九ノ十五 「もうすぐ」
曲を吹く時に、何をイメージして吹くかが大切だ、とは多くの奏者が理解しているけれど、実際には、楽器をケースから取り出してウォーミングアップをする時点から、自分の出したい音をイメージしなければならない。
ロングトーンやリップスラーなどは基礎練習だからと、出す音についてのイメージを持たないでいると、単なる技術の訓練だけになってしまう。
想像の風景でも良いし、音から思い浮かぶ感情でも良い。抱くイメージはその人の出したい音に合うものであれば何でも良く、明確なイメージを持って、常に音楽的に吹くように意識していると、全ての練習が曲を吹いている時と同じように、豊かで創造的な演奏になる。
コウキが言ったことだ。実際、そうすることで、単調なロングトーンの練習一つとっても楽しいと感じられるし、自分の演奏や音が日に日に良くなっている気がする。
自分の感性で吹く。それで、自分なりの音になる。
年が明けてから、万里は周りの部員に音色を褒められることが増えた。前までは、どこかかすれたような、初心者特有のトランペットの音だったと、自分でも思ってはいた。それが、ある日気がついたら、音がかすれなくなっていた。
きっと、コウキの教えてくれたことが、役立ったのだろう。
「まーりちゃん」
肩をぽん、と叩かれ、トランペットを口から離す。
振り向くと、まこが微笑みながら立っていた。
「今のフレーズ、良いね」
「ほんとですか」
「歌ってる、って感じだった」
「私……アルメニアンダンスの中で、ここが一番好きなんです」
「あ、私も好き!」
定期演奏会の第一部で吹く『アルメニアンダンス・パートⅠ』は、吹奏楽の世界に関わる人間なら知らない人はいないというほど、有名な作曲家が書いた曲だ。
アルメニアの五つの民謡を一つにまとめた曲で、吹奏楽コンクールで演奏されることもある大曲である。
万里が吹いたのは、曲に組み込まれている『アラギャズ山』という民謡のフレーズで、トランペットが中心となってメロディを奏でる部分だ。たっぷりと歌うように吹くのがコツで、合奏でも、ここのハーモニーは重要視されている。
「一緒に吹こ」
活動時間の後に、英語室で一人で吹いていた。椅子を引きだして、まこが隣に座る。
「そこからね」
「はい」
まこが、楽器を軽く振る。その合図で、『アラギャズ山』のメロディを奏でた。
イメージは、花が咲き乱れるどこかの山腹だ。景色が一望できる、美しく雄大な自然の世界。実際のアラギャズ山がそういう場所なのかは知らないし、作曲家の求めているイメージも分からない。ただ、万里はこのメロディを聴いたとき、このイメージが浮かび上がった。だから、それで吹いている。
二人の音が溶け合って、豊かな響きが生まれる。まこは、どんなイメージで吹いているのだろう、と万里は思った。
「万里ちゃん、合わせるのも上手くなったね」
楽器の構えを解き、にこりと笑いかけてくる。
「褒められると、照れます」
「本当だよ。凄く吹きやすいもん」
恥ずかしくなって、目をそらした。
「ねえ、トランペットパートって、全パートの中で一番良いハーモニーを作ってるって丘先生が言ってるの、知ってた?」
まこが言った。
「え……知らなかったです」
「私も最近聞いたんだけどね。嬉しいよね、そう言われるようになったなんて。前じゃ、考えられない」
「そう、ですね」
「月音ちゃんが戻ってきてくれたからかな」
実力のある月音が加わって、音に厚みが増したというのはあるだろう。けれど、それだけではないはずだ。
万里は勿論、まこも修も上手くなったのも大きいに違いない。どんなに上手い人が一人いても、合わせるのが下手な人が一人でもいれば、ハーモニーはバラバラになる。パート全体で、レベルが上がったからこそだろう。
「まこ先輩がいたから、トランペットパートがまとまって、ハーモニーが綺麗になったんだと思います」
「そんな……私は、何も出来なかったよ」
