九ノ六 「難しすぎる願い」
「や、コウキ君」
「月音さん」
授業が終わって、部室に来たところだった。先にコウキが来ていたようで、他の部員は見当たらない。三年生は、音楽室にいるようだ。
コウキの腕に、ラッピングされた箱がたくさん抱え込まれているのを見て、月音は指さして尋ねた。
「その手に持ってるのは、チョコレート?」
「あ……そうです」
「モテるねぇ」
「からかわないでくださいよ」
義理も含まれているのだろうとは思うけれど、ぱっと見でも五、六個は抱えている。部室に来るまでの間に、貰ったのだろうか。
「嬉しそうじゃないね?」
「いや……嬉しいけど」
「けど?」
「あんま、バレンタインデーって好きじゃなくて」
「なんで? チョコレート嫌いだっけ?」
「いや、本命のチョコを貰うのが申し訳なくて、です」
「ん……あー」
「こんなの、月音さんに言う話じゃないですけど」
「愚痴を言ってくれるのも嬉しいよ?」
「どうも……」
「でもまあ、そんなに貰うなら、やっぱりチョコレート用意しなくてよかった」
「え?」
「コウキ君は多分、沢山貰うんだろうなあと思って、チョコレートは用意しなかったんだ」
「あ、そうなんですか」
意外そうな顔をしている。
「残念?」
「いえ別に……じゃない、えっと……」
思わず、笑った。
「コウキ君は素直だね。そういうところも好きだけど」
「……またそうやって」
「私も素直だから、つい口から出ちゃうんだよね、気持ちが」
「はあ、どうも」
「気の無い返事だなぁ……まあいいや。そんなコウキ君には、はいこれ」
後ろ手に持っていたラッピングされた包みを差し出した。
「あれ、チョコはないんじゃ」
「チョコじゃないよーん。手塞がってるし、代わりに開けて良い?」
「え、はい」
リボンを解き、包みを開ける。中から、紺色の手袋を取り出した。
「じゃーん。私のプレゼントは、手袋です」
「……マジですか」
「コウキ君、真冬でも手袋してないんだもん。マフラーだけじゃ、寒くない?」
「いやぁ……寒いんですけど、吹奏楽関係のもの買いすぎて金欠で、耐えるしかなくて」
「そんなとこだと思ったよ。だからチョコじゃなくてこっちにした」
紺色の無地の手袋だ。コウキは紺色が好きらしく、マフラーもハンカチも紺色で統一しているから、手袋も合わせたほうがお洒落だろうと思って選んだ。
「でも、悪いですよ、そんなの」
「これは好意の証というよりは、感謝の気持ち。それに、トランペット吹くのに、手は大切にしなきゃ。寒さで指が回らないんじゃ、困るでしょ。朝練の時も、冬になってからコウキ君、手があったまるまで楽器吹けてないし」
月音は部に復帰してから、平日は朝練の開始時間よりも大分早く登校するようにしていた。毎回、コウキは先に来ていたけれど、毎朝、自転車通学で冷え切った両手を暖めることに苦労しているのには、気がついていた。
「だから、使って」
「……ありがとうございます。正直、チョコレートよりめっちゃ助かります」
「ん。大事に使ってくれると嬉しいな」
「勿論ですよ。ほんと、嬉しいです」
やっと、コウキが笑った。
何となく、コウキが冴えない表情をしている理由は、想像がつく。これだけの量のチョコレートを貰うのだ。中には、告白してくる子もいるに違いない。その気持ちを断るとなると、それなりの対応が必要になる。
好意を断るのに気力を使うのは、月音も知っている。ただチョコレートを貰うだけでなく、断るのにも気を使わなくてはならないとなると、コウキが落ち込んだ様子になるのも、無理はない。
そういう時に、さらに自分までチョコレートを贈るのは、コウキにとって負担にしかならないだろう、と月音は思った。
チョコレートをあげれば、コウキの好感度が上がるわけでもない。コウキがそんな単純な男の子ではないことは、この数ヶ月で思い知っている。不要なことをする気は、月音には無かった。
それで、少しでもコウキの役に立ちそうなものを選んだ。嬉しそうにしてくれているのを見ると、間違った選択ではなかったのだろう。
「それは純粋な感謝の気持ちだけど」
「うん?」
顔を近づけて、ささやいた。
「コウキ君を本当に好きだってことも、分かっておいてね。私、本気だから」
目を見開いて真っ赤になるコウキに笑いかけて、月音は部室を出た。
「すっごい量。全部で何個あんの」
机の上に置かれた鞄の中に、大量のチョコレートが入っている。授業が終わった時、チョコレートのせいで入りきらなくなるからと、コウキが教科書類を全て引き出しに詰め込んでいた。
おおげさな、とその時は思ったけれど、どうやらコウキの読みは正しかったらしい。
去年のこの時期は、コウキは引きこもっていたし、中学二年生までは関わりが無かったから、実際にどれくらいチョコレートを貰っているのかを智美が見るのは、初めてだった。
想像以上の量である。明らかな義理チョコと思わしき、お徳用的な個包装のチョコレートも含めると、ニ十個はある。華と洋子は、この状態になることを知っていたようで、苦笑している。
