九ノ十六 「卒業式」
胸に付けた花は、下級生が用意したのだという。右手でそっと花びらに触れて、奏馬は窓の外に目をやった。
連日空を覆っていた灰色の雲はどこかへ消え、眩しいほどの快晴になっている。卒業式にうってつけの日ではないか、と奏馬は思った。
この三年間は、時間が過ぎるのが早かった。特に三年生になってからは、まるで四月の出来事がつい昨日のように感じるほど、一瞬で過ぎ去った。
自分が部を一番前で引っ張る存在になって、無我夢中でやってきた。全てが思った通りに行ったわけではない。むしろ、失敗ばかりだった。
だが、間違ったことはしてこなかったはずだ。精いっぱい、やれるだけのことをやってきた。
「移動しますよ」
担任の女教師の一言で、クラスメイトが廊下に並びだす。
出席番号順に並ぶと、奏馬は一番前だった。隣に、未来が来る。
「いよいよだね」
「そうだな」
卒業式だからか、いつもは髪を結ったりはしない未来が、珍しく編み込んでいる。
「髪、気合入ってるな」
未来が顔をそむける。
「そういうのは私に言わないで、都や岬に言って」
「……たまたま隣にいたから言っただけだ」
「あっそ。どうも。そんなことより、ちゃんと、二人とは話してるの?」
行きますよ。女教師の声で、ゆっくりと廊下を進みはじめる。奏馬と未来は三年一組だから、一番先頭で体育館へ入場することになる。
「まあ、それなりには」
「二人とも、大事にしてあげてよ」
「分かってるよ」
吹奏楽部の他の三年生には、もう奏馬と都と岬の関係は、知られていた。
二人のどちらかと、交際しているわけではない。ただ、二人とも好きだし、一人を選べないということは、正直に伝えてある。それでも今は良い、と都も岬も言った。
いつかは結論を出さなくてはならないだろうが、やっと気持ちに気づいたばかりなのだ。もう少し、時間をかけたかった。
体育館に着き、後方の中央扉から、足を踏み入れる。下級生も保護者も前を向いていて、厳かな雰囲気が体育館の中に漂っている。
中央に空けられた通路を、担任の女教師の後に続いて、ゆっくりと進んでいく。
視線だけを、横に向けた。吹奏楽部の一、二年生が入場の曲を演奏している。丘の指揮に合わせて、きっちりと音を揃えている。
なかなか良い演奏だ、と奏馬は思った。席に着いた後は、他の三年生が全員入場を終えるまで、目を瞑って演奏を聴き続けた。
ホルンパートのハーモニーが響く。短期間でよく仕上げてあり、四人が互いの音を聴き合おうとしているのが、音から伝わってくる。何となく嬉しくなって、口元が緩んだ。
「何笑ってるの?」
隣の未来が、小声で言った。
「演奏聴いてたんだよ」
「良いよね」
「ああ」
「よくまとまった演奏になってる。木管のハーモニーも、綺麗」
「俺達が抜けてても、全然レベル落ちてないな」
「中心になる子達は、二年生にいるもん」
「そうだな」
正孝の代は、技術力が平均を超える子が多い。バンドのサウンドの根幹を担う子達が集まっているからこその、この音だろう。
音量が微妙に物足りないのは、式典用の演奏だからというのも勿論あるだろうが、一番の理由は人数だろう。ここ数年、花田高は三年生が抜け、新入生が入るまでの間、極端に人数が減るのが常だった。それでも、良い音は鳴っている。
三年生が入場を終えた後も、卒業式は滞りなく進んだ。
別に、涙は出なかった。卒業式といっても、奏馬は明日からも学校に登校してきて練習を続けるから、今一つ、卒業する実感がないのだ。きっと、定期演奏会が終わった時に、本当にその実感はやってくるのだろう。
ちらりと隣を見ると、未来は泣いていた。涙もろい子ではないはずだが、雰囲気にあてられたのかもしれない。
いや、考えてみれば、吹奏楽部の九人はまだ会うが、他のクラスメイトや友人とは、今日で別れなのだ。自分の卒業であると同時に、友との別れだと考えれば、涙が出るのも当然か。
「卒業生、退場」
閉式の言葉が進行の教師によって告げられ、退場の時間となった。
体育館に、『栄光の架橋』の始まりを告げる、木管のしっとりとした前奏が流れ始めた。良い出だしだ。最初のメロディーは、正孝のアルトサックスソロだった。
聴く側として正孝のソロを耳にするのは、初めてか。いつも以上に、音に感情が乗っている、と奏馬は思った。
退場が、始まる。最初に出て行く奏馬は、最後まで演奏を聴くことは出来ないだろう。
「上手くなったな」
