九ノ二十三 「定期演奏会 三」
トイレや休憩のために席を立つ客や、ミュージカルの感想を話し合う客の声で、ホール内は騒がしい。
二時間近く公演する演奏会では、一度か二度、休憩時間が取られるのが普通だ。十五分からニ十分の休憩で、それは客にとっても必要ではあるが、演者側にとっても必要である。おそらく今は、あの緞帳の向こうで、舞台転換が行われているのだろう。
真二は、生のミュージカルを観るのは生まれて初めてだった。吹奏楽が好きなのであって、ミュージカルには興味がない。だからわざわざ時間を使って観る必要性を感じていなかったのだ。
実際に観てみると、中々、面白いではないか、と真二は思った。野ネズミの内気な弟が兄の旅立ちを機に成長する話で、絵本風の世界観だった。
ミュージカルは、小難しく古臭いという先入観を持っていたが、こういう作品なら、真二でも見られた。
「少人数でも、バンドは上手かったな、真二」
隆が言った。
「少人数だと目立つし、実力のある人達で固めてるんじゃないか?」
「どうかな。先に役者を決めるでしょ。役に合う人が演じないと、劇そのものがダメになるんだから。部員一人一人が、少人数でも聴かせられる高い技術力を持ってるってことじゃない?」
「千奈の言う通りかもね。てか、武夫先輩が主役って意外。そういうこと出来る人って印象なかったけど」
心菜が言った。
「それは、俺も思った。武夫先輩は静かな人だったし」
「結構声出てたよね。演技も良かったし」
「ああ。歌や演技が、好きなのかな」
ここにいる四人はパートも違ったし、誰も武夫について詳しくは知らない。
野ネズミの兄のルウを演じていた人の方が、演技は上手かったとは思う。だが、武夫も内気な弟のマルをしっかりと表現していた。
「それにしても、トランペットの三人、音が綺麗だったなぁ」
「逸乃先輩は分かったけど、他の二人は何年生だろう」
「分かんない。上手かったし、二年か三年じゃない?」
「お前、レギュラーなれるのか?」
真二の言葉に、さあね、と心菜が言った。
「別になれなくても良いし。ていうか、そもそも部員数少なそうだし、うちらが入っても五十五人満たないかもよ。そしたら自動的にレギュラーだし」
「やる気ないな」
「前に言ったでしょ、真二。私は元々がっつりやりたくて吹部に入ったわけじゃないの」
「知ってるけどさ」
もったいない、と真二は思った。心菜は、高音もそれなりに出せるし音色も悪くない。持久力だってあるし、その気になればトップを担えるだけの素質は持っているはずだ。
「真二、心配しなくても心菜は、何だかんだちゃんとやるから大丈夫だよ」
「ん、千奈は分かってるねぇ。そうなの。私はやる時はやるよ」
真二の代は、千奈が部長で心菜が副部長だった。二人とも、常にやる気の無さそうな顔をしているが、実際は千奈より技術力のある部員は一人もいなかったし、心菜ほど部をまとめ上げられる人物もいなかった。
高い能力は持っているのだから、それをさらに伸ばそうとすれば良いのに、と思わざるを得ない。やる時だけやっていては、成長しないだろう。常に向上しようという気持ちが大切なはずだ。
「あれ、丸井さん?」
「ん?」
名前を呼ばれて、千奈が顔を上げた。真二も、声をあげた人物の方を見る。
通路に立っていたのは、花田南中の北川海だった。花田南中の吹奏楽部で部長をやっていた子だ。花田町単独の中学生合同バンドで一緒にやっていたから、顔は覚えている。
「やっぱり。聴きに来てたんだ」
「北川さん。おひさ」
「久しぶり。もしかして、四人も花田高に入るの?」
「そうだよ」
「吹部?」
「もち」
ふーん。海が小さく言って、鼻を鳴らした。
「中央中の子が四人もいると、やりづらそう。あんまり大きい顔しないでね。じゃ」
言いたいことだけ言い捨てて、海はホールを出て行った。
「なんだ、あいつ」
隆の舌打ちが耳に届く。
