九ノ十二 「そんなの、自分が一番分かってる」
毎月行われている蜂谷のレッスンには、木管セクションの大半の部員が参加する。いないのは、すでに別のプロからレッスンを受けている、フルートとオーボエの四人とファゴットの同期の中野ゆかだ。
花田高に蜂谷が来るようになって、半年以上が経っている。相変わらず厳しい指導は続いているけれど、最初の頃と比べて、夕はレッスンの内容についていけないほどではなくなっていた。
少しは、腕も上がったのだろう。頻繁だったリードミスによる音のひっくり返りも、最近は皆無というわけではないものの、目立たなくなっている。
音も、大分安定するようになってきた。蜂谷に耳元で叫ばれる回数が減ったのは、その証拠と言えるかもしれない。
「そうだ、良い音を意識しなさい。何故その音を出すのか? その音にどういうイメージを持っているのか? 漫然と吹かないこと」
蜂谷の大音量の声が、教室内に轟く。楽器の音が響いている状況でも、蜂谷の声は耳に届いてくる。どんな発声をすれば、そんなに声が出せるのだろう。
「音の処理を甘くしない。ぶつ切りにしない。全ての音を丁寧に吹きなさい」
蜂谷がクラリネットを構え、音を出す。それだけで、部員全員の音を圧倒する程に豊かな響きが、教室内に満ちる。
小さなクラリネットから出ているとは思えないほど、深い音。
蜂谷の音を耳で聴き、すり寄せていく。音程が一致し、ユニゾンの響きが生まれた。
ほんの少しの音程のずれで、響きは乱れる。美しい調和した響きを保つために、音を聴きあい続ける。
音は不思議で、全員の音が見事に一致した時、今自分達が出していないはずの音が聴こえてくることがある。倍音と言われるもので、ドの音を吹いていると、その上のソやもう一つ上のドの音などがかすかに聴こえてくるのだ。倍音が豊かな演奏は、耳に心地良いし、複雑で深い響きになる。そのためには、音程を合わせることが必須だ。
ただ音を伸ばすだけならまだしも、早く難解なリズムのフレーズなどでは、音を合わせるのは難しくなる。どんな時でも、安定した音が出せること。それが大切だ。
「よし、楽器をおろしなさい」
蜂谷の指示で、楽器を膝に置く。
吹かない時は、こまめに楽器を手放せ、と蜂谷はよく言う。常に構えていると、それだけ身体は疲労し、集中力を使う。吹かない時に身体を休めることが、バテないコツらしい。
楽器演奏は口だけで行っているのではなく、実際には身体全体を使っている。足の置き場一つ変わるだけでも、音は変わる。無理のない体勢で、良い音が出る身体の使い方をする。蜂谷が特に強調して言うことだった。
「初心者四人は、来年度の部活動説明会でアンサンブルを吹くと聞いたが?」
「あ、そうです」
晴子が答えた。
「何を吹く?」
「まだ、未定です。丘先生が、編曲してくださるそうです」
「そうか。では来月には決まっているかもしれないな。来月のレッスンで一度見てみよう」
「えっ」
「何だ、嫌か、鈴木」
「あっ、いえ、そういうわけでは」
「しっかり練習しておくように!」
「はい!」
智美と綾と和が、威勢の良い返事をした。
結局、あの後のリーダー会議では、来年度の説明会は初心者七人によるアンサンブルを披露する、という話にまとまった。
夕も、承知した。逃げたくないと思ったからだ。他人を言い訳の理由にして逃げるような自分は、嫌だった。そんな自分を打ち壊したかった。
未来のような、立派なリーダーになると決めた。だから、部のためになることは、逃げずにやらなくてはならない。
膝の上のクラリネットに目を落とす。使った後は、いつも丁寧に拭いている。学校の備品でも、夕にとっては相棒のような存在だ。きっと、今まで使ってきた人達も同じ気持ちだったのだろう。使い込まれていても、大きな傷は見当たらない。
リーダー会議でコウキがこの提案をした次の日、頭を叩いたことを、謝罪しに行った。
コウキは、笑って言った。
「確かにまだ不安な部分もあると思う。でも来年の四月には、夕さんが三年生だ。そうなると、きっと夕さんがトップを吹くことになる。よほど腕の上手い後輩が入ってこない限りはね。そうなったら夕さんがクラの責任を背負うだろ。その時になって慌てるよりも、今から慣れ始められると思えば、良い機会だろ?」
