九ノ十三 「武夫と園未 ニ」
柚子の使う箸が、弁当箱の中の卵焼きを丁寧に分断していく。細かく切り分けられた卵焼きは、一欠片、柚子の口へと運ばれていった。
咀嚼する柚子の口元を眺めながら、桃子はため息をついた。
「どーしたの、桃」
卵焼きを飲み込んだ柚子が、顔を傾けながら尋ねてくる。頭の高い位置で一つに結ばれた髪が、その拍子にふわりと揺れた。
「武夫先輩、ミュージカルやめちゃうのかなぁって」
桃子の一言に、柚子の箸が止まる。
ほとんど同時に、二人の口からため息が漏れた。
「柚子は、武夫先輩がやめちゃったら、誰がマルをやると思う?」
「もう本番までひと月無いのに、いきなりマルをやれる人なんていないよ」
「でも、武夫先輩、もうやりたくないって言ってるし」
「奏馬先輩やコウキ君が、何とかしてくれないかなぁ」
「いくらあの二人でも……」
弟のマルを上手く演じられないことで、武夫は限界が来たらしい。昨日の合わせの時間に、武夫だけが丘に音楽室を出て行かされた。その時に、何かあったのだろう。もう、ミュージカルはやりたくないと言い出したという。
実際にその場面に居たわけではないので、桃子も詳細は知らないけれど、たまたま居合わせたコウキの話では、そういうことだった。
ホルンパートの仲は良い。奏馬、武夫、園未、柚子は全員、花田中央中出身だ。昔からの顔馴染みだけに、信頼関係は全パートの中でも飛び抜けている。桃子のことも四人は受け入れてくれていて、溶け込めている。
そんなホルンパートのメンバーでも、今の武夫に声をかけることは出来ない。それほど、武夫は思い詰めた顔をしていた。
桃子は、柚子や園未よりも、武夫と過ごした時間が短い。桃子からかけてやれる言葉は、無かった。
「あ、コウキ君」
英語室の前を、コウキが通りかかった。柚子の呼びかけに反応して、コウキが部屋に入ってくる。
「どした」
「武夫先輩ってどうなるの?」
「まだ、分からないな……俺の言葉は届かないし」
「コウキ君でも?」
「俺は、武夫先輩とそこまで仲が良いわけじゃなかったから。無理だよ」
同期の正孝や純也とも、親しいというほどの間柄ではないように、桃子も感じていた。仲が悪いわけではなく、武夫が壁を作っているような感じだ。
「誰なら、どうにか出来る?」
柚子の問いに、コウキが腕を組む。
「園未先輩か、奏馬先輩か……でも、対応を間違えたら武夫先輩は部活にも来なくなるかもしれないから、難しいよ。それに、もうすぐ奏馬先輩が卒業して、自分がパートを背負うっていうプレッシャーも、武夫先輩は感じてると思う。そんなにプレッシャーに強い人ではないはずだから……限界が来たのかもしれないな」
三人の間に、沈黙が流れる。
「ごめーん、お待たせ」
弁当箱の包みを抱えたチューバの由紀が、英語室へ駈け込んで来た。
「パート練が長引いちゃった」
言いながら、椅子と机を寄せてくる。
「何の話してたの?」
「武夫先輩の話」
「ああ……」
納得したような顔で、由紀が頷く。
「部室でも、晴子先輩とかが話してた」
「今、一番の問題だもんね」
最近、部内は安定していた。少なくとも、目に見える人間関係の問題は無くて、定期演奏会に一丸となって向かう。そういう空気感だった。ここへきて、それが崩れだした。
こういう時、ただの一年生の桃子に出来ることがないのが悔やまれる。リーダー達に任せるしかない。下手に自分達が動いて、状況を悪化させるわけにはいかないからだ。
「コウキ君、また話が進んだら教えて」
「ん、ああ。分かった」
手を軽く振って、コウキが英語室を出て行った。
「……でも、私は武夫先輩の気持ち、分かるな」
ぽつりと、由紀が言った。
「どういうこと?」
「私が武夫先輩だったら、やりたくもないミュージカルの主役をやらされて、訳も分からないのにあれこれ考えろって言われて、卒部生の人にはキツく言われて……そんな状況になったら、全部投げ出して部活やめちゃうと思う。私には、重すぎるもん」
由紀は、目立ちたがり屋ではない。何事も陰に隠れて、大人しくやりすごしたいと思っている節がある。武夫も、どちらかというとそちら側の人だ。
「じゃあ、もし由紀なら、武夫先輩みたいな状況になってるとして、どんな風に周りに動いてもらいたいと思う?」
