九ノ二十一 「定期演奏会」
「うっわ、凄い人」
会館へ向かう人々を見て、ひなたは思わず声を上げた。
雑貨屋の店主が運転する車が、会館の駐車場に入るための車列に並んでいて、その横を定期演奏会を聴きに来たのであろう人々が通り過ぎていく。こどもから老人まで、幅広い年齢層だ。
「毎年こんなんだよ。車、止められるかなあ」
運転席に座る店主が、車列の先を見ようと、背筋を伸ばしながら言った。
「何人くらい来るんですか?」
「さあ、発表されてないから詳しいのは知らないけど、ホールの中は千五百人入るらしいよ。実際来るのは、千人くらいじゃない?」
「千人!? そんなに来るんですか!」
高校の吹奏楽部の定期演奏会なのに、まるでアイドルや歌手のライヴではないか。
ひなたは、吹奏楽というもの自体、興味を持つまでは大したものではないと思っていた。せいぜい、小さなミニコンサートをするくらいの活動しかしていないのだろうと。実際は、そんなにも多くの人に親しまれているのだ。
「花田高って、人気なんですね」
「一応、この辺の地域では花田高の吹奏楽部は上位だからね。それに今年度はコンクールで東海大会の金賞も受賞してるから、県内外からも結構来るんじゃない?」
「東海大会って、凄い大会なんですか?」
「地区大会、県大会、東海大会の順で、一番上が全国大会。つまり花田高は愛知県の代表校として、東海地区の高校と競ったってことだね」
「それで金賞って、凄いじゃないですか」
「そうだよぉ。花田が東海金になったのは、十何年ぶりだよ」
「詳しいんですね」
「私も吹奏楽やってたからね~」
「え、そうなんですか?」
列が動き出して、車がゆっくりと前進した。店主が頷き、ちらりとこちらを見てくる。
「実は花田高の卒業生なのだ、私は」
「えぇ~!?」
ふふん、と胸を張っている。
「ということで、ひなたちゃんは後輩だね」
「せ、先輩!? いや、店長さん!? これから、な、なんて呼べば?」
「美月さん、で良いよ」
「え、そんな、名前なんて!」
大人を名前で呼ぶのは、抵抗がある。
「遠慮すんなよ若者よ~」
「遠慮とかじゃないですっ!」
「ふーむ。なら、美月と呼んだら、次の買い物で割引してあげよう」
「えっ」
それは、魅力的だ。万年金欠のひなたにとって、名前で呼ぶだけで割引される機会など、逃すわけにはいかない。
恐る恐る、口を開く。
「じゃ、じゃあ……美月、さん」
「ん」
満足そうに、美月が笑った。その笑顔に、なんとなく気恥ずかしくなって、ひなたは助手席の窓の外に顔を向けた。歩道の人の列は、どんどん先へ進んでいる。
美月とは、長く店主と客という間柄だった。いきなり名前で呼び合う仲になったのは、段階を飛ばし過ぎている気もする。けれど、年上であるはずの美月は、気にした風もない。
ひなたが、気にしすぎなのか。沈黙に耐えかねて、顔は窓に向けたまま、口を開いた。
「あの……高校生の時は、何の楽器やってたんですか?」
「ん? ホルンだよ。あんま上手くなかったけどね」
ホルンがどういう楽器かは知らないが、名前からは、何となく美月に似合いそうだ、とひなたは思った。
「美月さんが高校生だった時は、コンクールはどこまで行ったんですか?」
「全国大会に出たよ。私が一年生の時にね」
思わず、美月の方を見た。
「えっ、凄い! 金賞ですか?」
「ううん、銀賞。花田は、まだ全国金を取ったことはないんだよ。っていうか、全国大会自体その年と前の年の二回しか、行けてない」
「やっぱり、全国大会に行くのは大変なんですか?」
「そりゃあね。あの年は、まぐれみたいなものだったんだと思う。私達の力というよりは、当時の部長だった人と顧問だった先生の力が大きかった。私達部員は、皆その二人についていくって感じだったんだよ」
