二 「忘れたはずの想い」
東京からでも、電車に一時間も乗れば、海へ行ける。
たどり着いた場所は、静かで、ひと気のない場所だった。
本格的なシーズンまでは、もう少しある。まだ海開きもされていないから、人がいないのは当然だ。
浜で、波が来ないであろうところに、腰を下ろす。
絶え間なく、波が寄せては引いていく。その音が、不思議と心地良い。
服が砂だらけになるのも構わず、美奈はその場に寝転がった。
空の澄んだ青さが、視界いっぱいに広がっている。
「こんなに、青かったっけ」
海へ来たのは二十年近くぶりで、空を見たのは十数年ぶりだ。
いつでも上を向けば見られるはずなのに、東京に来てから、見上げることなど全く無かった。
そんな心の余裕が、無かったからだろう。
仲の良かった友人が、空を見るのが好きだった。
あの子と居た時は、よく空を見ていた。今のように、穏やかなゆったりとした時間で、好きだった。
空の高いところを、飛行機が飛んでいる。
高すぎて、その飛行音は聞こえない。聞こえるのは、波の音と浜の近くを時折通る車の走行音だけだ。
目を閉じる。
ここには、何も無い。
嫌なことも、良いことも、何も無い。
あるのは、海と、空と、砂だけだ。
「こんなとこに住むのも、良いかもなぁ」
朝起きて、浜へ出る。
一日海と空を眺め、夜、眠る。
悪くない暮らしではないか。
寒い時期は辛いだろうから、海が見える場所に家を構え、サンルームを用意するのも良いかもしれない。
そうしたら、冬でも海を眺めていられる。
アパート暮らしではなく家を建てるとなると、貯金だけで一生は暮らせないだろう。
在宅で出来る仕事を見つければ、日銭稼ぎくらいは難しくないかもしれない。
関東にこだわる必要はないから、地方の島や田舎に行けば、多少物価も地価も安いはずだ。
「辞めようかなあ」
あの仕事が、好きなわけではない。
成り行きで続けているだけで、未練も一切ない。
人間関係の面倒に巻き込まれずに済むのだから、そっちの方が良いではないか。
寝ころんだまま、ぼんやりと考えているうちに、眠りについていた。
夢を、見ている。
その感覚が、何となくある。
幼い頃の自分だ。
小学校の廊下。懐かしい景色。
一人で、歩いているらしい。
図書室が、見えてくる。
扉を開けて中に入ると、窓際に男の子が立っていて、美奈に笑いかけてきた。
すぐに、昔好きだった、あの男の子だと分かった。
ただ、顔をよく覚えていないせいか、表情ははっきりとしない。
あの子と図書館で過ごした二人だけの時間は、美奈の人生の中で、一番の幸福な時だった。
男の子が面白い話をして、笑わせてきた。こらえようとするのに、我慢できずに笑ってしまって、図書室の教師が咳払いをした。
慌てて口を塞いで、二人でくすくすと笑う。
懐かしい、と美奈は思った。
こんな頃が、自分にもあったのだ。
突然、場面が変わった。
男の子がまた図書室の窓際に立ち、悲しそうに笑っている。
これは、卒業式の時か。
「好きだよ」
男の子が言った。
あの時、彼はこんなことは言わなかった。夢だからだろう。
好きだよ。美奈もそう答えたいのに、口は動かない。
景色が急に遠くなりはじめ、男の子の姿が離れていく。
行かないで。
叫びたいのに、言葉が出ない。
もがこうとしても、身体は思うように動かず、次の場面に移っていた。
公園。
夕暮れ。
一人、ブランコで揺れる美奈。
カラスが、空を飛んでいる。
男の子と女の子が、手を繋ぎながら美奈の前を通り過ぎて行った。彼と、彼が大切にしていた年下の女の子だ。
やはり、二人とも顔ははっきりしない。
二人は、笑い声をあげながら、どこかへ消えていった。
一人、ブランコで揺れ続ける。
誰も、いない。
そばには、誰も。
涙が頬を伝う感触で、目を覚ました。
おかしな夢を見た、と美奈は思った。
何故今頃になってこどもの頃の夢を見たのか。もう、とうの昔に置き去ってきたことのはずだ。
寒さで身体が震えて、空が赤くなりだしているのだと気がついた。
随分と眠ってしまったらしい。
身体を起こすと、相変わらず、波は寄せては引いていた。