「私なら?」
「うん」
弁当箱の包みを緩慢な動きで解きながら、由紀が考え込む。
包みの中から現れた、無垢の木の上品な弁当箱。蓋が開けられ、色とりどりのおかずが目に飛び込んでくる。
由紀の母親は、調理師の免許を持っているという。昔は飲食店で働いていたこともあるというだけあって、ただの弁当なのに、洒落た見栄えになっている。
「やらなくて良い、って言って欲しいかな」
由紀が言った。
「やらなくて良いって言ってもらえたら、気持ちが楽になると思う」
一言一言、自分の頭の中の考えを言葉にしようとしてくれている。桃子も柚子も、黙って聞き続けた。
「自分では、私以外にやれる人がいないって分かってる。でも、やりたくない。どっちの気持ちもある。だからって、やれる人がいないからやれって言われても……辛い。やらなくて良いって言ってもらえたら、それだけで、分かってもらえたと思えるから……そしたら、それでも、私がやらなきゃって……思える、かも」
ことり、と弁当箱の蓋を置く音が、英語室に響く。
「ごめん、分かんないけど」
柚子が首を振った。
「ありがと、由紀」
「……うん」
武夫も、そう思っているだろうか。
答えの見えない疑問に、三人とも、沈黙するしかなかった。
しばらく平穏だと思っていたのに、部内に怪しい空気が生まれだしている。ホルンパートの問題だ。解決はしてほしいが、元子はリーダーではないから、自分が手を出そうとは思わない。ただ、定期演奏会まで時間が無いのに、この調子で大丈夫なのか、という気はする。
昼休憩の総合学習室は、武夫が弟のマル役をやめるかもしれない問題のせいで、空気が重かった。あまりにもどんよりとしているから、気分転換に非常階段に出てきていた。
冬らしく乾燥した空気で、冷たい風が頬を打ってくるが、それが気持ち良い。
空に浮かぶ雲が、のんびりと遠くへ去っていく。
元子は、やりたいことはやるし、やりたくないことは絶対にやらない主義だ。武夫も、やりたくないのなら、やらないと宣言すれば良い。周りの期待に応えようとするから、自分が辛くなるし、周りにも悪影響を及ぼす。
扉が開く時の金属音が背後でして、元子は振り返った。
「あら。コウキ君が、誰もいないのにここに来るなんて」
「元子さんがいるじゃん」
非常階段と廊下を繋ぐ扉を閉めながら、コウキが言った。
「私が、悩みごとがあってここに来てると思う?」
「まさか。元子さんに悩みなんて無さそうだ」
「分かってるね」
くすりとコウキが笑う。そのまま元子の隣に来ると、景色に目をやりながら、細く長い息を吐いた。
「加藤先輩のことで、悩んでるんだね」
「分かるの?」
「そりゃあ、観察対象だもの」
「嫌な言い方だなぁ」
コウキが言った。
「冗談だよ。人のことばかり考えてるコウキ君が悩むといったら、今は加藤先輩でしょ」
「別に、人のことばかり考えてないよ」
「どうだか。それで、コウキ君はどうしたいの」
コウキが、手を握りしめる。ぽき、ぽき、と骨が鳴る音がした。
「武夫先輩が、自信を持ってマルを演じられるようにしてあげたい」
「それは、なかなか、難しいと思うけど」
「ああ。今すぐ武夫先輩がそうなるのは無理だ」
「無理なことをやろうとする辺り、コウキ君は贅沢だね」
盛大なため息が、コウキから漏れる。
「もっと武夫先輩と仲良くなっておくべきだった。そしたら、動けたのに」
「今更言ってもね」
「綾さんの時と同じだ。問題が起きてから、仲良くなっておくべきだった、って後悔してる。同じことを、何度繰り返すんだろうな」
コウキの言葉に自嘲するような響きを感じて、元子は小さく笑った。不思議そうに、コウキがこちらを見てくる。
「何度も同じ失敗を繰り返して、その度少しずつ前に進むのが、人間でしょう? 起きてもいないことを警戒して先回りしておくなんて、予知能力でもない限り、不可能だよ」
「分かってるけど」
「どうしようもないことに悩むよりも、あなたの代わりに動ける人が、適切に動けるようにサポートしてあげたら?」
「代わりに?」
「園未先輩や、奏馬先輩が」
「……ああ」
「あの二人にしか、武夫先輩は動かせないでしょ」
「俺もそう思う。でも、今の武夫先輩に、あの二人の言葉が届くかな?」
「そこは、脚本家のコウキ君が上手く仕立ててあげなきゃだね」
