九ノ二十 「ホール練習 三」
「明日は、ついに定期演奏会です」
ホール練習二日目のリハーサルを終えて、舞台で生徒達と向き合っている。静かだし、広いホールに人が数十人しかいないから、丘の声が良く響く。客席には、手伝いの卒部生達が座っていた。
「皆さん、緊張していますか」
「してます」
一番前のクラリネットの席に座る晴子が、笑って言った。
「私もしています。けれど、同時に楽しみです」
頷く、生徒達。一人一人の顔を、じっくりと見ていく。
去年の四月までは、まだ三年生ですら幼い顔だったのに、この一年で、見違えるように良い顔をするようになった。丘がいなくとも自分達で練習を組み立て成長していくし、問題が起きたら、丘に頼ることなく解決していく。
確実に、自分達の力で歩むことが出来るようになっている。
「皆さんは、良い演奏が出来る。それだけの、力を持っています」
明日の本番のためにやれることは、すべてやってきた。
「お客さんは、大勢来るでしょう。その全ての人達に、自分達の音楽を伝えようと意識してください。上手くやろう、失敗しないようにしようなどと、考える必要はありません。今の自分は、何を奏でたいか? 何を表現したいか? それを考えてください」
「はい!」
「部訓は、覚えていますね。調和。この言葉を、明日は心に刻み付けておいてください。皆さんで、一つになって良い音楽を届けましょう」
多くの言葉は、要らないだろう。練習を通して、生徒達とは心を通わせてきた自信がある。
後は、明日を迎えるだけだ。
晴子が前に立ち、終わりのミーティングを始めた。丘は舞台袖に移動し、そこにいた香耶の隣に立った。
「結局、進藤先輩から連絡は無かったんだね」
「ええ。ですが、意外とこっそり聴きに来るかもしれませんよ」
「どうかな。あんまり、そんな気はしないや」
香耶の、力のない笑み。
「……待つのは、疲れますね」
「うん、ほんとに」
香耶は、もうずっと待ち続けている。そこまで気持ちが保てるのは、凄いことだ。丘だったら、とうに諦めているだろう。
香耶の気持ちが、叶って欲しい。友人として、心からそう思う。
「三年生は、明日で最後です。ですが、一、二年生がいる。あの子達と、私は全国へ行って見せますよ」
「……うん?」
首を傾げる香耶。まっすぐに、その瞳を見つめる。
「小野田には感謝しています。毎年、定期演奏会を手伝ってくださって。仕事を三日も続けて休むのは、良い顔はされないでしょう」
「それは……好きでやってることだから、良いんだよ」
「それでも、私は感謝しています。だから、貴方と進藤先輩が会えるようにしてあげたい。花田が全国大会の舞台に立てば、きっと進藤先輩の耳にも届くでしょう。だから、期待していてください」
少し目を見開いて、それから、香耶は小さく笑った。
「信じる」
「はい」
視線を、舞台に戻す。晴子の放った軽口に、部員が笑いを返している。以前は、あんな風に軽口を叩いて、場を和ませるような話し方はしない子だった。
晴子は、三年生の中で、一番成長した子だ。吹奏楽コンクールの東海大会。あの日が、晴子を変えたのだろう。
吹奏楽部の顧問をしていて良かったと思うのは、生徒の成長する姿を見られることだ。部活動を通して立派になって、社会へ出て行く。そして、いつかまた部やOBOGバンドにふらりとやって来て、更に成長した姿を見せてくれる。
それが、何よりも嬉しいのだ。
「丘君、何かしんみりしてない?」
「そうですか?」
「顔が、そんな感じ」
「分かるんですか。さすが、副部長ですね」
「何年の付き合いだと思ってるの」
互いの顔を見て、笑っていた。
夜空を見上げていると、感覚が麻痺してくる。自分という存在が置き去りになって、ただただ、視界を覆う星空だけが、全てになる。
頭上で輝く、小さな光。あの星は、なんという名だろうか。
「武夫」
