一 「ひとりぼっちになった美奈」
自分の生きてきた二十八年間は、何だったのだろう。
最近、よくそれを考える。
幼い頃に、父が死んだ。
それからは、母と二人暮らしだった。
小学生で、初めて好きな人が出来た。
その人とは、結ばれなかった。
初恋は実らない、とはよく言ったものだ。
互いに好きあっていたはずなのに、想いは成就しなかった。
高校は、母の実家がある東京の名門校に入学した。名門というだけあって、それまで以上に勉強漬けの日々だった。
父が死んで、母は苦労したのだろう。だから、母の願いは美奈が良い学校を出て、良い企業に就職して、一人でも生きていけるようになることだった。必死に美奈を育ててくれていたのを理解していたから、美奈も母の想いに応えるために勉強に打ち込んだ。
勉強だけしていれば、自分の中に抱える後悔と向き合わなくて済むから、というのもあった。
後悔と向き合って、どうにかなるわけではない。だから考えたくなかったのだ。
高校では、いつも学年で一番の成績だった。母は喜んだし、教師も喜んだ。自分も、苦しくなかった。
勉強漬けのおかげか、難なく最高峰の大学に入学した。
そして、入学した直後に、母が死んだ。
働きすぎだった。
あっけなかった。
母の願いを叶えるために生きてきたのに、母がいなくなった。
それでも、祖母がいた。
祖母は優しい人だった。だから、好きだった。祖母がいたから、立ち直れた。
祖母がいれば、大丈夫だ。
そう思っていた。
大学を卒業すると、祖母も病気で死んだ。
美奈の血縁は、誰もいなくなった。
幸い、家はあるし、企業への就職も決まっていたし、母と祖母の保険金もあった。
だから、ひとりで生きていくことは出来た。
だから何だというのか。
何のために東京へ来て、何のために勉強をして、何のために最高峰の大学に入って、何のために一流の企業へ就職したのか。
今までの自分の人生は、全て家族のために費やしてきた。
それなのに、家族は、誰もいなくなってしまった。
どう生きていけば良いのか、分からなくなった。
無意味であると分かっていながら、仕事に打ち込んだ。
今度は、仕事をしていれば、何も考えなくて済むと思ったのだ。
けれど、女である自分は、仕事で認められることは決してなかった。
ただ女であるという理由だけで、同期の男より成績が良くても、上にはいけなかった。
それだけでない。同性からは、優秀さを鼻にかけ、男に言い寄られて良い気になっている、いやらしい女だと陰で言われているし、男からは、ちょっと出来が良くて顔が良いだけの、高飛車な女だと陰で言われている。
自分は、一体何なのだ。何のために生きているのだ。
美奈の人生とは、何だったのだ。
近頃、全てがどうでも良い、と思うことが増えた。
今も、そうだった。
ぼんやりと職場の中を歩いていると、どん、という衝撃と共に、制服にぬるい液体がかかった。茶だった。
「あ、ごめんなさいっ、大村さん、気がつかなくって!」
同期の女が、慌てた様子で、盆に載せていた薄汚れた布巾を、身体に当ててきた。生乾きの臭いがする、汚らしい布巾である。
周りに見えないように、美奈にだけ向けられる、女の下卑た笑み。
また、いつもの嫌がらせだった。熱い茶ではないのは、火傷で訴えられないようにという、保身を考えてのことだろうか。
女は、にやついたまま、布巾を近づけてくる。
「構わないです」
女の手を引きはがして、上司の元へ向かう。
「制服が濡れたので、着替えてきます」
「……あぁ、早く戻りなさい」
嫌がらせは、何度も受けていた。仕掛けてくるのは、あの女だけではない。
もう、何も感じなくなっていた。
いつものことだ。
「良い気味だ、辞めちまえ」
通り過ぎる時に、小声で同僚の男が言った。成績争いで、美奈に負けた男だった。
無視をして、更衣室へ向かう。