「うあー、何か、嫌な言い方」
「ふふ、冗談だってば。コウキ君が上手くやった方が良いっていうのは、本当だけど。まあ、頑張りなよ」
「って言ってもな……」
コウキが、ため息をついた。
「もう、行った方が良いと思うよ。こうしてる間にも、二人が間違った動きをして、取り返しがつかなくなるかもしれないし」
「そう、だな。ありがとう、元子さん」
「これは、貸しだね」
コウキが苦笑した。
「分かった」
そう言って、コウキは扉を開け、廊下へと戻っていった。
扉についている窓から、去って行くコウキの後ろ姿を眺める。
相談に乗るのはギャップに関してだけだと、正体を明かした時にコウキには言っていたというのに、なぜか、普通の相談にまで乗ってしまった。
自分の意外な行動に、元子自身、驚きを隠せない。
「やれやれ、私はこんな人間だったかなあ」
どうせやるなら吹奏楽も真剣にやりたい、と思って花田高には入学した。ただそれは、あくまで自分が好きなようにバリトンサックスを吹きたいという理由からだった。
部員同士の人間関係に口を出すつもりなど、全く無かった。真剣にやっているうちに、周りに影響されたのかもしれない。
前までは、人間関係などどうでも良いと思っていた。元子の周りにはギャップが溢れていて、ギャップに縁の無い人間とわざわざ関わる必要などない、と思っていたからだ。
花田高吹奏楽部は、居心地が良すぎる。そのせいで、普通の世界を心地良いと思うようになってきている。
武夫の問題は、解決してほしいと思う。定期演奏会は、元子も無事に成功させたい。やるなら、徹底的に完璧に、だ。
視線を景色に戻して、元子は身体をぐっ、と伸ばした。弛緩させて、息を吐く。
総合準備室を出てくる時、園未はかなり思い詰めた顔をしていた。奏馬もだ。コウキが迷っていた今の間に、もしかしたら二人は武夫に接触しているかもしれない。もしそうなっていたら、コウキに出来ることはもうないだろう。
園未と奏馬が、上手くやることを願うしかない。
「どうなることやら」
呟きは、誰に聞かれることもなく、消えていった。
ホルンの牧歌的な雰囲気を纏った旋律が、音楽準備室から漏れ聞こえてくる。どこか悲し気で、迷いを含んだような音。ひとしきり鳴った後、ぴたりと止んだ。それから、机を叩くような音がした。
そっと扉を開け、園未は様子を伺った。
「誰だ」
武夫の声。
「……私」
「来るな」
拒絶するような声。構わず、園未は中へ入った。武夫が睨みつけてくる。
「一人になりたいんだよ」
「一人に……しておけないよ」
「うるさいなぁ!」
びくりと身体が強張った。武夫の怒声を聞くのは、初めてだった。
「ほっとけよ!」
足が、後ろに下がりそうになる。それを必死の想いで耐えて、園未は一歩近づいた。武夫が、勢いよく立ち上がる。椅子が音を立てて倒れ、また、園未は身体を固くした。
背の高い武夫に見下ろされると、いつもは何ともないのに、今は、恐怖を感じる。
「ほっとけって言ってるだろ」
「い、嫌……」
武夫の舌打ちが聞こえた。
「邪魔なんだよ。鬱陶しいから近づくな」
その言葉が、胸を抉ってくる。今まで、そんな風に言われたそとは無かった。涙が出そうになる。けれど、ここで泣けば、武夫はもっと怒る気がする。ぐっと唇を噛んで、耐える。
「武夫は、今は、気が立ってるだけ」
「分かってるならほっとけよな」
乱暴に椅子を起こして、武夫が座り込む。ホルンを机の上に置いて、武夫が髪の毛をかき回した。
「疲れさせるなよ」
「武夫……」
「休憩時間ぐらい好きにしてて良いだろ」
「そうじゃ、なくて……マル、やめちゃうの?」
また、武夫が睨みつけてきた。
「やめちゃ駄目なのかよ」
「私は……武夫にマルを、やってほしい。マルは、武夫に、合ってるから」
「っ!」
ひゅっと、喉の鳴る音がして、次の瞬間、武夫の怒声を浴びた。
「俺はっ! 主役なんてやりたくないんだよ! ずっと言ってただろ、やりたくないって! なのに、皆して俺にやらせやがって! パートリーダーだってやりたくないって言ってるのに! 全部、俺に押し付けやがって! 俺はっ……俺は!」
武夫の叫び声。それは、武夫の本心だろう。
「お前がやれば良いだろ! なんで俺なんだよ! 俺は、嫌だって言ってるのに!!」