名前を呼ばれて、急速に感覚が戻ってきた。
ずっと上を向いていたせいで、首が痛い。手を首に添えて、頭を戻す。
園未が、目の前に立っていた。
「何だ?」
「一緒に帰ろ」
「最初からそのつもりだ」
もうすぐ、仕事終わりにそのまま父親が迎えに来る。家が隣同士だから、園未も父親の車に乗せていくつもりだった。
「星を、見てたの?」
「うん」
「好きだっけ」
「別に。ただ、見てると何もかも忘れられるからさ。外で暇な時は、見てる」
「そっか」
頷いて、園未が星空を見上げた。さらりと、髪が垂れる。
少し前まで、園未は前髪で顔を隠していた。人の視線が、嫌だったかららしい。それが、急に前髪を切って顔を出すようになった。
武夫は、園未の顔をじっと見つめた。前髪を切ったのは、心境の変化だろうか。
「あのね、武夫」
「うん?」
「私、パートリーダーやるよ」
「……え?」
星を見続けたまま、園未が声を発する。
「武夫は、ホルンに集中してほしい。他のことは、全部引き受けるから。武夫は、一つのことに集中したほうが、絶対に伸びる。だから」
「でも、園未……人前に立つの、嫌いじゃないか」
「うん。嫌い」
園未が、顔を戻した。
痛いね、首。小さく、園未が言った。そして、笑った。
「嫌いだけど、嫌いなことから逃げてたら、逃げた自分の代わりに、誰かが苦しむ。私の場合は、武夫が。それは、もう嫌だなって思った」
園未と、視線が交わる。
「だから、私がやる」
「良い、のか?」
「うん」
夜風が吹いて、園未の髪が揺れた。
「武夫はね、本当なら、奏馬先輩だって超えられる力があると、私は思う。でも、私を守るために、無理してた。ううん、私が、無理させてた」
「奏馬先輩を? あり得ないだろ」
「ううん。本当に、そう思ってる。武夫は……ホルンが好きでしょ」
「……ああ」
「好きなことに、夢中になってほしい。そしたらきっと、武夫はもっと上手くなる。今まで、逃げる私の代わりに、武夫が嫌なことと戦ってくれた。でももう、私も自分で戦うから。武夫は、やりたいこと、好きなことに集中してほしい。最後の一年くらい、そうしてほしい」
言葉に詰まる。園未を見ていられなくて、身体を後ろに向けた。目元が、熱い。それを、見られたくないという気持ちもあった。
「今まで、ありがとね、武夫」
「何で、今言うんだよ」
「今だから。明日で、奏馬先輩はいなくなっちゃうから。だから、言っておきたかった」
園未は、いつもはこんなに言葉を発したりしない。武夫と居る時ですら、ほとんど話さないのだ。
園未なりに、想いを伝えようとしてくれていることが、はっきりと分かる。
「明日の定期演奏会、頑張ろうね、武夫。ミュージカル、楽しみにしてるから。私は、武夫のマルが好きだよ」
熱いものが、胸に満ちてくる。後ろで、園未は微笑んでいるのだろう、と武夫は思った。
アルトサックスから抜けていく音を、しっかりと耳でとらえる。一音一音、正確に、丁寧に、美しく。ゆっくりと、確実に音を変化させていく。違和感が生じないよう、神経を研ぎ澄ます。
決めた目標の音まで上がったら、同じ要領で、今度は音を下げていく。豊かで、心を震わせる音。それを意識して、響かせる。
ホールの中で、正孝の放つ音が反響している。良いホールだ。音を綺麗に響かせてくれる。
吹き終えて、マウスピースから口を離し、大きく息をついた。同じことを音階の調を変えて繰り返していたから、十五分ほどは連続して吹いていた。
ホール練習だからとか本番だからとかは、関係ない。いつでも基礎を重視するのが、正孝なりの練習法だった。基礎の積み上げが、曲で活きる。基礎が出来ていないのに曲だけ吹いていても、上手くはならない。
客席で話している一年生達の笑い声が届いてきた。二十分ほど前までは、彼女達も舞台の自分の席で吹いていたが、今は正孝だけだった。もうすぐリーダー会議だから、他のリーダーは楽屋に居るのだろうし、他の部員は、明日に備えて帰ったのだろう。
