九ノ十七 「華と洋子」
雀の鳴き声が聞こえて、目を開けた。
夢を、見た。それは、覚えている。
目が覚めると、内容は忘れてしまっていた。
目からこぼれ落ちる涙が、何か大切なことを忘れてしまったのだ、と気づかせた。
手で目元の涙を拭い、かざす。甲についた水滴が、朝日で輝いている。
何を、忘れたのだろう。
思い出せない。
決して、忘れてはいけなかったことのような気がする。
こと、なのか。
人、なのか。
分からない。
思い出そうとしても、何も思い出せない。
夢なのだろうか。
夢ではないのかもしれない。
ただ、心にぽっかりと大きな穴が空いたような気分がする。
ゆっくりと、智美は顔を横に向けた。
時計が、六時半を示している。
寝過ごしてしまったのだと気がついた。慌ててベッドから跳ね起き、寝間着から制服に着替える。前の晩に、次の日の用意をしておく癖をつけておいて良かった。
コウキとの待ち合わせの時間はとうに過ぎているから、先に学校へ行ってしまったかもしれない。
吹奏楽部に入ってから、寝坊をしたのは初めてだった。
家を飛び出す頃には、夢のことなど、忘れていた。
「あれっ、コウキ!」
念のため待ち合わせ場所に顔を出すと、コウキが待っていた。
「ごめん、寝坊したのに待っててくれたの?」
「いや、俺も寝坊した」
「うそ、コウキも?」
「ああ、何でかな。昨日は早く寝たのに」
「私もだよ。いつも通り寝たのに……」
「何となく、智美も来るかもと思って待ってた。とりあえず、行くか」
「あ、うん」
自転車で一列になって、走り出した。
この時間でも、まだ道路を走る車は少ないようだ。もう少し経つと、通勤の車も増えるのかもしれない。
「何で、二人して寝坊したんだろう」
前を走るコウキに聞こえるように、少し声を大きめにして言った。
「分からない。でも、夢を見てた気がする」
その言葉に、驚いた。そして、自分もそうだったのだと思いだした。
「コウキも?」
「も、って……智美もか?」
信号待ちで、隣に並んだ。互いに、顔を見合わせる。
「どんな夢だった?」
「わかんない。覚えてないんだ」
「……俺もだ」
「でも……そう……なんか、大事な夢だった気がする」
「それも、同じだ」
信号が青になって、また一列になって走りだした。
二人して、夢を見ていた。そして、内容を覚えていない。
そんな偶然が、あるのだろうか。
「思い出そうとしても、全然思い出せない」
「うん」
「そもそも、本当に夢を見ていたのかな」
コウキの返事は、無かった。
重い空気のまま、自転車を走らせ続けた。花田町に入り、田園地帯を抜けて五分ほどすると、花田高が見えてきた。
敷地内に入ると、職員棟の四階から、楽器の音が聞こえてくる。グラウンドでは、運動部が走る姿が見えた。駐輪場に自転車を止めた後も、コウキとは特に会話をすることもなく、部室へと向かった。
「あれ、おはよー。二人がこの時間に来るの、初めてじゃない?」
音楽室からちょうど出てきた星子が、声をかけてきた。
「おはよー。うん、寝坊しちゃって」
「え、二人とも?」
「そう」
「はあ、仲良いね、ほんと」
「そういうんじゃないって」
「どうだか」
にやにやとしながら、星子が部室へと入っていった。ため息をついて、総合学習室へ向かう。すでに他の部員が大体登校してきていて、個人練習が始まっている。
「智美」
「ん?」
自分の席に向かおうとしたところで、コウキが呼び止めてきた。
「何か、思い出したら教えてくれ」
「分かった。そっちも、教えて」
「……ああ」
去って行くコウキの顔は、どこか冴えなかった。
ベランダに座り込み、空を見上げていた。
鳥の群れが、視界の端から端へと飛び去って行く。今日は、澄んでいて良い空だ。
校舎のベランダは南向きになっているおかげで、陽の光が直に届く。三月中旬ともなると、空気の冷たさも和らぎだしていて、暖かく感じるほどだった。
手に、少し力を込める。繋いだ洋子の手から、力が返ってきた。
心が、落ち着く。
「二年生、終わっちゃったね、華ちゃん」
洋子が言った。
「うん」
終業式が終わり、クラスは解散している。すでにクラスメイトもほとんど教室内にはいない。
一年間は、あっけないほどすぐに終わる。もう、来月には三年生になるのだ。
「この一年、楽しかった?」
「うん。華ちゃんがいてくれたおかげでね」
「私も、楽しかったよ。洋子ちゃんがいたから」
「えへへ」
洋子がこちらを向いて嬉しそうに笑ったから、つられて、華も笑っていた。
スプリングコンサートが週末に控えているため、午後からは練習だ。東中の近くに出来た五百人規模の小ホールで開催するコンサートで、三年生が抜けた後にやる、最初の本番である。新生東中吹奏楽部の実力を見せる良い機会として、部員は皆やる気になっている。
ただ、今日くらいは、洋子とゆっくりとこうしていたい、と華は思った。何もかも忘れて、ひたすら空を眺めていたい。何かあったわけではないけれど、二年生が終わるという事実が、そんな気分を起こさせたのかもしれない。
実際に、気持ちを言葉には出したりしない。部長として、してはならないことだからだ。部員の手本にならなくてはならないのに、さぼりたいなどという気持ちは、見せてはいけない。
「来年は、同じクラスになれるかなあ」
少し顔を曇らせて、洋子が言った。
「どうかな。でも、もしなれたら、四年間同じクラスってことになるね」