突然響いた音に、園未は驚いた。扉が勢いよく開けられ、壁にぶつかっていた。奏馬が入ってくる。武夫がはっとした時には、奏馬が距離をつめていた。武夫の制服の襟元を掴み、奏馬が無理やり立たせる。
「おい、園未ちゃんに謝れよ」
奏馬の、冷たい声。武夫は、目を逸らして、何も言わない。
奏馬が、もう一度低く、謝れ、と言った。
「せ、先輩……私は、大丈夫なので……」
「園未ちゃん。こいつは甘えてるだけだ。責任から逃げたくて、やつあたりしてるだけだよ」
「なっ……!」
「いつまでこどもみたいなこと言ってんだ、武夫」
「先輩には、関係ないじゃ、ないですかっ」
「あるよ。お前は俺の後輩だ。後輩が馬鹿なことをしてたら、先輩が止める」
「馬鹿なこと!?」
「そうだろ? お前を心配してくれてる子に暴言を吐いて傷つけて。それが馬鹿なことじゃないなら、なんだ?」
武夫の顔が歪む。
「今までを思い出せよ。お前のことをいつも支えてくれてたのは誰か。その人に、お前は何を言った?」
奏馬が手を離した拍子に、武夫がよろけて椅子に座り込んだ。
奏馬が、冷たい目で見下ろす。
「大事な人を、傷つけるな。後悔することをするな、武夫。お前は……マルをやんなくても良いよ。パートリーダーも、やんなくても良いよ。でも、園未ちゃんを傷つけるな」
「っ……」
「それだけはするな。ちゃんと謝れ。マルだってパートリーダーだって、降りるなら降りていい。俺に言いに来い。でもな、そのことで他人に当たるなよ」
奏馬が、息を吐く。嫌な、沈黙。園未も、言葉が出せない。
廊下から、一年生達の場違いな笑い声が聞こえてきた。その声は階段を下りていったのか、すぐに小さくなって聞こえなくなった。
「何で……俺や晴子を頼らない? 他の三年生を、頼らない? 何で、一人で抱えこむ?」
奏馬が言った。
「……出来たら、とっくにしてますよ」
「……お前にとって、俺達は、そんなに頼りないか?」
武夫は答えない。
「……とにかく、園未ちゃんには、謝れよ」
奏馬が振り向く。一瞬、目が合った。ごめんな、と口だけが動く。
首を振って答えると、奏馬は、園未の肩に手を置いて、それから音楽準備室を出て行った。
ぱたん、と音がして、狭い室内が静寂に包まれる。
しばらくして、すすり泣くような声が、武夫から聞こえてきた。だらりと身体を椅子に預けたまま、顔を俯けている。
涙が一筋、見えた。
武夫に、何を言えば良いのか、園未には分からない。
なぜ、自分はここへ入ったのだろう。何を言おうとしていたのだろう。何も、出来ないではないか。
今までも、そうだった。武夫が悩む度、園未はその力になってやれなかった。
自分は、無力なのだ、と園未は思った。同時に、泣いていた。自分の至らなさに、泣かずにはいられなかった。武夫に近づき、その頭を抱くようにして包み込む。
「ごめんね、武夫」
言葉が、自然に出ていた。
「ごめんね、無理させて」
武夫のすすり泣きは、止まらない。
「私が、もっとしっかりしてれば、武夫に何もかも押し付けないで済んだのに」
園未が、ホルンをもっと上手く吹けていたら、奏馬は園未と柚子にオーケストラをやらせなかっただろう。
園未が、声を出せて演技も出来たら、弟のマルを演じることも出来ただろう。
園未が、前に立とうとすれば、パートリーダーを奏馬から託されただろう。
園未が、武夫の陰に隠れていたから、全部、武夫が背負ってくれていた。
武夫は、強い子ではないのに。中学生の時は、よく泣いていた。先輩から怒られたり、顧問に怒鳴られて、後でこっそりと泣いて、いつも辞めたい、辞めたいと言っていた。
本当は、武夫だって前に立てる子ではないのだ。なのに、園未が頼りないから、武夫は無理をしていた。いや、園未が無理をさせていた。
「ごめんね、武夫」
武夫が、腕を腰に回してくる。泣き声が、大きくなる。
「ごめん、ごめん、園未」
絞り出すような、武夫の声。
「良いの、武夫、私こそ、ごめんね」
「俺、頭ぐちゃぐちゃで……」
「うん……」
「やんなきゃいけないのにっ……」
「良い、もう、無理しなくても、良いよ。武夫は頑張ってくれてる。良いの」
「ごめん、園未」
武夫の頭を撫でる。
自分は、何故こんなにも無力なのだ。
園未の涙も、止まらなかった。




