九ノ十八 「ホール練習」
「一日吹いて、大分お疲れでしょう。最後に、ルパンのソロ、やっておきましょうか」
合奏の休憩空けに丘が言って、理絵と月音が悲鳴を上げた。
「本番でもルパンは終盤に吹くのですから、この状態で出来なくてはなりませんよ」
定期演奏会の三部で演奏する『ルパン三世のテーマ』は、中間部にトロンボーンとトランペットのソロがあり、難易度が高いことで有名だ。
特に難関なのはトロンボーンで、細かく連続した音符が続くため、スライドを早く正確に動かす必要がある。しかし、ただ早く動かすだけでは音同士がとぎれとぎれになり、何を吹いているのか聴き取りづらくなるため、息の速さや舌使いも的確に操作して、きっちり音の粒を聴かせる技術力が求められる。
トランペットも、非常に短い数秒のソロではあるものの、その数秒に高難度のテクニックが詰まっていて、日ごろから基礎が積み上げられているかが試される。
「遠山と山口以外の人も、終盤でこれがかっこよく決まるかどうかで演奏会の出来が左右されますから、気を抜かないように」
丘の言う通り、曲自体も難しいため、全てのパートがきっちり吹くことが求められる。特に、全体を通して目立つトランペットパートは、始まりから終わりまで、高音が当たり前のように出てくるから、一曲通して確実に高音を当て続けられる力量を持つ奏者がいないと、曲が台無しになってしまうほどだ。
「一曲通しましょうか。もう本番一週間前ですからね。細かな指摘をする必要もないくらい、皆さんは完成させてくれていると思いますので」
丘のいやらしい圧力に、部員が全力で首を振っている。その様子を一番後ろのトランペットパートの席から眺めて、コウキは苦笑した。
「何よりも楽しんで吹くことを大切にしましょう。では」
丘の手があがり、全員が楽器を構える。
短い合図で、演奏が始まった。曲の冒頭からトランペットは高音がある。ファーストは、コウキと月音だ。
「トランペット、高音で気持ちを引かない! もっと!」
丘の張り上げた声が耳に届く。高音を外さないようにと意識しすぎると、縮こまった演奏になる。外しても良いくらいの気持ちで吹き抜くことで、テンポ感に乗った気持ちの良い音になるのだ。
「低音、要ですよ!」
耳に届きやすいトランペットばかりが注目されるが、実は低音パートも重要であり、曲の根幹を成している。そのためこの曲に関しては、普段コントラバスを弾く勇一がエレキベースに持ち替えている。
「木管、誤魔化さない!」
「裏拍を感じなさい!」
丘の指摘が次々と飛んでいく。金管セクションの音に埋もれて誤魔化されがちだが、木管セクションの早い指回しも、きっちりできていないと曲のノリが失われる原因となる。
結局、全てのパートがテンポ感を感じながら吹けていないと、良い演奏にはならないのだ。
曲が中間部に入り、理絵が音楽室の前に移動してソロを始めた。バンドから見て丘の左側、舞台で言えば上手寄りの場所である。当日はマイクが用意されるため、三部のソロは前で演奏する。
月音もすでに理絵と反対の下手側に移動していて、理絵のソロが終わると、月音のソロに移った。
演奏前は顔をしかめていたわりに、吹き始めてしまえばさらりとこなす辺り、やはり月音の技量は一段抜けている。
音楽はジャンルによって演奏の仕方や決まりごとが違っていて、ジャズやロックの曲なのに吹奏楽やクラシック寄りの吹き方をすると、演奏が様にならない。丘が常にそれを指摘するから、部員は皆理解しているのだが、完全に吹き方を変えられる奏者はそう多くはない。
その点、曲ごとにきっちり吹き方を変えて吹けるのも、月音の凄いところだろう。
曲は終盤になり、疾走感を保ったまま、最後の一音が放たれた。
丘の手が下がり、場の緊張感が解かれる。隣で、月音が大きく息をついた。顔を見合わせて、頷く。悪い演奏ではなかった。
「織田。テンポをきっちりキープしてください。本番まで一週間、時計を使ったテンポキープの訓練を欠かさないように」