懐かしむような顔を、美月が見せた。
「そうなんですね」
「私が二年の時と三年の時は、東海大会止まりだった。それ以降も、良くて東海大会銀」
「何で、駄目だったんでしょう」
「分からない。皆、頑張ったんだけどねえ。先生も同じだったし。あ、そういえば今花田高で顧問をしてる丘って人は、私の一個上の先輩だよ」
「へ~!」
ミニコンサートの動画で、指揮を振っていた男の人だろう。
「どんな人ですか?」
「頭が固くて、クソ真面目で、でも部活に対しては滅茶苦茶熱い人だった」
「怖い人ですか?」
「いや、先輩が怒ったところはほとんど見たことないかな。でもまあ、当時とは変わってるでしょ。入部してのお楽しみだね。お、やっと入れそうだ」
言われて前を向くと、車は駐車場に入ったところだった。
係員の誘導で、空いている場所に美月が車を駐車した。
「お待たせ。さ、行こうか」
車を降りると、周囲の車のエンジン音と大勢の人の話し声で、駐車場は騒がしかった。
空を見上げ、手で庇を作る。陽が眩しい。
午後の一番暖かい時間帯だから、上着を着ていなくても充分だ。
「洋子ちゃん、早く早く!」
「良い席無くなるよー!」
ひなたの横を、三人の女の子が声をあげながら駆け抜けていった。
「待ってよ!」
遅れた子が一人、懸命な顔をして追いかけていく。
「駐車場は危ないから走らないで!」
保護者らしい女性が、四人に向かって声をかけた。慌てて走るのをやめた四人が、早歩きで去って行く。
ひなたは、何気なくそれを見ていた。
「同い年くらいじゃない、あの子達」
隣に来て、美月が言った。
「多分、そうですね」
「でもひなたちゃんより幼かったな。一個か二個下かもね」
「あの子達、良い席無くなるって言ってました」
「うん、ホールで一番良く聴こえる席ってのがあるからね。まあ、私達は空いてるところに座ろう」
「あ、はい」
行こ。美月が言って、歩き出した。駐車場を抜けても、人が沢山だ。誰もが、同じ方向へむかって歩いている。
「今日は中ホールでもイベントがあるから、こんなに人が多いのかもねぇ」
「定期演奏会は?」
「大ホールだよ」
見えてきた施設を見て、ひなたは短く声を上げた。大きい会館だ。ガラス張りになっていて、一番上は見上げるほどの高さがある。こういう施設に入るのは、初めてだった。
腕に着けた時計に目をやる。十三時五十分。もうすぐ、開場時間になる。
あのオーボエの女の人が、頭に浮かんだ。事前に、ホームページで演奏曲目は調べてある。『風笛』も演奏するらしい。気持ちが、高揚している。ついに生であの人の演奏を聴けるのだ。
待ちに待った日だった。無事に花田高への入学も決まって、春からは花田高の一員になる。当然、吹奏楽部に入るつもりだ。あの女の人以外にどんな人達がいるのかを知る、良い機会でもある。
期待と不安が混ざり合って、胸の辺りが落ち着かない。けれど、それ以上に楽しみだ、とひなたは思った。
あの女の子達のように、早く行きたい。良い席に座りたい。けれど、美月はそんなひなたの内心は知らないので、景色を眺めながらのんびりと歩いているのだった。
「ねえねえ、会場開いたらすぐ真ん中の席行こうよ、華」
「えー、もう前にこんなに並んでるから、無理じゃない? さすがに会場内で走ると危ないし」
「コウキ先輩の音を、一番良い席で聴かなくてどうすんの!」
「落ち着きなよ、かな。周りに声が聞こえてるって」
「そんなこと言って、真紀だって良い席で聴きたいでしょ?」
「いや、そりゃそうだけど」
うるさいな。心の中で舌打ちして、真二は後ろをちらりと見た。年下らしい女子四人が、列に並びながらわいわいとはしゃいでいる。会話から察するに、花田高の吹奏楽部に知り合いでもいるのだろう。