中へ入って、自分のロッカーを開け、こういうこともあるかもしれないと想定して用意していた、替えの制服に着替えていく。
ふと、何のためにこの仕事にしがみついているのだろう、と美奈は思った。
やりたくてやっている仕事ではない。
ただ、何も考えたくなくて、ずるずると続けているだけだった。
母と祖母が残してくれた金と、仕事で稼いだ金を合わせたら、細々と暮らせば二十年は暮らせる。
家と土地を売り払って節約すれば、一生何もしないで暮らせるだろう。
わざわざ、働き続ける必要などないのだ。
なのに働き続けているのは、そういった手続きをしたり動くのも、面倒だからかもしれない。
ただ日々を繰り返していれば、楽だった。
嫌がらせも、気にしなければどうということはない。
着替えが終わりかかっていたところで、扉が開く音がして、先ほど茶をかけてきた女と、取り巻きが三人、現れた。
「大村さーん」
茶をかけてきた女が、鼻にかかったような声を投げかけてくる。
「何ですか?」
「あのさあ、いつ辞めてくれるの? そろそろ気づいてよ。誰もあなたにいてほしくないんだよね、この職場に。あなたがいなくなれば、皆幸せなの。分かる? 職場の空気を乱してるの、あなたなんだよ?」
「そうですか」
女が、舌打ちをした。
「はあそうですかじゃないっつうの。さっさと辞めろっつってんの」
「……あなたが辞められては?」
「っはあ!?」
「私といたくないのなら、あなたが辞めれば良いでしょう。私が辞めるのを待つくらいなら、そうしたほうが、よほど有意義ではないですか?」
「ふざけんな! 何で私が辞めなきゃいけないの? あんたがいなくなれば全部解決するんだから、さっさと消えて!」
顔を醜く引きつらせて、女が喚き散らす。
何故、この女は、ここまで美奈に当たり散らしてくるのか。
全く、心当たりは無かった。
最初の頃は、こんな女ではなかったはずだ。
一体、いつからだろう。
なおも罵詈雑言を吐き続ける女をぼんやりと眺めながら、美奈は昔を思い返した。
それで、一年ほど前からだったと気がついた。
あの頃起きた様々なことを思い出し、繋がりを探っていく。
一つだけ、繋がるかもしれないことが、浮かび上がった。
「もしかしてあなた、佐伯さんとお付き合いされてました?」
美奈の指摘に、女の顔がはっきりと歪む。
「ああ、やはりそうなんですね」
佐伯は職場の同僚で、一年ほど前から美奈にしつこく言い寄ってくる男だった。
相手にする気はないと言っているのに、全く諦めず、付き合っていた恋人と別れてきた、とまで言われたことがあった。
その別れた恋人が、この女だったのだろう。あの直後くらいに、女が泣いていた姿を目撃している。
そのすぐ後から、この女の嫌がらせが始まった。
「私のせいではないんですけどね」
言った瞬間、頬を叩かれていた。よろめいて、ロッカーに身体をぶつけた。激しい音を立てて、ロッカーが揺れる。
鋭い痛みが、右の頬に広がった。
女は泣いていた。
取り巻きが、狼狽し始める。
冷ややかな気持ちでそれを眺めながら、美奈は口を開いた。
「気分を害したのなら、すみません。私はもう行きますね」
粗い息を吐く女の横を抜け、美奈は更衣室を出た。
行き交う社員達が、ぎょっとした顔で美奈を見ていく。
廊下の途中にある鏡に目をやると、頬は酷く赤くなっていて、一目見て腫れていることが分かった。
「お、大村さん、どうしたの、その顔!?」
職場に戻ると、佐伯がうろたえながら傍にやってきた。
「何でもありません」
席に着きながら答える。
「何でも無いってことは……」
「大丈夫ですから」
「で、でも」
「大村君」
いつの間にか、そばに上司が立っていた。
「その顔は、冷やしたほうが良い。それと、もう今日は帰りなさい」
「別に平気です」
「良いから」
