九ノ七 「奏馬の心」
都と岬との関係がいつまでも続くものではないと、奏馬には分かっていた。どこかで、決めなくてはいけないタイミングが来ると。ただそれを一秒でも遅らせたくて、三人ともが、この関係を維持していた。
都と岬の泣き顔が、頭に思い浮かぶ。その度に、爪が突き立つほどに拳を握りしめ、額にぶつける。消えろと願いながら、それでも消えてくれないあの時の情景に、心が押しつぶされそうになる。
都とは、幼い頃からずっと一緒だった。泣き虫で、いつも奏馬の後をついてくる、妹のような存在だった。
一度も、好きだと言われたことはなかった。だから奏馬も気づかない振りをして、どんなに好意を示されても、受け流してきた。
中学校で、奏馬が吹奏楽部に入ると言ったから、都も入部した。ファゴットに配属されて、うまく吹けず、すぐ諦めると思った。だが、都は続けた。安くはないリードも自分で購入して、上達のために、懸命になっていたのを覚えている。ただ奏馬のそばにいたいがために、入部したわけではないのだ、と見直した。
岬には、何度か告白されていた。そして、その度に断ってきた。それでも諦めないで、岬は奏馬のそばに寄ってきた。そういう子は、初めてだった。告白してきた子は、皆一度断れば、それで諦めた。岬だけが、ずっと諦めなかった。
男として、二人の異性からずっと好意を寄せられて、嬉しくないわけがない。だが、それは音楽には何の利益にもならない。
奏馬にとっては、ホルンが全てで、音楽が生きがいである。恋愛は、音楽には必要ない。むしろ、恋人は、足手まといになる。そう思って、誰の想いにも応えずに生きてきた。
三人の今の関係は、定期演奏会を最後に終わる。三人とも進路は別で、会う時間は大きく減るからだ。だから、そろそろはっきりさせたいと、バレンタインデーだった昨日に、都と岬に告白された。
都は初めてで、岬は、三度目だった。
奏馬は、断った。どちらを選ぶことも、奏馬はしなかった。
これから、音楽家になるための厳しい道を進むことになる。そこに、恋人という存在は要らない。恋愛に気を逸らしている暇は、奏馬にはない。そう思ったからだ。
音楽の才能には、絶対の自信があった。花田高で、奏馬より上手い奏者はいなかった。ただそれは、花田高の中での話でしかない。
外に出れば、奏馬より優れた演奏をする奏者は、いくらでもいる。小さな自信など、あっという間に打ち砕かれるだろう。
満足していては、決してプロの音楽家にはなれない。何かを捨ててでも、本気で目指すべき道なのだ。
また、二人の泣き顔が思い浮かぶ。胸の辺りを、都に叩かれた。大して力は入っていないのに、重い金槌で殴られたような衝撃と痛みがあった。
岬が、大粒の涙を零した。手のひらで拭っても拭っても、次から次に溢れて地面に落ちていくそれを、見ているしかなかった。
あの時そうさせたのは、奏馬なのだ。
「くそっ!」
拳を、床にたたきつける。
二人を突き放すと、ずっと以前から決めていた。今更、気にすることではないはずなのに。心が、不快感で満たされている。胸や頭をかきむしっても、その不快感は消えない。
今日の日中の仕事を、都と岬は休んでいた。朝練にも、来ていなかった。晴子に事情を聞かれたが、濁した。
奏馬も、修の仕事を手伝う気になれず、東端の非常階段で座っていた。壁が風を遮り、太陽が暖めてくれるおかげで、防寒着が無くても座っていられる。
また、二人の泣き顔が浮かんだ。
「ここですか、探しましたよ」
不意にかけられた声に、身体を強張らせた。
階段の下にコウキが立っていた。
「コウキ君。なんでここに?」
「奏馬先輩を探してたんですよ」
「俺を? なんで」
「朝練の時、先輩の音がおかしかったし、都先輩と岬先輩も来てないし、昨日バレンタインデーだし。あー、なんかあったんだなぁって」
たったそれだけで、察したのか。鋭すぎる。
「隣、いいですか」
「授業は?」
「サボりました」
「出ろよ」
「まあまあ。たまにはサボりたい時もあるんで。別にこういう時じゃなくても、サボったりしてますよ」
そういう子には思えないが、嘘を言っているようにも見えない。
奏馬が何も言わないうちに、コウキは隣に腰をおろした。
「昨日、二人から貰ったんですか?」
「……ああ」
「美味しかったです?」
「まあ、な」
初めの頃は、コンビニのチョコレートを溶かして固めただけのような、不味いチョコレートだった。毎年手作りで、回数を重ねるほどに、見た目も味もこだわったものに変わっていった。
昨日貰ったものは、都がチョコレートケーキで、岬が様々な形と色をしたチョコレートの詰め合わせだった。どちらも、奏馬の好みの甘さで美味しかった。
「もう三年生で」
コウキが呟いた。
「ずっと三角関係だった。でも、卒業したら離れ離れになる。今の関係は、続けられない。答えを、誰かが求めた」