花田中央中と花田南中の吹奏楽部は、真二が一年生の頃から、なぜか仲が悪い。花田町単独の中学生合同バンドでも、この二校の生徒はソロやトップ争いばかり繰り広げていた。
海はホルンを担当していたが、何故か打楽器の千奈を敵視していたことを思い出す。部長同士ということで、張り合っているのかもしれない。
「丸井、気にすんなよ、ああいうのは」
「ん、気にしてないよ、隆」
「あーあ。北川さんも花田高に来るのかぁ。嫌だなあ」
心菜の呟きに、真二も心の中で同意した。合同バンドは、地元の祭りやイベントで演奏をするのが主な活動だった。中央中生は強制参加だったから参加していたが、正直に言えば、南中との争いは面倒だった。トロンボーンパートでも、一方的に真二が敵視されていて、トップを真二が獲得した時には、南中の女子に号泣されたものだ。
高校で吹奏楽部に入って、常に南中出身の子と顔を合わせるのは、気まずい。
「平和にやりたいよ、私は」
「俺もだよ、心菜」
海がいるのなら、花田高での三年間は一筋縄ではいかなそうだ、と真二は思った。
千奈が海の敵意を無視しているから、大きな喧嘩にはなっていないが、あれが他の部員に、例えば心菜に向いたりすると、厄介なことになる。
ため息をついたところで、ホール内に二部と三部間の休憩が終わる報せのベルが鳴った。いよいよ、第三部のポップスステージである。
真二は椅子に座り直してパンフレットを開き、曲目解説のページに目をやった。三部の目玉は、『ルパン三世のテーマ』だ。中間部に、真二には吹けそうもない、難しいトロンボーンソロが組み込まれている。
おそらく、一部でずっとトップ席に座っていた女の人が吹くのだろう。あのソロが格好良く決まれば、気持ちよさは半端ではないはずだ。
「やっと三部かぁ、楽しみ楽しみ」
笑顔に戻った心菜が言ったのを聞いて、真二も頷いていた。
第三部の最初は、吹奏楽の定番中の定番である『コパカバーナ』だ。
緞帳は下がったまま、ホール内は暗闇である。丘の合図で、打楽器パートの陽気なリズムが打ち鳴らされだした。続いてフルートパートの奏でる旋律が開始し、それと同時に下がっていた緞帳がゆっくりと上昇を始める。次第に照明が明るくなり、第三部が始まった。
終始陽気な南国の雰囲気を感じさせる曲で、ステージの一曲目に最適である。一部と二部とは、がらりと雰囲気を変えて楽しんでもらうことを示すために選ばれた曲だった。
丘が客席を向いて、手拍子を促す。
客の反応は良い。丘も、時折頷いて曲が好調であることを認めている。美喜のトロンボーンソロも、純也のドラムソロも上手く決まった。
曲が終わって打ち鳴らされる拍手が、その出来を物語っている。
司会の涼子が出てきて、第三部の開幕の報せと曲解説を始めた。
まこは席を移動し、トランペットの中の水を抜いた。椅子の下に置いていた水筒から水を飲んで、息を吐き出す。
一曲吹き終える度に、演奏会の終わりが近づいている。まこは、それを考えたくなかった。だから、ひたすらに曲を吹くことだけに、意識を向ける。
二曲目は『カーペンターズ・フォーエバー』である。世界的に有名な兄妹デュオの名曲をメドレー形式にした曲で、しっとりとしたナンバーから明るく軽快なナンバーまで、誰もが一度は聴いたことがあるであろうメロディがいくつも流れる。
まこは、この曲でファーストを吹く。自分から願い出て選んだことだった。
吹奏楽は、高校から始めた。それまで、トランペットなど触れたことも無かった。触れたことのある楽器といえば、カスタネットやピアニカ、リコーダーといった授業で使われるものくらいだ。それなのに吹奏楽部に入ったのは、気まぐれだった。
中学校では新体操部に所属していたものの、怪我が原因で、早くに引退した。やりたいことが無くなって、日々に絶望して腐っていた。だから、中学時代は最悪だった。勉強をする気も起きなくなって、受験できる学校の選択肢はほとんどなかった。
