九ノ十一 「初心者」
蛇口から流れる水がシンクに叩きつけられ、弾ける音が響く。磁器同士が当たる時の金属音が不規則に聞こえてきて、母親が皿洗いをしているのだ、と分かった。
居間に続く扉を開け、台所の母親に声をかける。
「おはよー」
「おはようじゃないでしょ。今何時だと思ってるの、ひなた」
「何時ぃ?」
「十時よ」
「んあー、寝すぎた」
「せっかくの日曜なのに」
昨夜は、父親の部屋でずっと花田高の吹奏楽部の動画を見続けていた。練習風景が新たにアップされていて、それを観た後に、ミニコンサートの映像を観返していたのだ。
何度聴いても、オーボエの女性が吹く『風笛』は、ひなたをうっとりとさせた。あれが聴きたくて、最低一日一回は再生している。外で録音している映像だから、音質が良くないのがもったいない。あれをホールで演奏した動画だったら、きっと最高だろう。
「朝ごはん食べちゃいなさい」
「はーい」
母親からパンとスープを受け取って、テーブルに移る。父親の姿が無いのは、ゴルフにでも行ったからだろうか。
「ねえおかあさーん。オーボエって高いの?」
「ピンからキリねえ。良いのは高いけど」
「お母さん、昔吹いてたんだよね? 自分の楽器だった?」
「まさか。そんなの買ってもらえる余裕無かったわ」
「じゃあ、学校の?」
「そうよ。オーボエは繊細な楽器だから、備品のやつは苦労したわ」
「ふーん」
花田高に合格したら、ひなたは吹奏楽部に入ろうと決めていた。友達の絵里がいるから心強いし、新しいことを始めるならオーボエが良い、とも思っている。
「何、オーボエが吹きたいの?」
「うん、吹奏楽部入るなら、オーボエやりたい」
「難しいわよ、オーボエは。高校から始めて、コンクールに出られるだけの腕になるかどうか」
「なんでー? やってみなきゃわからないじゃん」
新体操も、中学から始めた。二年生の時には、もう大会のメンバーに選ばれた。始めるのに、遅いも早いも無いはずだ。
「他の楽器より難しいのよ、オーボエは」
「でも、綺麗な音じゃん。ああいう音、出したいよ」
「オーボエで良い音が出せるようになるには、相当努力しないと無理よ」
うるさいなあ、と言いそうになって、パンを口に押し込んだ。母親にそんな口を利けば、怒られる。
難しいだとか無理だとか、そんなのは関係無い。ひなたは、オーボエに憧れた。あの女性のように吹きたい。それで充分ではないか。
やりたいことをして、何が悪い。
「ねえ、オーボエ買ってよぉ」
「馬鹿言ってないの。買えるわけないでしょ。第一、ずっとオーボエ続けるかも分からないじゃない」
「続けるつもりだもん!」
「つもりで何十万も出せません」
「ケチッ!」
母親が青筋を立てて、台所から顔を覗かせる。
うっかり、不味いことを言ってしまった。慌ててスープを飲み干し、残ったパンを全て口に詰めて、居間から逃げ出した。
「はあ、オーボエ欲しいなぁ」
「え、ひなた、マジで吹部に入るの?」
掃除の時間で、廊下で絵里と話していた。互いに廊下の担当で、クラスは隣同士だ。毎日、こうして掃除をしながら雑談をする。
絵里には、花田高に入学できたら、吹奏楽部に入るかもしれないとは相談していた。
「うん。花田には新体操部無いし、絵里もいるし」
「マジー? やった、同じ部になれるじゃーん」
絵里はクラリネットを吹いている。上手いのかどうかは、よく知らない。文化祭で吹いているところは見ていたけれど、絵里の音がどれなのかは、全く分からなかった。
去年の最後の文化祭では、ソロを吹いていた。あれは、どうだったか。あの頃はまだ吹奏楽にそれほど興味が無くて、はっきりと覚えていない。
「でもなんでオーボエ?」
「花田高の動画、観てないの? オーボエの人がめっちゃ上手いんだよ」
「へー。何、それでオーボエが好きになったの?」
「うん。絶対オーボエになりたい!」
久しぶりに、本気でやってみたいことだった。吹奏楽部は楽器の種類が多い。どれが自分に合っているのかなど見当もつかないけれど、唯一、オーボエなら熱中できる気がする。というよりも、オーボエが吹きたいから吹奏楽部に入りたいという感じだ。あの女の人のように、自分も吹けるようになりたい。
自分が前に出て『風笛』を吹く姿を想像してみる。良い、とても良い。あの人に教わったら、ああなれるだろうか。
絵里の反応が無いことに気がついて横を見ると、箒の柄に顎を乗せて、渋い顔をしていた。
「どしたの?」
「んー……いや、吹部に入ってくれるのは嬉しいけど、オーボエはやめた方が良いんじゃないかなって」
「は……? 何で?」
「オーボエ、めっちゃ難しいよ? 上手くなるのが遅かったら、下手すると、三年間コンクールに出られないまま終わる可能性もあるから」