どきりとした。見事に、当たっている。
「奏馬先輩は、答えを出した。だから、二人は今日、来ていない……とか?」
「……なんで、そこまで分かる?」
「何でですかねぇ。自分の問題は全然分からないのに、他人の問題になると、やたらと分かっちゃうみたいで……」
自嘲するように、コウキが笑った。
「奏馬先輩は、あの二人が好きじゃないんですか?」
「好きとか、嫌いとかじゃないんだよ。プロになるのに、付き合うだなんだってしてる場合じゃないんだ」
「どうして?」
「俺より上手い奴は、いくらでもいる。そいつらに勝つには、恋愛に時間を割いてる暇はないから」
「勝つ……っていうのは、具体的にどういう意味ですか?」
「それは、俺が認められるってこと、だよ」
「誰に?」
「聴いてくれる人に」
ふーん、とコウキが言った。
「認められると、どうなるんですか?」
言葉に詰まる。
「どうなる、って言われても」
「奏馬先輩は、人に認められたくて、プロになるんですか?」
「……それは」
何か、違う気がする。そんな理由で、音楽家を目指していた訳ではない。
「……どうだっていいだろ。なんでコウキ君に言わなきゃいけないんだよ」
「別に、俺に言わなくて良いですよ。ただ、奏馬先輩の思考のお手伝いをしてるだけです。思考を言葉にすると、問題が見えるようになったりするじゃないですか」
「コウキ君がわざわざ首を突っ込む話か?」
「奏馬先輩の音が崩れたら、ホルンパートが崩れる。都先輩と岬先輩が来なかったら、バンドの雰囲気が乱れる。三人がこのままじゃ、誰も得しない。リーダーの一人として、無視できませんよ」
年下のくせに。言いかけて、飲み込んだ。その言葉は、奏馬が嫌いな上級生達の好む言葉だった。ここでコウキを拒絶すれば、彼らと同じ存在になってしまう。それは、嫌だ。
邪魔だが、少しだけなら、と奏馬は思った。
「奏馬先輩は、いつからプロになろうと思ったんですか?」
聞かれて、昔を思い出す。中学生の時から、すでに奏馬は周囲から頭一つ抜けていた。
「中三で、かな。ホルンが、周りの誰よりも上手くて……好きだった。これを、仕事にしたい、と思ったから」
「なるほど。じゃあ奏馬先輩にとって、プロの音楽家って、どういう存在ですか?」
「それは、オーケストラで吹いてたり、ソリストとして楽団と共演したり、そういう人、だろ」
「じゃあ、学生や音大生に教えることを仕事にしているレッスン専門の人達は、奏馬先輩的には、プロではない?」
口に手を当てて、考えた。そうとは、言い切れないだろう。彼らも、金を貰って自分の技術を伝えている。プロの音楽家と言えるはずだ。
「いや」
「うん。そうなると、楽団で吹く人も、一人で吹く人も、レッスンを仕事にしている人も、音楽で食べていたらプロ、って認識ですかね、奏馬先輩にとっては?」
「まあ、そう、かな」
「じゃあ、奏馬先輩がなりたいプロって、どの人ですか?」
言われて、答えに困った。プロの音楽家になる。ずっと考えてきたことだ。どんな、という所までは、考えていなかった。
返事が出来ずに困っていると、コウキが小さく手を叩いた。
「じゃあ、質問を変えます。奏馬先輩は、音楽に触れている時、どういう時が一番幸せですか? 聴いている時? 吹いている時? 教えている時?」
聞かれて、これまでを思い返した。花田高の吹奏楽部に入ってから、常にホルンのトップを担当していた。必然的に他の仲間に教える機会も多かった。学生指導者になってからは、教えるのが仕事だった。
人への指導は、嫌いではない。自分の助言で教えた人が吹けるようになるのは、満たされた気持ちになる。ただ、武夫のように、上手く導いてやれない人もいる。悩みに寄り添ってやることが出来ず、逆に気を使わせる結果になる時もあった。
自分が、教える人間として優れているとは思わない。どちらかというと、奏者としての方が才能を活かせている気はするし、吹いている時の方が、多幸感を感じる。もっと聴いてほしい、もっと上手く吹きたい、と次から次に欲求が生まれる。
「吹いている時、かな」
呟いていた。
満足そうに、コウキが頷いた。
「じゃあ、奏馬先輩は、楽団で吹きたいですか? ソリストとして、活躍したい?」
「それは勿論、楽団だ。俺は、合奏が好きだから」
合奏をもっと良いものにしたかった。だから、学生指導者になった。
「てことは、先輩が言った勝つっていうのは……オーディションで選ばれるとか、そういうことですかね?」
「……ああ、そうかも。いや、そうだな。そう、だと思う」
コウキが、ポケットからドライフルーツを取り出した。まこが、よく食べているやつだ。
「コウキ君も、それ、好きなのか?」
「昨日バレンタインでまこ先輩に貰ったんですよ。一粒どうですか?」
「ありがとう」