意識をそちらから外して、真二は遠くを眺めた。次から次に、来場者らしき人々が集まってきて、列の最後尾に並んでいく。この様子だと、かなりの客数になりそうだ。真二の前にも、すでに何十人も並んでいる。
早めに来ておいて正解だった。開演間近に来たら、舞台がよく見えない端の席に座らなくてはならなかったかもしれない。
「そういえば、逸乃先輩とか武夫先輩とか園未先輩、元気かなあ」
隣で並んでいた心菜が言った。花田中央中の卒業生も、何人かは花田高に進学していたはずだ。
「園未先輩って、誰だっけ」
「はあっ? 真二、サイテー。ホルンの超可愛い先輩だよ。背がちっこくて人形みたいな」
「やべ、覚えてない」
「クソ」
じろりと睨まれて、頬をかいた。あまり会話はしていないが、同じ男子だったから武夫は覚えている。異常に上手かったトランペットの逸乃も、かろうじて記憶にある。園未という人は、思い出せない。上級生の女子を覚えるのは、苦手だった。
「一個上の学年なら、ホルンの矢作先輩とチューバの清水先輩がいるだろ。その二人は覚えてるぞ」
「一個上なのに忘れてたら軽蔑してるよ」
「……こいつ、俺にだけなんでこんなキツイの?」
親指で心菜を指し、前に並ぶ千奈に話を振った。眠そうな顔をしながら携帯をいじっていた千奈が、首を傾げる。
「好きなんじゃない?」
「ばっ! なわけないでしょ!」
顔を真っ赤にした心菜が、真二の脇腹を殴ってきた。見事な一撃である。衝撃で、膝から崩れ落ちた。
「何で、俺を殴る……」
「受ける」
千奈が、腹を抱えて笑った。その隣に立つ親友の隆まで、笑っている。
「お前ら……」
最初は、一人で定期演奏会に来るつもりだった。合格発表の日に心菜と偶然会い、そこで定期演奏会に行くことを話したら、花田高に入学することが決まった四人で行こうという話になった。
どうしても一人で行きたい訳ではなかったから了承したのだが、こんなことになるのなら、一人で来ればよかった、と真二は思った。
後ろから、くすくすと笑う声が聞こえて顔を向けると、はしゃいでいた女子達四人が、真二を見て笑いをこらえていた。途端に恥ずかしさが沸き上がってくる。痛みも気にせず、慌てて立ち上がった。
まさに、災難である。
「心菜のせいだ……」
「何か言った?」
「イイエ……何も言ってまセン」
鼻を鳴らして、心菜が顔を背ける。今日も、余計なことは言わない方が良いだろう。
痛む脇腹をさすりながら、真二はそっとため息をついていた。
昼食の時に、妹のかこからメールが来ていた。演奏会の前に、渡したいものがあるとのことだった。
開演前に抜け出して、搬入口へやってきた。未来が扉を開けて外へ出ると、顔を輝かせたかこが駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん!」
抱きついて、嬉しそうに頬をすり寄せてくる。
「遅くなってごめん。それで、渡すものって? あまり長く抜けていられないの」
「あ、ごめんね! はい、お守り! 朝渡すの忘れちゃったから!」
かこが、小さな手製のお守りを差し出してくる。未来はそれを受け取って、目の高さで掲げた。色とりどりの糸を使って作られている。
「可愛い」
「一生懸命作ったから。演奏会が成功するようにって気持ち込めたよ」
「ありがと、凄い嬉しい」
笑いかけると、かこも嬉しそうに歯を見せて笑った。
「頑張ってね、お姉ちゃん。客席で聴いてるから!」
「うん。ソロもあるから期待してて」
「うんっ! 邪魔してごめんね、行ってらっしゃい!」
「行ってきます」
もう一度かこの頭を撫で、未来は中へと戻った。
お守りを制服の胸ポケットに仕舞い、舞台裏に入る。すでに他の部員達は集まって、待機している。
夕のところへ向かい、預けていたクラリネットを受け取った。