「そんなことないです。皆で一つになれたのは、まこ先輩がリーダーだったからです」
頬をかいて、まこが照れ笑いをした。
去年のコンクール時期は、まこは自分の技術力に悩んでいた。初心者の万里から見ても、そうと分かった。特に、ペア練習が取り入れられてから、パートリーダーでありながら逸乃に教わる側になって、まこは落ち込んでいた。
コウキの提案で、まことパートの全員で話をした。万里は音楽的なことは言えなかったから、ただ自分の気持ちを伝えるくらいしか出来なかったけれど、あれでまこは前を向くようになって、練習への取り組み方も変わった。
あの時から、パートの団結力も増したように思う。そして、パートとしてのレベルも上がっていった。
月音に関しては、複雑な事情があったと聞いている。それを感じさせず、まるで最初から一緒に吹いていたかのようにすんなりと打ち解けられたのも、まこがパートリーダーとして、全員を上手くまとめてくれていたおかげだ、と万里は思っている。
「まこ先輩、もうすぐいなくなっちゃうんですよね」
手元のトランペットを眺めていたら、不意に、寂しさのようなものを感じて、思わず言っていた。
来週は、卒業式だ。
「どしたの、急に?」
「先輩と、もっと一緒に吹いていたいです。もっと、色々教わりたいです」
「まだ私はいるよ」
「あと、ひと月だけです」
「それは……うん」
まこも、うつむいた。五人で吹くのが、万里にとっては当たり前だった。月音が加わってからは、六人でトランペットパートだった。
まこがいなくなる。考えたくもないことだった。
気がつくと、万里は泣いていた。
「ええっ、泣かないでよ、万里ちゃん」
中学校では帰宅部だったから、高校生になって初めて、先輩後輩や仲間という関係を知った。まこは、万里にとって、理想的な先輩だった。
三年生の中で、一番万里を気にかけてくれたのが、まこだ。いつも万里を励ましながら見守ってくれていて、まるで姉のような人だった。本物の姉がいたら、こんな感じなのだろうか、と思っていた。
「いなくなって、ほしくないです」
「もう~……私まで泣けてくるじゃん」
まこが楽器を置いて立ち上がり、万里を抱きしめてくる。頭を撫でられ、更に気持ちが高ぶった。
「だって」
「私と修がいなくなっても、逸乃ちゃんや月音ちゃんがいるでしょ。コウキ君も」
そんなことは、分かっている。それでも、離れたくないのだ。もっと、一緒にいたい。ずっと、この時間が続いてほしい。
「万里ちゃんは、四月からは先輩になるんだよ」
「私なんて……まこ先輩みたいに、なれません」
「なろうと思ってなるものじゃないよ、そんなの」
万里の頭を撫でながら、まこが言った。
「私も、いっぱいいっぱいになりながらやってきたもん。不安だらけだったし。でも、皆がついてきてくれたから、やってこれたんだよ。きっと、良い後輩が入ってくる。だから、大丈夫。私も、どんな子が来るんだろうって不安だった。でも、万里ちゃんとコウキ君が入ってきてくれた。二人が良い子だったから、凄くやりやすかった。ありがとね、一年間、私についてきてくれて」
「まこ先輩」
まこの制服を、涙で濡らしてしまっている。申し訳ないのに、涙は止まらない。
「あとひと月しかないけど、そのひと月を、良いものにしよう。ね?」
「……はい」
まこの傍にいられるのも、こうして触れてもらえるのも、あとひと月だけなのだ。それは、どうあがいても、変えられない。
もう少しだけ頭を撫でていてほしくて、万里は、まこの身体に顔を埋め続けた。
卒業式に向けての練習が進んでいる。
吹奏楽部の三年生は、卒業後も定期演奏会のために登校してくるが、それ以外の三年生は、卒業式を終えたら花田高から離れることになる。
吹奏楽部の一、二年生は、式で演奏をすることになっている。三年生の最後の退場時に演奏する『栄光の架橋』の途中で、丘が手を止めた。