こめかみを揉みながら、上司は有無を言わさぬ口調で言った。
「そんな顔で仕事をされても、困る」
「……分かりました」
なぜ、他人の色恋に巻き込まれて、自分が損をするのだ。
心の中で舌打ちをして、美奈は席を立ちあがった。
「お姉さん、今から帰り? 休みなの?」
駅へ向かって歩いていると、軽薄そうな見た目の男が、隣にやってきた。高めの声に、へらへらとした薄ら笑い。一目で、ろくでもない男であることが分かる。
無視をして、歩く。
「いやほんと綺麗だね、ひとめぼれ。あ、お米の名前じゃないよ。お姉さんに恋しちゃったってことね。暇なら一緒にお茶しない? 良い店知ってるんだ」
「そういやその鞄、めっちゃ良いね。本革でしょ? タカソー」
「ねね、今から笑わしてみせるから、笑ったらお茶しようよ」
無視をし続けているのに、男は諦めない。しかも、美奈の頬が腫れていることにも、気がついていないようだ。まともに人の顔など、見ていないのだろう。
昼頃だと、オフィス街でもこんな輩が現れるのか、と美奈はため息をついた。
「興味ないので、失せてください」
睨みつけると、男は一瞬ひるんだ様子を見せたが、すぐに顔を歪ませた。
「ちっ、調子こきやがって、ブスがよ」
悪態をつきながら、男は去って行った。
ため息をもう一度ついて、歩き出す。
ブスと言われるのは、もう慣れている。
男は、初めは皆、美奈の外見を目当てに寄ってくる。相手にしないと、そのうちブスと言われるようになる。
この顔で得をしたことなど、ほとんど無かった。せいぜい、行きつけのスーパーで、たまに男性従業員からサービスをしてもらえるくらいだ。
電車に乗っていれば痴漢に遭うこともあったし、今のように男に言い寄られることもある。会社や学校でも、佐伯とあの女のように、他人の色恋の面倒事に巻き込まれてきたし、どちらかといえば、この顔のせいで損ばかりしてきた。
男も女も、美奈の周りには、ろくな人間がいなかった。
友人も、一人もいない。
いや、正確には、中学までは仲の良い子が一人いた。
母と祖母の死が続いて、自暴自棄になっていた頃に、向こうからの連絡を拒絶するようになった。それ以来、関りが無くなった。
あの子との繋がりは、今では枕元に置いている置物だけだ。
東京へ引っ越す時に、あの子がくれたものだった。
貰った当初は不気味で、とても飾る気にはなれず、箱に仕舞っていた。
一週間ほど前に部屋を片付けた時に、偶然見つけて、何となく当時のあの子が言っていた、枕元に飾ると良いことがあるという言葉を思い出して、飾っていた。
久しぶりに見ると、それほど不気味には感じなくなっていたからというのも、理由だ。
今、あの子はどうしているだろうか。
気にはなっても、連絡を取りようはない。取る気も、ない。
駅に着いて、改札を通る。ホームに人は少なめだった。この時間だと、通勤時間に比べてかなり空いている。
駅員の挙動も、どこか気だるげな様子で、昼下がりのゆったりとした空気感が漂っている。
美奈は、ホームの並ぶ場所に立ちながら、線路の向こうの広告看板に、何気なく目をやった。
そうだ、海へ行こう。
広告に大きく写る女性から飛び出している吹き出しに、そう書かれている。背景には、夕陽に照らされた海。
旅行会社の看板らしい。
海など、最後に行ったのはいつだろう、と美奈は思った。
まだ、父が生きていた頃だっただろうか。昔すぎて、あまりよく覚えていない。
「行ってみようか」
呟いていた。
仕事を早退したのは、随分久しぶりのことだった。
この時間だと、スーパーの割引もまだやっていないし、家に帰ってもやることはない。
ぶらりと行ってみても、良いかもしれない。
そう思ったのは、気まぐれだった。
次の電車が駅に近づいていることを報せる音楽が、ホームに鳴り響いた。