「未来先輩、どこ行ってたんですか?」
夕に聞かれて、お守りを見せる。
「妹がね、作ったお守りを持ってきてくれたから、受け取りに行ってた」
「わあ、素敵。良い妹さんですね」
「うん。自慢の妹。花田に入りたがってるしクラ吹いてるから、多分再来年には夕ちゃんの後輩になると思う」
「えっ、未来先輩の妹さんが……?」
「優しく教えてあげてね」
「いやいや……絶対私より上手いですよね……」
「ふふ。今はそうかもしれないけど、夕ちゃんの成長の早さは凄いから、きっと三年生になる時には夕ちゃんの方が上手いよ」
恥ずかしそうに、夕が俯いた。
偽りのない本心である。確かに、かこは技術力がある。けれど、夕とかこを比べれば、圧倒的な差があるわけではない。夕の努力次第では、高校生の間にかこよりも上手くなることは可能なはずだ。
夕と話していると。梨奈と和と綾も傍に来た。三人とも、不安そうな表情をしている。
「未来先輩、緊張してきました」
梨奈が言って、他の二人が頷く。
「沢山練習してきたんだから、落ち着いてやれば大丈夫だよ」
実力があるからそうとは感じさせないけれど、梨奈も高校からクラリネットを始めた子だ。まだ、そんなに経験は多くは無い。
「梨奈は経験者顔負けの力があるんだから、自信を持って」
「うう、はい……」
「和ちゃんも、ご家族が聴きに来てくれるんだよね。緊張や不安は意識しすぎないで、良い演奏を届けることだけ考えよう」
「はい……」
「綾ちゃん」
「はい」
真っすぐ見つめると、綾も見つめ返してきた。綺麗な瞳だ、と未来は思った。
綾は、夏前に一度退部しかけている。それは、未来のせいだった。花田駅の改札前で話した時のことは、今でもはっきりと覚えている。
吹いていて、楽しくない、と綾は言った。そう感じさせたのは、未来が結果にこだわって焦っていたからだ。自分の価値観を初心者の綾に押し付けて、苦しませていた。
「この一年間で……楽しく吹けるようになってもらえた?」
未来の質問に、綾が目を見開く。それから、強く頷いた。
「大変だったけど、最高に楽しいです」
その言葉に、自然と笑みが浮かんだ。
「良かった。あの日、部活を辞めないでくれてありがとう。こうして綾ちゃんと一緒に定期演奏会を迎えられて、嬉しい」
「私も、です。でも、緊張してます」
「緊張するのは、悪いことじゃないよ。それを、意識しすぎないで」
丘と話していた晴子もそばにやって来たことで、クラリネットパートが揃った。何となく輪になって、全員が未来の言葉を待つ、という恰好になっている。
未来は、一度全員を見回し、それから口を開いた。
「緊張は……しても良いの。私だって、してる。でも、それに意識を向けたら演奏が良くなるわけじゃない。それよりも、今日どういう演奏をしたいか考えることに集中しよう。そしたら、きっと緊張も力に変わるから」
五人が、頷きを返してくる。
「この六人で今日までやってこれて、本当に良かった。この六人だから、最高のハーモニーを作れる。私達六人なら、大丈夫だよ」
言い終えて、手を前に差し出した。
晴子が、手のひらを重ねてくる。梨奈も、夕も、綾も、和も。全員の手が、一つに重なる。
「お互いを信じて、良い演奏にしよう」
「おーっ」
客席に聞こえないよう、小さな声での掛け声だった。
「もうすぐ始まります」
ステージマネージャーの香耶が言った。雑談に興じていた部員達が静まる。
先ほどからずっと、席に座っている客の話し声や物音が、反響板の向こうから聞こえてきている。
かなりの人が入っている気配だ。どれくらいいるのだろう。満席は、ないか。千人は、超しているだろうか。
「1ベル鳴ります」
時間だ。思考をやめて、未来は深呼吸をした。
ついに、始まるのだ。
ちょっと加筆修正しました。