それは、コウキの言う通りかもしれない。
「失敗したって良いんだ。とにかく本番を一つでも多くこなして、人前で演奏する感覚を早く身に着けた方が絶対に良い、と俺は思う」
「下手でも?」
「上手いか下手かは、重要じゃない。今その時点で、自分が奏でたい音楽を奏でようとしてさえいれば、それで良い。出来ないことをやろうとしても、無理さ」
「なんか、分かるような、分からないような」
「提案者だし、俺も練習には付き合うから」
「……うん」
夕達のアンサンブルの出来で新入部員の数が決まると思うと、重圧で胸が苦しくなる。それでも、決まった以上はやるしかない。
「気負いすぎるなよ、夕さん」
こちらの心を見透かしたようなコウキの一言に、薄い笑いを返すしかなかった。
肩を叩かれて、はっとした。隣に座る智美が、目で合図してくる。ぼうっと、物思いに耽ってしまっていた。
「鈴木、聞いているのか?」
蜂谷がこちらを見ている。
「すみません、何でしょうか」
「リードの調子はどうだと言っている」
「あっ、はい、あの、悪くないです」
「リードの質一つで音が変わる。管理には気を抜くなよ」
「はい」
ちょっと頷いた後、蜂谷は夕の隣の智美に声をかけだした。
木管楽器は、唇を振動させて音を出す金管楽器奏者と違って、リードという木片を振動させて音を生み出す。良いリードは、良い演奏に不可欠である。しかし、木材で作られたリードは一枚一枚微妙に出来が異なり、良い品質のものもあれば悪い品質のものもある。
出来るだけそのばらつきを軽減するためのコツや扱い方なども、蜂谷の指導では丁寧に行われている。
実際、プロの音楽家目線での選び方や扱い方は、教わらなければ一生知る機会は無かっただろう。楽器やリードの問題で上達が妨げられていては勿体ない。そうならないために、適切な知識を得ることは重要だ。それだけでも、蜂谷のレッスンを受けた甲斐はあると言える。
今は、金管セクションでもプロの講師を呼ぶかどうか、丘と学生指揮者で検討しているのだという。金管セクションの部員で定期的なプロのレッスンを受けているのは、奏馬と逸乃だけだ。
全員の技術向上のためには、必要だろう。それは、コントラバスや打楽器パートも同様の話で、定期的には金銭面で無理だとしても、年に何度かは、受けても良いはずだ。
木管奏者と違って、他パートは定期的にかかる金がそれほど多いわけではない。その分、レッスンに使うことも出来るのではないか。
木管セクションは、蜂谷の指導によって伸びた部分も大きい。優れた音楽家の指導は、確実に効果がある。
今年のコンクールこそは、全国大会に出場する。今、部員全員がそう目標に定めている。そのためには、今以上の成長が必要になる。
夕も、本当は蜂谷のレッスンをもっと受けたいほどだ。最初の頃は、威圧的で嫌いな人だと思っていた。今では、蜂谷の指導は夕の中で最重要なものになっている。グループレッスンだと、一人あたりの指導時間は短くなる。もっと、細かな部分について色々と教えて欲しい時もあった。
休憩時間になると、蜂谷は一人一人と会話をする。全員との会話を終えた蜂谷が、楽器を構えた。
「再開します」
その一言で、部員も楽器を構える。
「全調スケール、テンポ百六十。一つの調を四回やったら次の調へ。アーティキュレーションはスラー、テヌート、マルカート、スタッカートの順番」
「はい!」
メトロノームが鳴り始める。
蜂谷の合図で、夕は大きく息を吸い込んだ。
定期演奏会の二部では、ミュージカルで役を演じるミュージカルメンバーと、舞台下で演奏をするオーケストラメンバーとに分かれる。
主役はミュージカルメンバーであり、舞台に彩を添えるためにオーケストラの音楽は存在する。オーケストラというのは呼び方なだけで、要するに小人数のバンドだ。
普段のように大音量で吹く場面はほとんどなく、歌が聞こえるように、抑えめに吹くことが求められる。
「トランペット、トロンボーン、このシーンはそれほど出さなくて結構です。抑えても充分聞こえますから。ただし、小さく吹くという意味ではありません。弱々しく吹くのではなく、静かに吹く、というイメージで吹いてください」
「はい」
逸乃と月音、コウキが返事をする。
「もう一度頭から」
