手にしていて面白い。
「別の時間軸のあなたの肉体を得ることになる。つまり、元々その肉体と繋がっていた別のあなたの意識が消え、今のあなたの意識に置き換わる」
「そんな……人の肉体を奪うなんてこと、許されるんですか?」
「さあ。それはあなたがどう感じるか。同一人物なんだから良いという考えもあるし、同一人物でも別の存在だから奪ってはいけないと考えもある」
しばらく黙ってうつむいていた美奈が、ぽつりと呟く。
「……私は、別の時間軸の私は、幸せになっているんでしょうか」
まるで、今の自分は不幸だとでも言うような言い方だ、と元子は思った。
「さっきも言ったように、こことほとんど似ている時間軸だから、多少の差はあっても、同じような結果になっていくはずだよ」
「……そう、ですか」
「ところであなた、出身は?」
「え? 愛知、です」
「そう、やっぱり」
何となく、そうだろうという気はしていた。元子がこの店を継ぐまで、主に過ごしてきたのは愛知県だ。元子と関りがあるとすれば、そこで出会った人なのだろう。
「やっぱり?」
「いいえ、こちらの話。さて、他に聞きたいことは?」
「……突拍子もない話で、信じがたいことです。でも……何となく、本当なんだろうな、って、感じます」
「それで良い。飲むも飲まないも、あなたの自由。ただし、他人には渡さないで」
静かに、美奈は頷いた。
「話すことがないなら終わりにしましょう。あなたのことは気に入ったから、もし縁があれば、また会いましょう。それに、私は人の相談に乗るのも、結構好きだから」
「え、でも、この店に気軽に来られるんでしょうか」
「さあ、それは、あなたがこの店を求め、この店があなたを求めないと、無理でしょうね」
美奈を立たせる。そのまま、扉まで案内した。
「あ、お代は?」
「要らないよ。ここは、そういう店じゃないから」
「え、でも」
「いいの。ほら、扉を開けて」
そっと、美奈の背を押す。困惑した表情を見せたまま、美奈は扉に手をかけた。
扉が開いた先には、暗い空き地が見えている。
「さようなら、また」
扉を抜けた美奈の背に、そう声をかけ、元子は静かに扉を閉じた。
あの不思議な店を出た後は、色々と頭で考えていた気がするが、はっきりとはしない。
気がつくと、自宅に帰り着いていた。
自室のベッドの端に腰を下ろし、手の中の小箱を眺める。
何の変哲もない、ただの箱だ。軽く振ると、中で錠剤が転がる音がする。
元子は、美奈が求めたからあの店にたどり着いた、と言っていた。
「私が、過去をやり直したいと思ってるってこと?」
呟いていた。
確かに今まで、過去を後悔してきた。
ああしていれば良かった、こうしていれば良かったと、何度そう思ったか分からない。
父が亡くなった時。私立中学を選んだ時。母が亡くなった時。祖母が亡くなった時。後悔した場面は、山ほどある。
あれら全てを、無かったことに出来るのだろうか。
「いつの時代かは分からない。似ているけど、微妙に異なる時間軸の過去へと渡ることになる」
元子はそう言っていた。
母の胎内かもしれないし、十歳頃かもしれないし、去年かもしれないのだろう。
いつに跳ぶか分からないのは、リスクが高い。
だが、いつも、考えてきたことだった。
自分の生きてきた二十八年間は、何だったのだろう、と
ずっと、母のために生きてきた。父を亡くして、一人で美奈を育ててくれた母の想いに応えるために、母が喜ぶ選択をしてきた。それが自分自身の意志だと、誤魔化しながら。
そうして歩んできた結果が、今の自分だ。
人生に、何の喜びも感じていない。
なぜ生きているのかも、分からない。
生きていると言えるのかすら、疑わしい。
母が嫌いだったわけではない。むしろ、母は好きだった。好きだったからこそ、母の想いに応えようとした。
それでも、後悔はある。
母の願う通りにやってきた結果、今、確かに一人でも生きていけている。
だが、満ち足りた幸せは無い。
生きているとも言えないような人生を歩むこと。母が美奈に望んでいたのは、そうではないはずだ。
こんなことになるのなら、自らの意志で全てを決めてくるべきだったのではないか。
そんな風に思ったのは、一度や二度ではない。
それをやり直す機会が、この手の中にある。
「本当に?」
怪しい薬かもしれない。過去に渡るなど嘘で、危険なドラッグかもしれない。
そう考えてみても、結局、これは本物なのだと、心が認めてしまっている。
薬をベッドに置き、立ち上がる。
台所へ向かい、冷蔵庫から茶を取り出して、コップに注いだ。ゆっくりと、口に含む。
茶の甘味が口内に広がり、冷たい感触が喉を通った。
その後も、何時間も薬を眺めながら考え続けたものの、結局考えはまとまらず、飲むか飲まないか、決められないまま、夜は明けていた。
洗って乾燥させていた制服は、乾いている。