「全員、もう少しダイナミクスを意識して、感情を込めて吹いてください。三年生は、九人だけではないですよ。すべての三年生の心に刺さる演奏を目指してください」
全員で返事をして、もう一度演奏する。
また、丘の手が止まった。
「サスペンデッドシンバル、そこの一発が、何よりも大切です。貴方のその音の出来一つで、この曲の全てが決まると言っても過言ではありません。最高の一音にしてください」
陸が顔を引き締めて返事をして、再び演奏が始まる。
牧絵のフルートが、優しいソロを奏でる。何度聴いても、牧絵のソロは良い。文句の付け所がない。丘も、頷いて指揮を先に進めた。
静かなハーモニーが、音楽室に満ちる。三年生がいない状態だが、きちんと合わせられている。
「一、二年生だけだと人数が少なくなりますが、だからこそ、より美しいハーモニーになるよう意識してください」
曲が終わって、丘が言った。
「はい!」
「少し休憩しましょうか。十五分後に再開します」
丘が音楽室を出て行くと、張りつめた空気が弛緩し、話し声で音楽室が騒がしくなった。
合奏中は、丘の指示や要求を聞き逃すまいと、全員が集中している。そうしなくては、自分の不注意で合奏を止めることになるからだ。
限られた時間の中で効率的に練習を進めるためには、無駄を極力減らす必要がある。それが張りつめた空気に繋がっていて、休憩になると、一斉に緩むのだ。合奏と休憩での素早い切り替えも、今は部員全員が出来るようになっている。
トランペットの中に溜まった水を抜いてから顔を上げると、サックスパートの席にいた正孝が振り向いて、音楽室の外を指さしていた。
それで察して、コウキはトランペットを椅子に置き、音楽室を出た。正孝が隣に並んでくる。
「トイレ行こうぜ」
「はい」
「俺のソロ、どうだった?」
「良かったですよ、痺れましたわ」
「だろぉ?」
にやりと正孝が笑った。
曲の序盤に、正孝のソロがある。
「奏馬先輩、喜んでくれると良いですね」
「そうだなあ」
「岬先輩もね」
「ああ。なんだかんだ言って、岬先輩には世話になったしな」
「三年生は、やっぱ皆凄いですよね。一人一人が、大きかった」
「追いかけるので、精いっぱいだな。たった一年の差なのに」
トイレを済ませた後、二人で東端の非常階段に出た。すぐに、冷たい風が吹きつけてくる。冬は、今が一番寒さが厳しい。
「特に、奏馬先輩は、でかすぎたよ。ソロには自信があるけど、あの人には勝てん」
「そんなに?」
「去年の『さくら』のソロは、やばかったからな」
花田高吹奏楽部では、卒業式の最後に吹く曲は、必ず二年生の学生指導者がソロを吹く。そのパートのソロが無い曲であれば、丘が編曲したり、メロディをソロに変えたりすることもある。
コウキは、奏馬の『さくら』のソロは聴いたことがない。確か、曲の最初にホルンソロがあったはずだ。
「尊敬、してたんですね」
「そりゃな。奏者としてもリーダーとしても、及ばないよ。奏馬先輩は特別だ」
「正孝先輩には、正孝先輩らしさがあるじゃないですか」
ふ、と正孝が笑みをこぼす。
「だとしてもな。来年、俺が皆を引っ張れるかどうか」
「自信、持ちましょうよ。俺もいますから。一緒に、やりましょう」
「奏馬先輩でさえ、全国に届かなかったんだぜ。俺達で、引っ張れるか?」
「そんなの、やってみなきゃ分かりません。でも、これだけは言える。無理だと思ったら、絶対無理です」
「……だな」
奏馬には、高校生とは思えないような飛び抜けた技術力とカリスマ性があるが、だから、他の人が奏馬より劣っているというわけではない。
人それぞれのやり方があり、正孝には、奏馬のような全体をピリッとさせる緊張感はない代わりに、やわらかい雰囲気で演奏させる穏やかさがある。それを活かして、部員が伸び伸びと吹ける合奏を目指せばいいはずだ。
ぐ、と伸びをして息を吐き出した後、正孝が階段に腰をおろした。
「そういや、部活動説明会の初心者七人でのアンサンブルは、どう?」