指揮者用の総譜をめくりながら、丘が言った。純也の威勢の良い返事があがる。
丘は、テンポ感を身に着けるために時計を使う方法を推奨している。時計の針は一分間に六十回動く。つまりテンポ六十ということで、これを頭に叩き込めば、拍数を変えるだけで様々なテンポに対応できるし、安定して演奏することが可能になる。
「ソロの二人は良いですね。その調子で」
「はい!」
「全体的には良く曲に乗れていますが、木管、ところどころ誤魔化していますね。指回し、あと一週間で仕上げてください」
「はい」
「白井も、ベースは織田のドラム同様重要です。テンポ感をキープして」
「はい!」
「細かな指摘は色々とありますが、それは皆さん自身が良く分かっていると思うので、これくらいにしましょう。気をつけなくてはいけないのは、間違えないように吹こうとしてノリが失われることです。この曲でそうなったらおしまいです。そこだけは注意するように」
丘が指揮棒を仕舞い、合奏は終わった。
一日通して合奏をしていたから、全員の表情に疲労がうかがえる。本番が近いため、曲を通しで吹くことも増えてきたのだ。それを繰り返せば、細かく見ていく合奏と比べて、疲労は蓄積しやすい。
晴子が前に立ち、終わりのミーティングを始めた。話を聞きながら、コウキは晴子の後ろに見える景色を眺めた。すでに太陽は西に傾き出している。
一、二年生の終業式も終わったことで春休みとなり、部では一日練習が続いていた。残り時間でどれだけ精度を上げられるかが、定期演奏会の成功に直結すると理解しているだけに、不満を言う部員はいない。
一日、一日と過ぎるごとに、終わりの時が近づいている。明日の予定を晴子が発表する中、コウキは言いようのない寂しさのようなものを感じていた。
花田高の定期演奏会は、ミュージカルの舞台転換などがある関係で、裏方の動きを取り仕切るステージマネージャーが必要であり、丘は毎年、小野田香耶にそれを任せていた。
香耶は、花田高吹奏楽部の卒部生の一人で、普段はイベント会社のスタッフとして、コンサートや演劇の公演で裏方をする仕事に就いている。全国大会を共に経験した同期でもあり、三年生で丘が部長を務めていた時、香耶は副部長だった。当時は複数リーダー制度はまだ採用されていなくて、リーダーは部長と副部長の二人だけだった。
舞台の前に立つ香耶が、にこりと笑って全員を見回した。香耶の左右には、手伝いに来た卒部生がずらりと並んでいる。
「現役の皆さん、こんにちは。OGの小野田香耶です。今日から三日間、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
「今年度は吹奏楽コンクールで東海大会金賞まで進んだということで、まずはおめでとうございます。丘君がずっと目指していたことだから、それを達成した皆さんは、凄いです。来年は、全国大会を目指しているとも聞いています。私達卒部生も、花田がまた全国の舞台に立つバンドになることを願っていますから、是非頑張ってください」
「はい!」
「今日からは、私がステージマネージャーとして舞台上の全てを取り仕切らせてもらいます。卒部生の皆さんも、現役の皆さんも、指示には必ず従ってください。お渡ししたタイムテーブルも、頭に叩き込んでくださいね。舞台の上では機械が作動したり、重たい物が移動したりします。気をつけないと事故や怪我に繋がりますから、舞台転換の時にふざけたりしないようお願いします」
「小野田は怒らせると怖いですよ」
指揮台に立つ丘が横から言うと、香耶が睨みつけた。
「丘君は黙って」
「ほら」
肩をすくめて見せる。二人のやりとりを見て、卒部生が笑い声を上げた。
毎年の光景だった。丘が部の正顧問になってから、ずっと香耶が定期演奏会を手伝ってくれている。報酬も出ないのに、香耶は嫌な顔一つせずに引き受けてくれるのだ。
「とにかく。真面目な話ですから。今日と明日で舞台転換などを含めて全て練習して、明後日の本番でミスや事故が無いようにしましょう」