「六年生の時からだもんね。そう考えると、三年間同じだったってだけでも、凄いことだよね」
「ずっと、一緒が良いね」
「うん、ほんとに」
洋子と話すようになったのは、小学四年生の頃だ。洋子が、コウキとコウキの親友の拓也と、三人で小学校の石像の移設について、署名活動をしていた。
石像の存在は、華も知っていた。何故こんなところにこんなものが、と思ってはいたけれど、大した興味も無くて、半分忘れかけていた。
署名活動でチラシも配っていて、そこに書かれていた内容を読んで、華も署名をした。
暗い感じの子なのに、何か凄いことをしている、と気になった。思い切って話しかけてみて、そんなに暗い子ではないのだと分かった。人と話すことに慣れていないからおどおどとしているだけで、根は明るい子なのだろう、と感じた。
六年生で、同じクラスになった。段々と深い話をするようになって、昔から男子にいじめられていたのだと知った。誰がいじめてきていたのか、洋子から名前を聞き出した。その男子の洋子に向ける眼差しが、好意から来るものだと、華には分かった。
男子特有の、好きな子にいじわるをする、あれなのだろう、と思った。洋子には分からないように、男子達に釘を刺しておいた。それでも洋子に手を出そうとする子は、締めあげた。
男子にとっては好きな子と接触するための手段だとしても、からかわれる本人からすれば、苦痛以外の何物でもない。洋子は多分、今でも男子は苦手だとは思っているはずだ。
一年生の時に出た文化祭のバンド演奏以降、洋子は東中男子の中で憧れの対象になっていて、言い寄る男子が増えた。当時に比べて減ったとはいえ、今も洋子を狙う男子は学年問わず一定数存在していて、それを、洋子自身は苦痛に感じている。
どうにかしてあげたいが、他人の気持ちを操作することは出来ない。なるべくそばにいて、男子が近づいてこないようにしてあげるくらいしか、華には出来なかった。そばにいれば、奥手な男子だけでも近寄ってこなくなる。
「小学校の時ね」
洋子がぽつりと呟いた。
「コウキ君と拓也君が卒業しちゃって、凄く悲しかった。もう、学校に行きたくないって思った。でも、華ちゃんがいてくれたおかげで、学校が楽しくなったの」
「洋子ちゃん」
「去年もそうだよ。またコウキ君と拓也君が卒業しちゃって、寂しくなった。でも、華ちゃんが隣にいてくれた。いつも華ちゃんがいてくれたから、やってこれたよ」
急に目元が熱くなって、洋子から目を逸らした。
「そんなの、私の方こそ、洋子ちゃんのおかげで、今がある」
「そうなの?」
「だって、部長になって、うまくいかなかった。全然駄目だった。私のせいで部が壊れそうだったのに、洋子ちゃんが、繋ぎとめてくれた。私こそ、洋子ちゃんがいてくれて良かった」
昔から、自信に満ちていた。トランペットも、音楽も、人付き合いも、何もかも、上手くやれていた。自分は特別であるという気持ちが、少しはあった。
実際は、そんなことはなかった。他の子と同じで、一人では何も出来ない人間だった。洋子が隣で支えてくれたから、やってこれたのだ。華にとって、洋子は誰よりも大切な存在だ。
「違うクラスに、なりたくないね」
思わず、呟いていた。握られた手に力が込められたのを感じて、華も握り返した。
「うん」
ずっと一緒にいられたら良いのに。不可能なことを思って、胸が痛くなった。
「お二人さんっ。やっぱここか!」
急に頭を叩かれて、反射的に振り向いて見上げていた。クラリネットの同期のかなが、窓から身を乗り出して笑っている。
「痛いなあ」
「そんな強く叩いてないよ!」
「何の用?」
「なになになに、なんか華、怒ってるの?」
「頭叩かれて怒らない人はいないでしょ。それに、今は洋子ちゃんと話してたのっ」
「えぇ、良いじゃん~別に! ねえ、洋子?」
「え、えっと、かなちゃん、何か用事があったんじゃないの?」
「そうそう、あんね、花田高の定期演奏会、スプリングコンサートの翌日じゃん。真紀と一緒に行こうって話してたんだけど、二人もどうかなぁと思ってさ!」
言われて、はっとした。忙しさで、すっかり忘れていた。智美からも、観に来いと言われていたのだった。
「私は、一人でも行くつもりだったよ」
洋子が言った。
「ほんと? じゃあせっかくだから一緒に行こうよ!」
「うん!」
「華は?」
「うん、行く」
「決まり! 何気に四人でどっか行くの初めてじゃない?」
「確かに。楽しみだね」
にこりと洋子が笑った。
「コウキ先輩に会えるの、超楽しみ~!」
目を輝かせて語るかなの姿に、思わず笑ってしまった。
「ほんと、かなはコウキ先輩のことばっか」
「ったりまえでしょ。私の癒しだよ、癒し」
「あっそ。はあ、もーいいや、音楽室行こ。お昼ご飯食べなきゃ」
「あ、そだね」
洋子と一緒に、ベランダから教室内に戻る。机の上に置いていた鞄を持って、三人で教室を出た。
並んで話し合っている洋子とかなを眺めながら、華はため息をついた。もう少しだけ、洋子と二人で過ごしていたかった。もしかしたら、ああしてベランダで日向ぼっこを出来るのは、今日が最後かもしれなかったのだ。
華にとって、あの時間は癒しだった。三年生でも洋子と同じクラスになれないと、ああして過ごす時間は取りにくくなるだろう。
どうか、洋子と同じクラスになりますように。口の中で呟いて、華はまたため息をついていた。