思わず、呟いていた。
今の二年生達のリーダー決めの時、正孝が学生指導者サブになったのは、奏馬にとっては予想外だった。それまで、学生指導者になるのは月音や理絵辺りだろうという気がしていたからだ。技術力でも、人前に立つ器量でも、二人は適任だった。だが、二人は学生指導者には立候補せず、正孝が立候補した。二年生全員の後押しがあったというのは、後から聞いた。
それほど、目立つ男ではなかった。アルトサックスの腕は良いものの、人前で指導出来るようなタイプには見えなかったし、人望が特段厚いようにも見えなかった。それでも、同学年の子達の中では、正孝に感じるものがあったのだろう。
事実、正孝は奏馬の補佐として、十分すぎる程の働きをしてくれたし、共に仕事をするうちに、リーダーとして頭角を現すようになった。前に立つという行為が、正孝の自信をより強いものにしたのかもしれない。
「最後まで、聴きたかった」
体育館を出る時、隣の未来が言った。体育館から漏れ聞こえてくる演奏の音が、離れる程に小さくなっていく。
「うん」
「あの演奏なら、四月からは私達がいなくなっても、大丈夫そうだね」
奏馬も、同じことを思っていた。粗は、ある。だが、去年の自分達と正孝の代だけでの演奏を思い返すと、あの時よりも、随分と高い次元にある。
所詮、後輩とは一年、二年程度の人生差しかない。そんな程度の差は、何かがきっかけとなって、一瞬で詰められてしまうのだろう。
「全国大会、行ってほしいなあ」
「今日は随分感傷的だな」
「なるでしょ、そりゃ。奏馬がならなすぎなだけ」
「卒業したって、まだ続くしな」
「そうなんだけどさ」
教室に戻って、自分の席に着いた。
緊張から解き放たれたクラスメイト達は、顔をほころばせて写真を撮ったり談笑をしている。もうすぐ来る本当の別れの時を前に、少しでも、思い出を残そうとしているのだろう。
奏馬の頭の中は、もう、今日の午後の合奏のことで一杯だった。卒業式が終わって、より一層定期演奏会の練習に熱が入る。大分詰まってきたとはいえ、まだまだ演奏の精度は上がるはずだ。
三年間の最後を飾る演奏会である以上、後悔するような演奏にはしたくない。目指すのは、自分の中にある、最高の演奏だ。
早く、ホルンが吹きたい、と奏馬は思った。
練習後の定期演奏会の準備に残る部員も、二十時になろうかという頃には大分少なくなる。英語室には、修一人だった。
ミュージカルで使う大道具類に異常が無いか、順番に見て回る。使っている最中に壊れたりすれば、危険だからだ。ビス止めした箇所や荷重のかかる部位などを丁寧に確かめ、異常が無いことを確認して、次の大道具に移っていく。
些細な異常を一つ見落とすだけで、怪我を伴う事故が起きてしまう可能性もある。そうなったらきっと後悔するから、自分が安心するために見回っているようなものだ。
あらかじめ決められていた仕事ではないが、帰る前に点検するのが、修の癖になっていた。
「修先輩」
振り向くと、コウキが英語室の入り口で立っていた。
「どうした」
「たまには一緒に帰りましょうよ」
「智美ちゃんは?」
「今日は先に帰りましたよ」
「珍しいな、二人が一緒じゃないなんて」
「そうですかね? それより、たまには飯食べに行きませんか?」
束の間考えて、頷いた。
「良いぞ。見回りが終わったらな」
「卒業記念に、今日は俺が奢りますよ」
「マジか! じゃあラーメン行くか!」
「いやいや、そんな高価なもの奢るわけないでしょ。牛丼で我慢してください」
「ちっ……なら特盛な」
「並限定っす!」
「並ぃ!? 満たされね~!」
「量増すなら、差額は自分で払ってください」
「奢りって言うのか、それは?」
「気持ちが大事なんですよ、こういうのは」
「そうかよ」
コウキも点検に加わり、二人で全てを確認し終えた。大道具を一か所に集め、布をかけてから、英語室の照明を消す。
コウキと並んで総合学習室へ入ると、床に背景幕を広げて、美術班が作業をしていた。
「お疲れ様、コウキ君」
ペンキで顔を汚した陸が、手を振っている。
「お疲れ。陸君達、まだ残るの?」
「んー、もう片付けますか、太先輩?」
「そうだな。皆、終わろうか」
太の一声で、美術班の全員が声を上げた。
「俺達、先に上がるよ、陸君」
「ばいばーい、また明日ね。修先輩も、さよなら~」
「おう」