「それ、全部食べるの?」
「当たり前だろ。全部、気持ちを込めて用意してくれたものなんだから」
「食べ切れないなら誰かにあげれば良いじゃん」
「皆、俺に食べて欲しくて贈ってくれたんだ。それは悪いだろ」
「はあ、偉いねえ」
チョコレートを拒否はしないのかと帰り道で聞いたら、好意を断るのとチョコレートを断るのとは違う、とコウキは言った。
何日も前から、コウキのために悩んで用意してくれたものを拒否したら、その子は酷く傷つく。勇気を出して渡してくれたものなのに、そんなことは出来ない、という理屈らしい。
そういう優しさは智美も好きだ。けれど、それがコウキの弱さでもある、と思う。優しすぎる性格は、いずれ問題が起きるような気がする。
「でも、洋子ちゃんのフォンダンショコラより美味しいのは、絶対その中には無いですよ!」
「それは、言い過ぎだよ、華ちゃん」
恥ずかしそうに、洋子が言った。
「そんなことないよ! お店のって言われても気づかないくらい、美味しかったもん。ね、先輩?」
コウキが頷く。
今日は、コウキと洋子を一緒に過ごさせてあげたいという華の要望で、中村家で夕飯を共にすることになった。
洋子の両親は朝も就寝も早く、コウキと智美が帰り着く頃には、もう家にあがることが出来ない。玄関先でチョコレートを渡すだけなどという味気ないバレンタインデーは、頑張っている洋子がかわいそうだ、と華があれこれと気を回したらしい。
部外者が大勢いる食事よりも、二人きりの玄関先のほうが良かったのではないかと智美は思ったが、嬉しそうにしている洋子を見ると、華のでしゃばりも無駄ではなかったのかもしれない。
「確かに、洋子ちゃんのチョコは年々レベルが上がってるからな。今年のフォンダンショコラも、めっちゃ美味かった」
「ほんと? 良かったぁ」
「洋子ちゃん、お菓子作りのセンスあるよ。とろとろで、ふわふわで、私、フォンダンショコラがこんなに美味しいものだとは思わなかったもん」
洋子と華は、せっかく一緒に食事をするのだから食後に出せるものにしよう、と数日前から張り切っていた。
コウキがフォンダンショコラが好きだというのも理由らしい。出来立てが一番美味しいだけに、今まではバレンタインデーに渡す機会が無くて作ってこなかったそうだ。
智美の分まで用意してくれていたので食べたら、驚きの美味しさだった。甘さは舌でしっかり感じるくらいでありながら、くどくはなく、チョコの風味がふわりと口に広がる。洋子の母親直伝のレシピらしい。
洋子は菓子作りに慣れているわけではないだろうから、きっと何度も練習したのだろう。
「幸せもんだねぇ、コウキは」
「ほんとですよ。私が男だったら、絶対洋子ちゃんを先輩から奪いますっ」
「なんだそれ」
どっと笑い声があがった。
「だって、洋子ちゃんくらい良い子はいないですよ。ねえ?」
「ねえ、って私に言わないでよっ」
洋子の顔が真っ赤になっている。
実際、智美から見ても、洋子は魅力的だ。容姿は言うまでもなく、内面での魅力が溢れている。普通、自分の好きな人がこれだけ他の女の子から好意を寄せられているとなると、嫉妬の感情を少しは見せるはずだ。ところが、洋子は一切それがない。コウキの周りがどうであろうと構わない、という態度である。中学生でそこまで達観できる子は、そうはいないだろう。
智美は恋愛に夢中になった経験がないから、誰かを好きになることで起きる心の変化は、まだよく分からない。ただ、好きな人が他の誰かのところへ行ってしまうかもしれないとなれば、冷静ではいられないのが、自然なのではないか。
それを考えると、洋子とコウキの関係は、智美には計り知れない部分があるのかもしれない。
顔を突き合わせて、コウキ自身の恋愛について話をしたことはない。中学三年生の時に、少しだけ相談をされたくらいだ。
あれから、随分状況も変わっている。コウキは今、誰を好きなのか。
普段の様子からは、はっきりとは分からない。何となく、洋子に対しては他の子にはない特別な想いを抱いている気はするけれど、それが好意なのか、妹を見るような気持ちなのかは分からない。
華には、コウキの気持ちをつつくようなことは言うなと釘を差してある。他人から茶化されたり突かれると、頑なになるタイプだと星子が教えてくれたからだ。
結局、状況が動き出すのを待つしかないのだろう。下手に他人が二人をくっつけようとすれば、逆効果になりかねない。
今は、こうして二人が特別な時間を過ごせる場所を提供するくらいしか、智美が出来ることはない。
それに、洋子だけに肩入れする気にはなれない。勿論、洋子の恋は応援したい。けれど、幸や万里、月音の想いも、成就してほしいからだ。智美にとっては全員が大切な人だからこそ、誰か一人だけを応援出来ない。
想いが叶うのは、一人だけだ。
これからを想像して、智美はため息をついていた。願わくば、誰も傷つかない未来がやってきて欲しい。それが、あまりにも難しすぎる願いだとは分かっていても。