「はい!」
「では今からは相沢君の基礎合奏で、卒部生の皆さんは役割分担についてご説明しますので、舞台裏に集まってください」
香耶を先頭に、卒部生が舞台裏に姿を消していく。丘も指揮台から降りて、その後に続いた。入れ替わるようにして、奏馬が指揮台に立つ。
「じゃあ、基礎合奏やるよ」
奏馬の声を背後に、丘は舞台裏に下がった。
今日から明後日の定期演奏会までの三日間は、細かな調整のために、ホールを貸切ってある。
一部と三部の演奏も勿論だが、特に二部のミュージカルは照明や大道具の移動、演者の立ち位置や演技なども含めた全てが、客席から見ておかしくないか確かめなくてはならない。それは、実際の舞台でやってみなくては分からないのだ。
事前に、どういう流れで進めるかは予定を組み立ててある。
奏馬の基礎合奏が終わったら、最初は三部から合奏だ。ホールでの響き、マイクを使ったソロの調整、照明スタッフとの連携などを確かめていく。
基礎合奏から丘が見ても良いのだが、それはやめた。生徒達は学生指導者の基礎合奏に慣れている。本番前に違うことをさせるよりも、いつも通りの練習メニューのほうが、精神的に良いだろう。
「丘君」
香耶が傍に来て、肩を叩いてきた。
「何ですか?」
「進藤先輩から連絡あった?」
「いえ、無いですよ」
「そっか……」
肩を落として、香耶が俯いた。
毎年、定期演奏会のホール練習が始まると、香耶は必ずこれを聞いてくる。
進藤は、丘の一学年上の部長だった人だ。強烈な光を放つ人だった。二年生の時、つまり丘が一年生の時から、彼が部長として部を率いていた。
進藤が動けば、誰もが従う。そういう人だった。だから花田高は一致団結し、二年連続で吹奏楽コンクールの全国大会に出場できたのだと、当時を知る誰もが考えている。
卒業後、進藤は一度も部に顔を見せていない。消息を知っている人も、いない。
香耶は、当時から進藤のことを好きだった。今でも、諦めきれていないのだろう。ずっと香耶とは交流が続いているが、恋人が出来たという話は聞いたことがない。
「今年は、来るかな」
「どうでしょう。来ると、良いですね」
「うん」
力なく、香耶が笑った。
進藤を知る同世代の卒部生は、彼が来るかもしれないという期待を持って、毎年定期演奏会の手伝いに来る。一時期よりは減ったが、それでもまだ数人は毎年顔を出してくれるのだ。
当時の仲間に会いたいという理由も勿論あるだろうが、進藤が来れば、花田高は何かが変わるのではないか、と思ってもいるのだろう。
「連絡来たら、教えてね」
「分かりました」
頷いて、香耶は卒部生の輪の中に入っていった。
香耶は別としても、他の同世代の卒部生は、丘では花田高を全国大会に連れて行くのは無理だと思っている気配がある。だからこそ、進藤というかつての救世主にすがりつこうとしているのだ。
実際、丘が花田高に赴任して吹奏楽部の顧問となってから、一度も全国大会へ行けていないのだから、そう思われても仕方がないだろう。
丘も、進藤に話を聞いてみたいという想いはある。だが、たとえ進藤が顔を見せなくても、今の一、二年生となら、次こそ全国大会に手が届くとも思っている。
バンドの主力であり、サウンドの核となる生徒は今の二年生に固まっているし、一年生にも有力な生徒は揃っている。三年生が抜ける穴は大きいが、それでも例年に比べれば技術力の低下は大して無く、高いレベルから新たに始められるのだ。
全国大会を目指すのに、今年は絶好の機会である。鍵となるのは、四月から入ってくる新入生だ。どれだけ優秀な部員が入るか。それが、練習効率にも影響してくる。
おそらく、中学校の吹奏楽経験者の中には、明後日の定期演奏会を観に来る者もいるだろう。ここでその新入生達の心を掴めば、入部に気持ちを傾けさせられる。
すでに、新入生の勧誘は始まっているのだ。
薄暗い舞台裏。
反響板の向こうから聞こえてくる基礎合奏の音を聴いて、丘は一人頷いていた。
良い音をしている。