美術班と挨拶を交わし、二人で学校を出た。修の家は隣町でかなり距離があり、自転車で一時間ほどは走る。コウキも同じ隣町に家があり、帰る方角は一緒だ。
田園地帯を、並んで走った。冬の冷たい空気が手や顔に当たって冷えるが、三年間自転車通学を続けてきたからか、耐えられないほどではない。
それに、田園地帯は明かりが無いため、上を見上げると星が良く見えた。静かな場所で、星を眺めながら帰るのは、悪くない。
「修先輩と帰るの、めっちゃ久しぶりですね」
「コウキ君が仮入部してた時以来じゃないか?」
「修先輩、いつも先に帰っちゃうんですもん」
「家が遠いからな。そっちは、いつも何時まで残ってるんだ?」
「大体最後までいますよ」
「よく続くなあ。嫌にならないか?」
「全然。個人的には、もっと時間が欲しいくらいですよ」
朝練もコウキは一番に来ているという。昼放課にも練習に来ているし、ちょっと、修には真似できない熱量だ。
それだけの継続する力があるから、一年生なのにあれだけの技術力を持っているのだろう。そのうえ、他の同級生の練習まで見ているというのだから、底知れない男だ。
「コウキ君が学生指導者で、ほんとに良かったよ」
「何です?」
「適任だなと思ってよ。コウキ君ほど熱意のある奴は、同期に居ないだろ」
「どうですかね。適任、だと良いですけど」
「……全国大会、行ってくれよな」
呟いていた。コウキが、こちらを見てくる。
「正孝は、奏馬みたいに強く言えない奴だし、コウキ君のフォローは必須だと思うぜ。部員をまとめるには、二人で協力しあえよ」
「……はい」
正孝が強く言えない分は、部長の摩耶がしっかりと言うだろう。摩耶はかなり気が強いし、言うことは臆さず言う。あの二人は、意外と良い組み合わせかもしれない。晴子と奏馬が逆になったような感じだ。
ただ、摩耶はキツい物言いになる可能性もある。正孝では、止められないだろう。それをコウキがうまくフォローすれば、きっとうまくいく。
「修先輩って、意外と男子部員のこと、見てますよね」
「可愛い後輩だからな」
「女の子にもそれすれば、モテると思うのに」
「うるせぇ」
笑い声をあげたコウキの肩を、軽く小突いた。バランスを崩して、コウキの自転車が揺れる。
モテるとか、そういうのは、良い。自分に出来る気がしない。そう、慌てることでもないはずだ。そのうち彼女の一人や二人は、出来るだろう。
「ところで、修先輩から見て、気になる男子っていますか?」
コウキが言った。
「どういうことだ?」
「今後、気にかけた方が良い子です」
「ああ」
言われて、少し考えた。
「まず、武夫かな。主役は続けるみたいだけど、相変わらず不安定なところはある。四月以降、奏馬も俺もいなくなるし、男子で武夫の力になれる奴が誰かいないと、厳しいと思う」
「……俺も、そう思います」
「武夫は、意外と繊細だからな。でも、ぐいぐい来られて嫌がるやつじゃない。たまには、飯にでも行ってやれよ」
「分かりました」
「それから、久也君だな」
「何か問題が?」
「いや、特に問題があるわけじゃない。ただ、どことなく、部に打ち解けきれてない感じはする。一年の中でも、少し、距離がないか?」
唸りながらコウキが腕を組んだ。手放しでも、器用に自転車を走らせている。
「言われてみれば、確かにそうかも」
「多分、人との距離感が上手くつかめないんだろ。こっちから近づいてやるにしても、久也君はぐいぐい来られたくないタイプだ。徐々に徐々に、だな」
「はい」
「まあ、ユーフォに可愛い女子の一人でも入って、その子が部との繋ぎになってくれれば一番良いんだけどな」
「そんな単純な。修先輩じゃないんだから」
「お前な……」
「冗談ですよ。でも、分かりました。気にしてみます」
「ああ。そうしてくれ」
「やっぱ、修先輩も三年生なんですよね。頼りになります」
急に真顔で言われて、焦った。
「ありがとうございます、修先輩」
「ああ」
「先輩と一緒に吹くのも、あとひと月弱ですね」
「……ああ」
「社会人になっても、たまには遊びに来てくださいよ」
「気が向いたらな」
コウキが、くすりと笑った。
「なんだ?」
「まこ先輩と、同じこと言うなあと思って」
「なんだそりゃ」
「こっちの話です」
「相談に乗ってやったから、牛丼大盛りな」
「何言ってるんですか? ちょっと褒めたらすぐ調子乗るんだから」
「何ッ」
笑って、コウキが速度を上げた。
追いかけて、修も笑っていた。