オーケストラメンバーは二十二人で、人数が少ない分、一人一人の音がはっきりと聞こえる。音のバランスを整えるために、普段以上の集中力が求められる。
「ホルン、もう少し頭の発音をはっきり吹けますか? 縦の線を揃えて欲しい」
「はい」
隣の柚子が返事をした。園未も、小さく応えた。
ホルンは発音がどうしても乱れやすい特性の楽器だ。そこに意識を集中しすぎても、他がおろそかになる。自然体で吹けるのが一番ではあるものの、園未は、そこまで熟練の腕は持っていない。
来年は、武夫がパートリーダーで、ホルンのトップになる。
奏馬の演奏は飛び抜けていて、今の武夫一人では、到底及ばない。これから、ホルンパートは奏馬が抜けた後、四人で奏馬一人に並べられるだけの力をつけなくてはならない。そうしなくては、ホルンパートがバンド全体の足を引っ張ることになる。
だから、園未と柚子がオーケストラメンバーに選ばれた。小編成で、自分達が嫌でも目立つ環境で、技術を磨く。奏馬からの指示だった。
「ホルンの四人の音が見事に調和すれば、例え一人一人の力量は不足していても、美しい音楽は奏でられる。それが合奏だから」
奏馬はそう言った。そのためには、もっと音を聴いて、ハーモニーを生みだせるようにならなくてはならない。ミュージカルのオーケストラ演奏は、その訓練に最適だった。
「白井と山口。低音の要はお二人です。そこを忘れないように」
「はい」
「それから、織田。ドラムが少しオケ全体から飛び出ています。もう少し主張を抑えて」
「はいっ」
勇一と元子、純也が応え、演奏が再開される。オケの合奏の仕上がりは、悪くない。定期演奏会まであとひと月弱ということを考えると、良いペースで進んでいる。
この後は、ミュージカルメンバーとの合わせもある。ミュージカルの場合は、ただテンポ通り吹けば良いわけではなく、役者の呼吸やタイミングに合わせて、演奏を開始したり止める必要がある。あくまで役者が主役だから、オーケストラは向こうに合わせるのだ。そうした感覚を掴むためにも、細かな合わせが必須である。
楽器を吹きながら、武夫はマルを上手く演じられているだろうか、と園未は思った。
図書室でコウキに偶然会って、武夫への助言を聞いた。それを、伝えてみた。武夫に響いたかは、分からない。
きっと、きっかけがあれば、武夫は壁を越えられる。昔から、そうだった。
武夫は何かにつけて悩む癖がある。その悩みを乗り越えた時、いつも一つ上の段階に成長していた。今も、きっとそれだ。何かが掴めれば、武夫はちゃんとマルを演じられるはずだし、ホルンも今以上に上手くなる。
園未がそのきっかけになれれば良いのに、といつも思っているけれど、その力はない。ただ傍に居て、励ますことしか出来ず、むしろ、園未が武夫に守られているようなものだ。
「ホルン、音が乱れてますよ」
「っ、はい」
一度楽器をおろし、深呼吸をする。胸が上下し、呼吸が気持ちを落ち着けていく。
今は、演奏に集中しなくては、と園未は思った。
「もう一度同じところから」
「はい」
楽器を構え、丘の手に注目する。室内の空気が、張りつめる。
丘が動いた。息を吸い、楽器へと吹き込む。ホルンの柔らかな音が、ベルから飛び出していった。
午後の三時になると、一度休憩が挟まれ、オーケストラメンバーとの合わせになった。演奏と共に、演技と歌が繰り広げられていく。主役の野ネズミの兄ルウを演じる奏馬は、やはり良い演技をする。凛々しい兄の姿を、見事に作り上げている。
武夫は、何度、丘に止められただろう。弟のマルはそうではない、と丘は言う。言うだけで、具体的な指示は無い。音楽の時は細かすぎる程に指摘してくるのに、なぜ演技になると何も言わないのか。それでは、直しようがない。
「加藤。このシーンのマルの気持ちを言ってみなさい」
演技を止めて、丘が言った。全員の視線が、武夫に集まる。見られると、わずかに、呼吸が苦しくなる。
「ルウが旅立ってしまって、一人残されたマルは悲しんでいる、と思います」
「悲しんでいるとは具体的に?」
「……寂しいとか、辛い、とか」
今は、外の世界を夢見た兄のルウが旅立った後、弟のマルが一人きりになってしまい、その悲しみを歌う場面だ。
登場するのは、武夫の演じる弟のマルのみ。暗い舞台で、ぽつりとスポットライトが当たる。全ての観客の意識が、武夫に集まる。そういう場面だ。