「丘先生が楽譜を用意してくれて、もう七人には配ってあります」
「そうか。そっちは、コウキ君に任せたから。俺は歓迎コンサートの方を進める」
「任せてください」
今の一、二年生は、全体で見れば決して能力は低くない。むしろ、バンドの中核を担っている奏者は二年生に多いから、三年生が抜けてもバンドの力量は大きくは落ちないだろう。
だが、一、二年生だけでは三十三人しかおらず、人数の不足は致命的である。吹奏楽コンクールの定員に達するには、最低でもあと二十二人は新入部員が必要だ。
新入部員の確保のためには、吹奏楽部を知ってもらう機会である部活動説明会と歓迎コンサートが重要で、二つとも、四月になるとすぐにあるから、今から準備していた。これに関しては三年生は関わっておらず、一、二年生のリーダーが中心となって進めている。
「何人入るかな」
「三十人は、欲しいですよね」
「三十か……毎年、経験者は多くても二十人くらいだからな。初心者が増えれば増える程、練習の重点をどこに置くかが難しくなるな。初心者に合わせていると、練習の密度を濃く出来ないし、経験者に合わせると、初心者が脱落しやすくなる」
「人数によっては、初心者と経験者で分けて合奏することも必要になるかもしれませんね」
「ああ。その場合は、俺が初心者を見ることになるかな」
「いや、正孝先輩はコンクールメンバーを見たほうが良い。学生指導者がいないと、締まりませんから。初心者は、俺が見ますよ」
驚いた表情をしながら、正孝がこちらを見てくる。
「人数が増えたら、コンクールメンバーはオーディションになるんだぜ? コウキ君が初心者を見ると、自分の練習時間が削れて、メンバーから落ちるかもしれないぞ。新入生の中には、去年の東海大会の演奏を見てうちを選ぶ実力者もいるかもしれないのに」
「どうしたって、今年のコンクールも何人かは初心者がメンバーに入ります。自分がメンバーに選ばれるのを優先して、初心者のレベルの引き上げをサボったら、結果的にバンド全体のレベルまで下がります。それは嫌だ」
腕を組んで、正孝が唸っている。
「それは、そうだけどな」
「大丈夫です。自分の腕は落としません。それに、どうも俺は初心者を教えるのが向いてるみたいなんで」
「確かに、今年の初心者は、全員コウキ君の指導を受けてたんだっけ」
平日の昼放課には、部室に集まって練習していた。それは今でも続けていて、大体毎日初心者の七人は揃う。
最初は来たい人だけ来れば良いと言っていた。コウキから練習を強制したことは、一度もない。そもそも智美と二人で始めた練習だったのだ。
だんだんと七人が揃うようになり、その七人を、コウキが見るようになっていった。
七人の中で、特に成長が著しいのは万里と夕だ。あの二人は、もう初心者とはとても思えない技術力を持っている。桃子も元はトロンボーン奏者だっただけに、ホルンに慣れてきて技術力が上がりつつある。
「コンクールメンバーの団結を強めるためには、正孝先輩は絶対いなきゃいけない。でも、初心者を去年みたいに放置はできない。部が初心者の信頼を得るためにも、もう一人の学生指導者である俺が見るのが、自然でしょ?」
少し沈黙した後、正孝は静かに頷いた。
「じゃあ、その時は、頼むよ」
「任せてください」
「何はともあれ、まずは卒業式だな」
「ですね」
二月末から三月の間は、定期演奏会の準備と、卒業式の練習と、来年度の運営の準備を同時に進めなくてはならず、一、二年生も目が回る忙しさだ。
卒業式の曲練習で手を抜く、というわけにはいかない。一、二年生だけでも立派な演奏が出来ることを見せて、三年生に安心して卒業してもらいたい。それは、下級生全員の想いだ。
校舎の中へ通じる扉が開いて、摩耶が顔を覗かせた。
「休憩、終わるよ」
「おう」
正孝が立ち上がって、尻をはたく。
「行くか」
「はい」
扉を閉める時、また風が吹いて、コウキの身体を震わせた。
もう、三日後には卒業式だ。