「帰ろう」
呟いて、美奈は立ち上がろうとした。
手元を探って、首を傾げる。
周囲を見回しても、鞄がどこにも無い。
「……盗られた」
その事実に思い至り、ため息をつく。
中には、財布と汚れた制服くらいしか入っていなかった。仕事の日は、通勤用の財布を使っていて、少額の現金と電車の定期券しか入れていないから、痛くはない。
ただ、今から帰るための金が無い。
「あーあ、どうしよ」
仕事に持っていくものだからと、一応、それなりのブランドものである、本革の鞄を使っていた。
売れば、少しは金になるだろう。だから盗られたのかもしれない。
交番で事情を話せば、金を貸してくれるだろうか、と美奈は思った。
「行ってみるか」
暗くなる前に、浜を後にする。
交番がどのあたりにあるのか。まずはそこからだ。
「すみません」
道行く老人に、声をかける。
「はい?」
「交番を探しているのですが」
「交番? はあ、あっちですね」
杖をつく老人は、西の方を指している。その指が震えていて、いかにも頼りない。
一抹の不安を覚えながらも、美奈は礼を言って、老人が指した方向へと歩き出した。
しばらく歩いてみたが、やはり、交番は見えなかった。
「もうちょっと詳しく聞くべきだった……」
仕方なく、人が通るのを待つ。
日暮れが近いからか、人の姿は少ない。
やがて、塾帰りなのか、小学生らしき女の子が前を通った。
「ごめんなさい、ちょっと道を聞いても良いかな?」
「わたし?」
女の子が、自分を指さす。
「そう。交番に行きたいんだけど」
「それなら、向こうだよ」
女の子は、美奈が先ほど歩いてきた方角を指した。
「そっちから来たんだけど、無かったんだよね」
「三本目の道を右に曲がるの」
「あ、なるほどね、ありがと。そしたらすぐにある?」
「うん、あるよ」
「ありがと、助かったよ」
女の子はにっこりと笑って、走り去っていった。
見送ってから、美奈は再び歩き出した。
女の子の言った通りに、三本目の交差点で右に曲がる。しかし、その先に交番は無かった。
「……はあ」
聞き間違えたはずはない。女の子が、勘違いをしていたのだろうか。
仕方なく、先へ進んでみる。
どれだけ歩いただろう。五分か、十分か。
駅に戻って駅員に尋ねれば済む話だったのに、なぜかその時は、このまま歩き続けようと思ったのだ。
やがて、美奈は、細い路地にたどり着いていた。
陽は、ほぼ落ちかけている。路地には、点々と街灯が設置されているだけで、薄暗い。
路地の途中に空き地があり、美奈は、躊躇なくそこに立ち入っていた。
普段なら、絶対にしないことである。
頭では立ち入るべきではないと思っているのに、身体は動いてしまう。まるで、引き寄せられているようだった。
コンクリートではない草の生えた地面を、靴で踏みしめる感触が、やけに生生しい。
空き地の隅の木製の塀の前で、美奈は立ち止まった。
塀に、扉がはめこまれている。
「……何でこんな所に扉が?」
呟いていた。
何の変哲もない、木製の扉だ。窓はなく、取っ手が一つつけられているだけの簡素なものだが、美奈には、何もない空き地の塀に扉がある意味が分からなかった。
塀は二メートルほどの高さがあるため、向こうの様子は見えない。
向こうの家の持ち主が、この空き地の管理者で、こちら側に出やすくするために、扉をつけたのだろうか。
扉の横には椅子が一脚置いてあり、珍しい灰色の毛並みをした猫が、背筋をピンと伸ばして乗っている。
猫と、目が合う。
全く微動だにせず、まっすぐに美奈を見つめてくる。
まるで、何か意志を伝えようとしているようだ、と美奈は思った。
同時に、この扉を開けてみたい、とも思った。
きっと、開ければ向こう側に出るだけだ。分かっていても、開けてみたい欲求が、強くなっていく。
すでに、手は扉の取っ手に触れている。
そして、開けていた。
少しずつ隙間が広がっていき、橙色の光の筋が、隙間から漏れてくる。
扉はわずかな音を立てながら開き、向こう側が見えた。
はずだった。
実際には向こう側は見えず、扉の先にあった光景は、室内だった。