消去法で、花田高に入学した。新体操部が無い学校だというのも、決め手の一つだった。
最初は、何も部活動に入るつもりは無かった。けれど、ふらりと立ち寄った吹奏楽部の新入生歓迎コンサートを見て、何となく入ってみようかという気になった。今でも、何故そんな気になったのかは分からない。本当に、何となくだった。
任されたのは、トランペットだった。初めは、まともに音も出なかった。こんな楽器が自分に吹けるようになるのかと、いつまでも自信が持てなかった。
先輩が厳しい人で、まこがトランペットを吹けるようになるまで、付きっきりで見てくれた。口は悪かったけれど、決してまこを見捨てない、情が厚い人だった。
諍いがあったことで、まこの代と一個下の代は、上級生を全員嫌っている。まこも例外ではなかったけれど、その人だけは、嫌いではなかった。
ひたすら練習した。時間さえあれば、練習だった。だから、パートリーダーを任されて、嬉しかった。同期の修が頼りなかったというのもあるけれど、自分がもっと頑張ろうと思うようになった。
ある日ふと、腐っていた自分はいなくなっていたことに気がついた。毎日がただがむしゃらで、落ち込んでいる暇も、絶望している暇も無かったからか。信頼出来る仲間が出来たのも、大きかったのかもしれない。
苦しいけれど、毎日が楽しいと思うようになっていた。この部のおかげで、まこは自分を取り戻せたのだ。
夢や目標を失って死んだようになっていた自分は、もういない。
部にも、部の皆にも、感謝している。だから、最後くらいは良いソロを吹いて、貢献して終わりたかった。
今まで、自分が初心者であるという引け目から、ソロは引き受けないようにしてきた。最後だけは、自分に一つ任せてほしい、とパートの子達に頼んだ。
皆、喜んでくれた。だから、この曲でファーストを選んだ。
中間部、メドレーの中の一曲、『遥かなる影』に、フリューゲルホルンという楽器のソロがある。見た目はトランペットに近いけれど、全く別物の楽器である。このソロを成功させるために、数ヶ月、練習し続けてきた。
ホールの一番後ろ、照明室のライトが、舞台の前方に立つまこを照らしてくる。
眩しい。眩しすぎて、影になったマイクしか見えない。前を向いているから、部員の姿も丘の姿も、目の端にすら映らない。
これが、本番のソロか。こんなにも、一人なのか。緊張に、呑みこまれそうだ。
けれどまこは、気を奮い立たせた。
自分が上手くないことは、自分が一番分かっている。それでも良いのだ。今の自分に吹ける演奏を、ただ吹くだけである。
上手いも、下手もない。
自分の奏でたい音を、奏でる。それで、良い。心に決めたその想いのおかげで、緊張で震えることはない。
直前の星子のソロが終わる。まこは、楽器を構えた。
息を静かに吐き、それから、吸った。
フリューゲルホルンから、しっとりとした音を放つ。心は熱く、けれど、冷静に。聴かせる音を、意識する。
吹けている。成果が、出ている。
皆、聴いてくれているだろうか。これが、まこが三年間吹き続けてきた、成果だ。
わずか数十秒。それでも、まこの全てを表現する時間だった。
吹き終えて、楽器を口から離す。ゆっくりと頭を下げ、拍手を浴びる。
初めて、身体が震えた。
自分でも、拍手を貰えるソロを、吹けたのだ。目の前の見知らぬ客が、笑顔になっている。まこを、認めてくれている。
思わず、まこも笑顔になっていた。
摩耶は、前に立つ九人の姿を目に焼き付けようと、しっかりと見据えていた。
演奏会の最後の曲である『ルパン三世のテーマ』を終えて、三年生が感謝の言葉を述べる時間である。マイクを手にした晴子が、礼をした。
それに合わせて、丘が指揮を振る。一、二年生だけで、『ロマネスク』の演奏が始まった。プログラムやホームページには掲載していないけれど、練習していた曲だ。
摩耶は、この曲が大好きだった。これから旅立つ上級生に向けて、部に残る下級生達で送り出す曲だからだ。