母親も同じことを言っていた。
「どうせひなたが入ってくれるなら、一緒にコンクールだって出たい。オーボエだと、どうなるか分からないじゃん」
「でも、他にやりたい楽器無いし」
「クラは? 一緒にクラやろうよ」
「えー……」
クラリネットの絵里には言えないが、クラリネットののっぺりとした音は、好きではない。オーボエのあのしっとりとした音が、ひなたは好きなのだ。曲に合わせて音の感じが変わって、甘いささやきのような時もあれば、身体を弾ませたくなるような軽やかな時もある。
「オーボエが良い。あの音が、良い」
気持ちは、揺るがない。
息を吐いて、絵里が髪をくしゃりとかきあげた。
「あそ。まあ、なら、好きにしたら? そもそも、オーボエになれるとは限んないし」
「えっ!? なんで?」
「新入生にオーボエの経験者がいたら、その子が優先的に選ばれるでしょ。そしたら、オーボエに二人も回す余裕が花田になかったら、別の楽器にされるでしょ」
「嘘……そんなぁ」
今更、オーボエ以外をやりたいとは思わない。オーボエでなかったら、吹奏楽部に入る意味もない。
「経験者なんて、来るなー!!」
思わず叫んでしまって、絵里が苦笑した。
「どの楽器になるかの前に、うちらは合格できるかどうかだけどなー」
「うっ」
「勉強、進んでる?」
「全然……」
勉強していても、オーボエと花田高の動画が思い浮かんで、すぐに手が止まるのだ。四六時中、そのことばかり考えてしまう。今ではひなたの頭の中の大半は、オーボエで埋まっている。
「頑張ろうよー。せっかく一緒の高校行くのに、どっちか落ちたら笑えないよー?」
「うん……」
「おいお前ら、いつまで話してんだ、掃除しろ」
教室から顔を覗かせた教師が、怖い顔をして言った。慌てて絵里と離れ、箒で床を掃きはじめる。左右に箒を動かす度、塵が集まって固まりになっていく。
花田高は、この辺りでもかなり学力的には低いという。それでも、ひなたの成績では合格できるか怪しい、と担任には嘆かれていた。
せっかく、やりたいことも見つかったのだ。ここで落ちるような馬鹿な真似は出来ない。花田を落ちたら、あのオーボエの人には会えないだろう。それは嫌だ。
あの人に教わりたい。あの人の隣で吹きたい。
「はあ、めんどくさ」
どうせなら、花田高がもっと学力が低くて、名前が書ければ合格できる夢のような学校だったら良かったのに、とひなたは思った。
それなら、勉強の必要もないし、入学してからもオーボエの練習に集中できるではないか。
集めた塵を眺めながら、盛大なため息をついた。
部室に、リーダーが全員集まっている。練習後の定期演奏会の準備も終えて、リーダー会議をしているところだった。
近頃の議題は、大抵、定期演奏会関連だ。今の部にとって最重要な問題だから、当然ではある。話すのは主に三年生ではあるものの、一、二年生もぽつぽつとは口を挟む。下級生で全く遠慮せず話すのは、コウキや正孝くらいか。
「定期演奏会とは全然関係ないんですけど、一つ良いですか」
コウキが言った。晴子が頷いて、全員の視線がコウキに向く。
「来年度の、新入生歓迎会についてなんですけど、ちょっと考えがあって」
おや、と夕は思った。新入生歓迎会は、四月になってからの話だ。まだ二月の下旬で、随分先の話なのに、今するのか。コウキが何を言うのか、興味をそそられて、夕は身を乗り出した。
「考えって?」
「今の一、二年生を合わせると、三十三人です。来年度、フルメンバーでコンクールに出ようと思ったら、新入生が最低二十二人は必要です。でも、実際はもっと欲しいですよね」
「まあ、そうだね」
摩耶が言った。
「そこで重要なのって、どれだけ初心者を確保できるか、だと思うんです。今年の初心者の子が皆上手かったみたいに、初心者でも、コンクールに出られる力量のある人は沢山います。経験者も重要だけど、同じくらい、初心者の確保が大切です」
「それで?」
「初心者がうちの部を知る一番大きなシーンは、部活動説明会です。そこで思わず入りたいと思わせられたら、部員は増えるはずです。じゃあ、入りたいと思う部の紹介って、どんなのかなって考えたんですよ」
何だろうか。
「初心者の七人での、アンサンブル」
「……えっ!?」
思わず、夕は声をあげていた。
摩耶が、首を捻る。
「どういうこと?」
「そのままです。夕さん達が、摩耶先輩の紹介に合わせてアンサンブルを披露する。そして演奏の後、全員初心者だと明かす。初心者でも関係なく良い演奏を作り出せるし、花田の吹部はたった一年でこのレベルまで皆が成長できるって、経験者にも伝わる。その効果は、大きいと思います。普通、部の紹介って、上手い子が演奏を披露しますよね。それを逆手に取るんです」