袋から一粒つまんで、口に放り込む。デーツという名前だった気がする。ねっとりとしているが穏やかな甘さで、ドライフルーツ特有の濃さがある。種が入っていて、それは、吐き出してティッシュに包んで捨てる。
「楽団で吹く奏者になりたい。そのためにオーディションで他の競争相手に負けず、採用されたい。これが、奏馬先輩の目標ですね」
「ああ」
「そこに、恋愛って邪魔なんですか?」
「そりゃ、そうだろ。だって、デートしたり恋人に気を使ったり……そんな時間があったら、練習した方が百倍良い」
ちょっと黙った後、コウキが、呟いた。
「音楽は心だと、俺は思うんです」
「……うん?」
「心が一番動くのって、恋愛だと思いませんか。今も、奏馬先輩は都先輩と岬先輩のことで、心が動いてる」
「何が、言いたい?」
「心が動く経験を重ねると、それは音楽にも活きると思います。音楽って、心を表現するものだと思うから。機械が演奏するわけじゃない。人間が演奏するんです。人間には、心がある。感情や気持ちを音に乗せて吹くから、聴く人の心に届く。心が豊かであればあるほど、音に乗る力も強くなる、と俺は思う」
黙って、コウキの言葉を聴き続ける。
「大好きな人との出会い、自分の気持ちを伝えたいと思った経験、綺麗な景色に心が震えたこと、卒業や転勤での大切な人との別れ……」
遠い目をしながら、コウキが言う。
「そういう色んな経験が、俺達の心を育ててくれる。そして、音楽を表現する時に、力になる。人生に無駄なことなんて、一つもないと思います。回り道や寄り道に見えても、後から見たら、それが自分の人生ややりたいことにとって、大きな支えになってたりする」
まるで、経験してきたかのような言い方だ、と奏馬は思った。ただ、不思議と説得力を感じる。
「奏馬先輩が、二人を好きじゃないなら、断ったことを悔やむ必要は無いと思う。だけど、もしどちらかを、あるいは二人ともを好きだと思うのなら、その気持ちを押し殺してでも音楽に向きあうべきだっていう考えは、逆に奏馬先輩の心を苦しめて、音楽も辛いものにする、と俺は思います」
はっとした。
「好きだって気持ちがあるなら、それを我慢しちゃいけない。何かを理由に我慢するようなことをして、後から後悔したら、それは、一生自分の中で引きずり続けます。もう大丈夫だと思っても、ふとした時にまた思い出して、どうしてあの時、って悔やむ事になる。奏馬先輩に、そういう後悔はしてほしくありません。自分の心に、素直になってください。音楽と恋愛は、両立できないものじゃないと俺は思います。もしそうだったら、音楽家達は、こどもを生んでないです。皆、素晴らしい音楽を生み出しながら、恋や愛に触れて、未来につなげてきてる」
何か、大きな経験を、コウキはしたのかもしれない。その表情からは、奏馬の知らないコウキの素顔が窺える。
「もう一度、聞いて良いですか? 都先輩と岬先輩のことを、好きじゃないんですか?」
奏馬は、ゆっくりと息を吸って、それから、静かに吐き出した。
コウキの話を聞くうちに、自分の中の気持ちには気がついた。ずっと蓋をしてきた感情だった。そういう対象ではないと思い込んで、音楽には不要な気持ちだと思い込んで、自分自身を騙してきた。
「……好きだ」
コウキが、笑った。
「どっちが?」
「……どっちも」
「そりゃ、大変だ」
また、コウキが笑った。今度は、少し大きな笑い声だった。
「他人事みたいに、笑うなよ」
「いや、俺も、経験ありますから」
「コウキ君も?」
「俺は、失敗しましたけどね」
それが、さっきの表情の理由、なのだろうか。聞いてほしくはない、という雰囲気を感じる。
「でも、良かった。奏馬先輩が、二人とも好きで」
「何で?」
「だって、三人には、幸せになってほしいから」
「……どっちか一人は、突き放さなきゃいけない。三人とも幸せになんて、なれないだろ」
「それは、三人でじっくり話し合ってください。都先輩と岬先輩なら、きっときちんと向き合うはずです」
「向き合うったってな。どうすれば良いか、分からない」
初めて、自分が恋愛に疎いのだと気がついた。誰とも付き合ってこなかったから、経験がない。あの二人に、どう接するのが正しいのか。どうすれば、傷つけないで済むのか。
「それは、都先輩も岬先輩も、分からないでしょ。分からないから、分かるまで、三人で向き合えば良いんじゃないですか?」
「助けてくれないのかよ」
肩をすくめて、コウキが苦笑した。
「俺だって、恋愛に強いわけじゃないですよ。こうやって話を聞くくらいしか出来ません」
結局、自分で考えるしかないのか。
「でも、ありがとう、コウキ君」
「うん?」
「少し、気持ちが楽になった」
「良かった」
「考えて、みるよ」
「はい」
太陽があと少しで中天に差し掛かろうとしている。授業の終わりを知らせるチャイムが鳴って、コウキが立ちあがった。
不思議な後輩だ、と奏馬は思った。