特別なソロも派手な旋律もない、静かな曲。けれど、美しいハーモニーとメロディが、否応なしに心を揺さぶる。
「ご来場の皆様、今日は、私達の演奏会にお越しくださり、本当にありがとうございます。こんなにも沢山の方にご来場いただけたのは、初めてです。皆さんに演奏を聴いていただけて、私達は幸せです」
晴子の言葉が、ホールに響く。三年生達が挨拶をする時間を演奏会に組み込んだのは、丘の提案だった。
「この演奏会は、私達だけでは決して開くことが出来ませんでした。毎日、夜まで音を鳴らし続ける私達をあたたかく見守ってくださった地域の皆様、広告を出してくださった企業やお店の皆様、会館を貸してくださったスタッフの皆様、私達を導いてくださった先生方、裏方をしてくれた先輩方、支えてくれたお父さん、お母さん。多くの方のおかげで、こうして今この場に立っていられます。本当に、本当にありがとうございます」
頭を下げる、九人。晴子は、原稿を用意していた。昨日まで、暗記するために必死で覚えようと練習していたのを、摩耶は見ている。
今、晴子は原稿を見ずに、しっかりと前を向いて話していた。淀みなく、一言一言、しっかりと言葉にしている。
最前列の席に座る女性が、涙を流してハンカチで拭っているのが見えた。
「そして」
晴子が、こちらを向いた。他の八人も、後ろを振り返る。
「一、二年生の皆。皆と頑張って来たこの一年間は、私達にとって、宝物のような日々でした。皆が私達を見放さず、信じてついてきてくれたから、無事に今日を迎えることができました。皆のことは、心から頼もしい後輩達だと思っています。私達がいなくなっても、きっと花田高吹奏楽部を更に盛り上げていってくれると、信じています。今まで、私達についてきてくれて、ありがとう」
摩耶は、自分の頬を、涙が流れていることに気がついた。
本当に、これで最後なのだ。もう明日から、晴子達と共に演奏することはないのだ。
九人は、また前を向いていた。
「はじめは十八人いた私達の代は、色々な出来事があって、途中からたった九人になってしまいました。仲間が少しずついなくなっていくのは、とても悲しく、胸が痛かったです。本当は、十八人全員で、この場に立っていたかったです。皆で、笑顔で最後を迎えたかったです」
晴子の声は、決して震えない。泣かないと、決めているのだろう。晴子は、そういう人だ。
「一人、また一人と辞めていく中、残ったこの九人だけは、決して辞めないようにしよう、最後まで九人で頑張ろう、と約束しました。辛いことも沢山あって、何度逃げ出そうと思ったか分かりません。そんな時、他の八人がいつもそばにいてくれたから、もう少し、もう少し、と踏ん張ることが出来ました。皆で支え合ったこの一年は、大切な思い出です」
涙で視界が滲んで、丘の指揮が良く見えない。それでも摩耶は、演奏の手は止めなかった。送り出す曲なのだ。下手な演奏で、送り出したくはない。
「私達の高校生活は、今日で終わりです。皆、別々の道に進みます。だけど、この部で過ごした三年間を、私達は決して忘れません。そして、今日この演奏会で、皆さんと共に音楽を楽しむことが出来たことを、決して忘れません。ありがとうございました。どうか最後の一音まで、私達の音楽を楽しんで行ってください」
九人が揃って礼をする。
会場が、拍手で包まれた。同時に、曲は、最高潮に達していた。
まだ、終わらないでほしい。きっと、部員の誰もがそう思っていただろう。
けれど、終わる。終わってしまう。
九人が頭を上げたとき、最後の一音は消え去っていて、代わりに、唸るような拍手が降り注がれていた。
丘が合図をして、部員全員で立ち上がって前を向いた。
指揮台を降りた丘が、晴子や都の肩に触れる。
九人が、振り返った。誰一人として、泣いていない。
九人の顔に浮かんでいたのは、とびきりの笑顔だった。