もっと吹きたい気持ちはあるが、正孝も会議に出るから、片付けを始めなくてはならない。それに、あまり吹きすぎると、疲労が原因で明日の調子が崩れる可能性もある。
譜面の入ったファイルを閉じて抱え、椅子から立ち上がったところで、名前を呼ばれた。振り返ると、奏馬だった。
「お疲れ様です」
「おう。終わりか?」
「はい、もうすぐ会議だし片付けようかと」
「そうか。なあ、正孝」
「何ですか?」
奏馬が、手に持っていたノートを差し出してきた。
「これを、やるよ」
「……これは?」
受け取って、表紙を見る。指導法。短く、鋭い筆跡でそう書かれていた。
「俺なりの指導法をまとめたノートだ。役に立つかは分からないけど、お前に渡す」
「そんなの、いいんですか? 大事じゃないですか」
奏馬が、こつん、と自分の頭を指さした。
「俺は頭の中に入ってるから良いよ。お前のために書いた」
表紙をめくる。中には、奏馬の字でびっしりと指導法が記されている。頁をめくっていくと、想定され得る様々な状況に応じた練習法まで書かれていた。
「凄い……ありがとうございます。読み込みます」
「俺は、そこに書いてあるようなことをしてきた。でも、そこに書ききれなかったこともあるから。正孝も、正孝なりにやれば良い。分かんない時に、ちょっと参考にするくらいにしとけ」
「……はい、分かりました」
「じゃあ、後でな」
「先輩」
呼び止めると、奏馬が振り向いた。
「何だ?」
「あ、いえ……明日は、頑張りましょう」
頷いて、奏馬は舞台から出て行った。
手に持ったノートに、目を落とす。奏馬はこれを書くのに、どれくらいの時間がかかったのだろう。音楽大学の受験に、ミュージカルの主役に、学生指導者の仕事。やることは山ほどあったはずで、その合間に、正孝のために書いてくれたということである。
どこまで大きい人なのだ、と正孝は思った。
正孝が花田高に入学して、初めて奏馬を見たのは、部活動説明会だった。木管五重奏を披露していて、奏馬だけ飛び抜けて上手いことは、聴いてすぐに分かった。入部してから、奏馬以外は全員三年生だったことも分かった。
楽器は違っても、奏馬がいつも気になった。奏馬を超えたい、と思った。
同期全員から後押しを受けて、学生指導者に立候補した。必然的に、奏馬と接する機会が増えた。そして、次第に尊敬するようにもなっていた。
奏馬は、いつも正孝の意見も拾って考えてくれた。決して自分ひとりで決めたりせず、正孝と意見を交わすことを大切にしてくれていた。だから、臆さずに物を言えるようになった。
奏馬が上下関係にうるさい人間だったら、きっと正孝は反発していただろう。そうでなく、正孝を一人の仲間として扱ってくれたから、学生指導者をやってこれた。
基礎合奏は、通常は正学生指導者が見るが、不在の時は学生指導者サブが代わりに見ることになっている。奏馬は進学クラスだったから、三年生になるといない日がよくあって、そう言う時は正孝が基礎合奏を見ていた。
それまでは、完全に奏者としてしか音楽に向き合って来なかったから、自分なりの指導法など正孝の中には存在しなかった。だから、奏馬ならどうするか、という考えでやった。
それが上手くはまると、嬉しかった。自分でもやれるのだ、と思った。前に立つ自信が、少しずつ付いた。
今、自分がこうしてリーダーとしてやっていられるのは、全て奏馬のおかげだった。奏馬が様々な面で手本を見せてくれていたから、安心してやってこれた。そのうえ、この、ノートだ。自分がいなくなった後のことまで考えて、このノートを残したのだろう。
正孝だったら、コウキのために、こんなことを思いついただろうか。きっと、思いつかなかった。
大きい。大きすぎる人だ。
正孝は心の中で、ありがとうございます、と呟いた。