考えただけで、立ち眩みが起きそうになる。
「もっと具体的に」
「……分かりません」
丘が、小さく息を吐いた。
「では、貴方は、その感情を歌で表現していますか?」
「……その、つもりです」
「もっとおおげさに表現してみてください。わざとらしくて良いですから」
「……はい」
丘の指示で、演奏が再開される。武夫は、演技をした。丘に言われた通り、先ほどよりも声に抑揚をつけ、歌は暗く低く。
指揮棒が、台を叩いた。
「もっとです、加藤」
「……はい」
また、繰り返される。そして、止められる。
「加藤」
「はい」
「総合学習室で練習してきなさい」
「っ……はい」
「貴方一人のための時間ではありません。マルという役について、もっと深く考えてきなさい」
「はい」
部員の視線を感じる。いたたまれず、足早に音楽室を出た。
扉が閉まると、丘の声が聞こえて、次の場面からの演奏が流れ出した。
武夫は総合学習室に入ると、教壇に腰を下ろし、深くため息をついた。音楽室から、森の動物役の部員達の歌声が聞こえる。弟のマルが悲しみを歌う場面から一転して、そんな彼を動物達が励ます、明るい調子の音楽が流れる場面だ。
漏れてくる演奏と歌を聴きながら、武夫はもう一度ため息をついて、髪をがしがしとかき乱した。
丘は、もっとマルについて考えろと言った。一体、何を考えれば良いのだ。悲しみを表す。それでは、間違っているというのか。何が足りないのだ。自分は、精いっぱいやっている。
「下手だからか」
もっと歌が上手ければ、演技が上手ければ、こんなに指摘されないで済むのか。部員の前で、恥をかかなくて済むのか。
「……辞めたい」
思わず、口から出ていた。それは、本音なのか、ただの愚痴なのか。
足音が聞こえて、顔を上げた。演技指導をしてくれていた卒部生だ。武夫の前に来た彼女は、手を腰に当てて、武夫を見下ろした。
「何してるの?」
「休憩、を」
「練習してきなさいって言われたんでしょ? 何やってんの?」
「すぐ、やります」
「すぐとかじゃなくてさ」
その言葉に、武夫は微妙に苛つきを感じた。
「主役の自覚あるの、武夫っち。皆が、貴方のせいで練習出来なくなる。休んでる暇なんてあるの?」
うるさい。
「聞いてるの、ねえ。ほんとに、今休んでるのって、駄目でしょ? 武夫っちはミュージカルの顔になるんだよ。なのにそうやってさぼってると、ミュージカルそのものが駄目になるんだよ」
心の底から、不快感がせりあがってくる。それは、今にも武夫を押し潰しそうな程に急速に膨張し、胸をむかつかせた。
なおも言い募る卒部生の顔が、言いようもない気味の悪さで歪む。この人が、真剣に教えてくれているのは分かる。ただ、今はうるさいとしか感じない。放っておいてほしいのに、そう伝えることは出来ず、黙って聞くしかない。
「はあ……何であなたが主役なの?」
卒部生の呟きを、武夫は聞き逃さなかった。そして、言われたくない言葉だった。その一言が、武夫の中の何かを弾けさせた。
視界が、黒くなる。頭の中が沸きあがり、喉が、ひゅっと音を立てる。開いた口から、出してはいけない何かが、飛び出ようとした。
「はいっ! はい、そこまで!」
突然だった。声の主は、武夫と卒部生の間に身体を割り込ませ、武夫の肩をぐっと掴んで動きを妨げてきた。それで、出かかったものは、止まった。
「コウキ君」
「はい、ありがとうございます、先輩。助かりました。ミュージカルメンバーへの指摘が入ってるので、音楽室に戻っていただけますか」
「は、何で」
「いや、先輩が出て行っちゃうから。丘先生だけじゃ手が足りないんで。細かい指摘と助言、お願いします」
「でも、武夫っちは」
「武夫先輩は大丈夫です。ありがとうございます、お願いします」
こちらに背を向けていて、コウキの顔は見えない。その向こうに立つ卒部生は、まだ不服そうな顔をしながらも、総合学習室を出て行った。
卒部生の足音が遠ざかり、一瞬だけ、音楽室から聞こえてくる音が大きくなった後、また小さくなった。
くるりと振り返ったコウキが、武夫の二の腕を、二、三度叩いてくる。
「座りましょう、武夫先輩」
そっと導かれて、椅子に腰を下ろした。出しそびれた感情が、心の中にとどまっている。
なぜ、コウキが出てきたのだ。