それに着替え、予備の鞄を持って、出社した。頬を冷やすのを忘れていたから、少し、腫れは残っている。隠すのも馬鹿らしくて、そのままだ。
職場に入ると、佐伯が真っ先に近づいてきた。
「お、大村さん。頬は大丈夫?」
「平気です」
「心配したよ、昨日は。良かった」
「もう、始業の時間ですよ。戻られては?」
「でも、大村さんが心配でね」
わずらわしさを感じる。
「平気ですから」
「あ、あ、うん。そうだね、ごめん」
「席に戻ってください」
「あ、うん」
へこへこと頭を下げ、佐伯が去っていく。
そばに座っていたあの女の舌打ちが、耳にまで届いた。
やがて、上司も職場にやってきて、業務が始まった。
つまらない仕事だ。やりがいも、何もない。ただ、金を稼ぐためだけの仕事。
いつも通りこなしていると、上司が近づいて声をかけてきた。
「大村君、頬はどうだね」
「平気です」
「腫れたままじゃないか。昨日は冷やしたのか?」
「忘れてました」
「何をやっているんだ、君は。その顔で出社して、周りに何か言われたらどうするんだ」
上司の顔が曇っていく。
「はあ」
「厄介事ばかり持ち込むなぁ、君は。もう少し人間関係を良くしようとは思わんのか?」
「しているつもりですが」
「ですが、じゃない。現状なっとらんだろうが。全く、これだから良いとこの出は」
上司が言った。
この男は、自分の保身のために言っているのだ。美奈の心配など、一切していない。自分の管理する職場で、問題が起きていると上に思われて、評価を下げたくないだけだ。
なおも小言を言い続ける上司の話を聞き流しながら、ふと視線を感じて横を見ると、あの女がまた、下品な笑みを浮かべていた。
良く見ると、周りの同僚のほとんどが、美奈を見て嗤っている。
そうか。ここにいるほとんどの人間が、美奈を疎ましく思っているのだ。改めてそれに気がついた瞬間、美奈は、急速に心が冷えていくのを感じた。
真面目に会社に出てきたのが、馬鹿らしくなった。
何を、悩んでいたのだろう。
気がつくと、椅子から立ち上がっていた。上司が、怪訝な顔をする。
「帰ります」
「は?」
「お疲れさまでした」
「お、おい、待ちなさい、大村君」
上司の制止を振り切って、美奈は会社を出た。
自分が生きているこの世界は、何の価値も無かったのだ。
他人を蹴落とそうとする人間。自分の感情を優先する人間。上にこびへつらうことしか考えていない人間。他人を嗤い、傷つけることが生きがいの人間。
ろくな人間がいないではないか。
母もいない。祖母もいない。美奈にとって大切な人は、もう誰もいない。
この世界に、何の未練がある。
何も、無いではないか。
怒りもない。諦めもない。
ただ、虚しい。
これが、美奈の生きてきた人生だったのだ。
家に着き、自室へ向かう。
机の引き出しから小箱を取り出し、中から錠剤を手に出した。
「こんな世界で生きるくらいなら、過去をやり直す可能性に賭けたほうがマシだ」
勢いで、錠剤を、口に入れた。そのまま、飲み込む。
全ての人が美奈のことを忘れても、良い。どうせ、美奈が消えて困る人は誰もいない。
元から、存在していないようなものだった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
どうせやり直すのなら、八歳の頃が良い。
父が死ぬ歳だ。父を、助けたい。父が生きていれば、全てが違ったはずだ。
それが駄目なら、十二歳か。
私立中学へは、もう行きたくない。あそこは、虚しいだけだった。
母に頼み込んで、公立へ通わせてもらう。
もしくは、高校生だ。母は過労で死んだ。母だけに、苦労をさせたくない。美奈も働けば、楽になる。
一人でも大切な人がそばにいてくれれば、それで良い。
考え込んでいると、いつの間にか、身体の自由がきかなくなっていることに気がついた。
いくら動かそうとしても、瞬きすら出来ない。
やがて、視界が真っ白になった。強烈な眩さを感じるのに、目を閉じることもできない。
それから、喉に痛みを感じた。それはすぐに強さを増し、全身へと広がっていった。
肌に、火傷を負った時のような激しい痛みが生じ、同時に、かきむしりたくなるようなかゆみが襲ってくる。
なおも、身体は動かせない。
頭だけははっきりとしていて、まるで拷問を受けているような苦痛が、何十分と続いた。
実際は数秒だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。
美奈にとっては、永遠とも思われるような苦しみの中で、いつしか、気を失っていた。
昨日、操作で間違えて物語自体を完結済みにしてしまっていたようです。
ご感想をいただいて気がつきました。
驚かせてしまって、大変失礼しました汗
全然終わらないです!!!
完璧なまでの操作ミスです。
ご心配おかけしました。
すでに連載中に戻してあります。
これからは気を付けます……
せんこう