「私達が上手い演奏する前提じゃん」
夕の言葉に、コウキは当たり前だと言わんばかりの表情で頷いた。
「出来るでしょ?」
「簡単に言わないでよ! 第一、パートのバランス悪すぎるじゃん。クラ三本にサックス、トランペット、ホルン、打楽器って、何やるの、この編成で」
「それは丘先生とも相談だけど。今の夕さん達なら、絶対良いアンサンブルになる」
初心者だけでのアンサンブルなど、聞いたこともない。部の今後に関わる重要な演奏なのに、それを夕達に任せようというコウキの頭が、信じられない。失敗すれば、下手な部だと思われて、経験者の入部も減るかもしれない。そうなったら、責任を取れない。
「駄目ですよ! 初心者だけのアンサンブルなんて! ね、摩耶先輩!?」
「駄目とは思わないけど」
「ええっ」
「俺も、良いと思う」
正孝が言った。
「そんなっ」
「夕ちゃん、何で駄目だと思うの?」
未来が言った。
「だって……だって、失敗したら、部員が入らないかもしれないじゃないですか」
「失敗するとは限らないじゃん」
「だけど、私は良くても、他の子はっ」
「まあ、とりあえずの提案だよ、夕さん。他にもっと良い案があれば、全然そっちで構わない。ただ、俺はこれが良いと思うから言った」
コウキを睨みつける。
冬のアンサンブルコンテストには、夕も出場した。けれど、あれは二年生の梨奈もいたし、他のパートの先輩もいたから吹けた。初心者七人で吹くとなれば、クラリネットのファーストはおそらく夕が担当するだろう。今まで、ファーストを担当したことはまだないし、出来る気がしない。
仮に夕が良くても、他の初心者の子達が良くないだろう。桃子は、元々はトロンボーンの経験者だ。だからホルンに慣れた今は、随分吹けるようになっている。綾、和、智美、陸、万里、はそうではない。夕と同じ、完全な初心者だ。あの子達が、承知するわけがない。
摩耶の隣に座る智美に目をやった。感情の読めない表情をしていて、どう思っているのか、全く分からない。なぜ、智美は反対しないのだろう。
晴子の手を叩く音で、はっとした。
「じゃあ、一、二年生の皆は、部活動説明会について考えてきて。明後日、もう一度話し合おうね。私達三年は、卒業した後の話だから、口を挟まない。自分達で決めて」
「はい」
その後もリーダー会議は続いたものの、夕の頭の中は部活動説明会の件でいっぱいで、話は耳に入ってこなかった。
会議が解散した後、コウキを捕まえて英語室に連れ込んだ。
「正気? 出来るわけないじゃん、アンサンブルなんて」
「やる前から、出来ないと決めつけるのは良くないな」
「他人事だからそんな風に言えるんだよ。コウキ君が初心者だった時にそれをやれって言われて、出来たと思う?」
「仮定の話は分からないけど、俺は無責任に提案したわけじゃない。七人なら出来ると思ったし、それが一番説明会でインパクトがあると思ったから提案したんだ。夕さんだって、十分ファーストを吹ける力量はついてきたはずだよ。時間はあるからじっくり練習すれば、四月の説明会では吹けるはずだ」
「私が吹けたとしても、綾や和がやりたがらない!」
「いや、実は二人には相談してるんだよね。面白そう、って言ってたよ」
「は、はあっ!?」
あの二人が、まさか、と夕は思った。
「橋本さんも良いって言ってたし、陸君も智美も桃子さんもやりたいと言ってた。全員、前向きに考えてくれてるよ」
「何、聞いてなかったのは私だけ?」
「いやあ、驚かせようと思って」
爽やかに笑ったコウキに苛つきを感じて、思わずその頭に手刀を打ちおろした。
「あほ!」
頭を抱えてしゃがみこんだコウキを置いて、英語室を出る。その勢いのまま、鞄をひっつかんで学校を飛び出していった。
夜道を、早足で進んでいく。
怒ったのは、コウキにではない。本当は、自分に怒ったのだ。
リーダー会議でコウキの提案を聞いた時、すぐに夕は嫌だと思った。けれど、そうは言いたくなくて、他の子の気持ちを代弁するかのような言い方をした。夕以外の六人は、コウキの提案を受け入れる気でいたのに、他の子も、夕と同じで嫌だと思うはずと決めつけて、自分の意見を言うための口実に使った。
自分が小さくて、嫌になる。昔からそうだった。目立ちたくなくて、程ほどの位置にいられるように、人気者の女の子の陰に隠れてきた。委員長だとか部長だとか、そういう仕事もしないようにしてきた。
未来のようになりたいと思ったはずなのに。全然、違う。未来は、こんな人間ではない。未来だったら、きっとコウキの提案を喜んで受けようとしただろう。部のためになるならと、進んで前に立ったはずだ。
何をしているのだろう。一際大きなため息が、口から漏れだす。街灯の明かりで浮き上がった自分の影が、やけに歪んで見えた。