あり得ない異様な状況だと分かっているのに、美奈は、足を踏み入れていた。
理由も分からず、強烈に魅かれていた。入るべきだと、心が感じていた。
入る時に、猫が、小さく鳴いた気がした。
カウンターに頬杖をつきながら、元子はため息をついた。
「客、来ないねえ」
誰もいないのに、呟いてしまう。それほど、暇だった。
窓の外に目をやる。
鬱陶しいくらいの快晴だ。
もう数週間、客が来ていない。それまでは、一週間ほど、毎日次から次へと客が来たというのに、一度途絶えるとぱったりだ。
この店と商品と客とが、互いに求め合わなければ、元子とミケ以外の存在がこの店に入ることは出来ない。
それは巡り合わせだから、来ないも来るも、元子にはどうしようもない。
分かっていても、こうもやることが無いと、退屈である。
父からこの店を受け継いだのは、三年前だった。
ある日、別の仕事をすることになった父が、元子にこの店を任せる、と言ったのだ。
大学時代と卒業してからの数年は、こちら側について学び続けてきたし、店の手伝いにも慣れ、商品一つ一つについて理解するようにもなっていた。
だから任されても、ついに来たかと思った程度で、気負いはなかった。
父ほど立派に店を守れているかは分からないが、自分なりにやってきてはいる。
この店は、多くのギャップが交わる場所として、遥か昔から存在していて、店主はその仲介人として仕事をするのだ。
仕事をしていれば、月に一度、どこかから金が届く。誰が用意してくれているのかも、元子は知らない。父もそういうものだ、と言うだけだったし、詳しくは知らないのだろう。
ただ、そうやって金は届くから、商品で客から金を取ったりしなくても、生活には困らないし、様々なギャップと出会うことも出来るし、元子にとっては天職だった。
退屈などという思いを抱いてしまうのは、仕事に慣れてきたからだろう。
慣れが一番の敵であるとは分かっているが、ここまで暇が続くと、ついだらけずにはいられない。
「ミケ」
奥に繋がる扉の方から、軽い足取りでミケがやってくる。
跳躍してカウンターに飛び乗り、そのまま、元子の前で姿勢を正して座った。
「お客、来るの?」
ミケが鳴く。
「久しぶりに仕事が出来るね」
また、ミケが鳴く。
「へえ、特別な客? 分かった」
もう一度鳴くと、ミケはカウンターを降り、店の外へ通じる扉を自分で器用に開けて出て行った。
父は、他者の心を読める体質だった。それは猫でも例外ではなく、だからミケと会話をすることが出来ていた。だが、元子にはそうした体質は備わっていなかったし、後天的にも備わらなかった。
仕事を継ぐにあたって、この店の重要な一員であるミケとのコミュニケーションを、どうすれば良いか悩んだ。しかし、意外と早く、その悩みは解決した。
店を継いですぐの頃に、店に新しい道具がやってきた。それは商品ではなく、元子のためのものだった。
今、左耳に着けている補聴器のようなものがそれで、これを着けていると、動物の言葉が分かった。
なぜ、見計らったかのように届いたのかは、考えても分かることではない。とにかく、これのおかげで、ミケと会話が出来るようになった。
高校生の頃に、父から、必要に応じて変化が生まれる、と言われたのは、実際その通りだった。
心が読めた父の時と違って、ミケには都度声を出してもらう必要があるけれど、元子としては嬉しかった。
ずっと、父のようにミケと話したかったのだ。
「さてと、じゃあ準備をしますか」
椅子から立ち上がって、ぐ、と身体を伸ばした。
ミケの話によると、過去に元子と関わりのあった人物の知り合いがやってくるらしい。であれば、それなりの対応をしなければならないだろう。
ミケと話せるようになって知ったことだが、ミケは未来を視ることができるギャップだった。
だからいつも来客がある時には、事前に扉を客が来る地点と繋げて、外で待っていられたのだ。
父も、教えてくれれば良かったのに、と知った時には思ったものである。
来客は、夜だという。
それまでに少し片づけをして、渡すべき商品を出しておこう、と元子は思った。




