九ノ五 「由紀と柚子」
「なあ、コウキ」
「ん?」
放課で、次の授業の教科書を用意していた。クラスメイトの林が隣に座ってくる。
「俺も彼女欲しいわ」
「作れば?」
「作れば、で出来たら苦労しないって」
林の視線は、ストーブの前にいる桃子と橋田に注がれている。あの二人は、文化祭で急速に仲が深まり、年明け前には交際を始めていた。
もともと桃子は奏馬が好きだったが、橋田の熱心なアプローチに魅かれたらしい。
コウキが見ていた感じでは、桃子の奏馬に対する想いは、純粋な好意というより、先輩への憧れという面が強かった気はする。
奏馬には都と岬という強力なライバルがいるし、橋田は良い奴だ。真剣に想いを寄せられたら、橋田に気持ちが傾くのは自然なことだろう。
「好きな人はいないの?」
「好きな人……可愛い子ならだれでも」
「アホだろ」
「何でだよ。可愛い方が良いじゃん」
「馬鹿じゃないの、林」
前に座っていた智美が、呆れたように言った。
「女子の前で平気でそういうこと言ってるから、彼女出来ないんだよ」
「二人して、アホだの馬鹿だの言うなよなぁ」
「うーん、でも智美の言う通りだと思うけど」
「何で!?」
「相手を、顔でしか判断しないってことじゃん」
これくらいの年齢だと、そういう価値観を持ちやすいとは思う。コウキ自身も、かつてはそういう人間だった。だが、いかにそれが愚かか、今はよく分かる。
「性格とか人としてどうかとか、そういう所も大事じゃん」
「そういうもんかぁ。可愛くて胸がある方が良いんだけど」
「最っ低」
鋭い視線を送られて、林が首をすくめている。
「そのくだらない理想をさっさと捨てな」
吐き捨てて、智美は離れていった。
「ちぇ……キツイの」
「アドバイスくれただけ、智美は優しいだろ」
普通なら、嫌悪されて終わりだ。
「あーあ、どうせお前は明日大量にチョコレート貰うんだろうなあ。羨ましいぜ」
明日は、バレンタインデーだ。
「分かんないだろ、そんなの」
「いや、分かるね。コウキに告白してきた奴らは、絶対諦めてないだろうから、くれるだろ?」
「さあ」
「俺、チョコ貰ったことねえんだよなあ」
「橋田も無いって言ってたぞ」
「あいつは前田から貰うだろ」
「まあな」
「俺も一度で良いから、何人もからチョコレート貰いたいわ」
林の呟きに、良いものじゃないぞ、と言いかけてやめた。コウキが言うと、嫌味になる。
この時間軸に来てから、チョコレートを多く貰うようになった。それは、普通なら嬉しいものだろう。
かつてはコウキも、大量にチョコレートを貰う男は、さぞ気分が良いのだろう、と思っていた。実際は、違う。辛いだけだ。
友情や義理で貰うチョコは、まだいい。
本当の想いを込めたチョコレートを貰った場合は、同時に、その想いに応えなくてはならない。チョコレートそのものを拒否するのは、言葉を介さずに、相手の想いを拒絶することになる。相手は言葉で断る時よりも生々しい拒絶を受けるのだから、大きく傷つく。
だから、チョコレートは一度は貰う。そこで想いを告げられたら、断るために話す。その時に、返して欲しいと言われたら、返す。まだ返せと言われたことは無いが、そういうつもりでいた。
断ると、泣く子もいれば、諦めた笑い方をする子もいたり、様々だ。だが、共通するのは、深い悲しみを感じるということだった。
当たり前だ。想いが通じないのに、良い気分であるわけがない。そうさせてしまっているのが自分なのだと思うと、やりきれない思いで満たされる。だから、バレンタインデーは憂鬱だ。
予鈴が鳴って、クラスメイトが席に着き始めた。
「次何だっけ?」
戻ってきた智美が、聞いてきた。
「数学」
「ありがと」
三学期になって席替えがあり、コウキの前の席は智美だった。智美とは縁があるのか、三回の席替えで、一度も離れなかった。二回目の時は教室の最前列になってしまったが、今回は、また窓際である。
クラスメイトは全員仲が良く、誰と誰が近くなっても遠くなっても、大きな問題は起きなかった。一年間、共に過ごすクラスメイトぐらいは、互いに気持ちよく過ごせる関係であってほしいから、そういう関係性が出来るように動いた。
コウキは、学校中の全ての人を、仲良くさせたいとまでは考えてはいない。誰にでも、合う人合わない人がいるからだ。ただ、せめてクラス内くらいは良い雰囲気にしていたかった。
いじめや仲違いなど、無意味だ。互いに分かり合おうとすれば、合わない部分はあったとしても、尊重しあえる。
智美がクラスにいてくれたことも、大きいだろう。コウキの考えに共感してくれていて、女子側にもそういう空気が生まれるように手伝ってくれた。
今、一年四組の空気は、穏やかで落ち着いたものだ。
このクラスも、あとひと月弱で終わる。毎年終業式が近づくと、何とも言えない気持ちが大きくなってくる。
この中の何人と、また同じクラスになれるのか。今のクラスメイトの中には、他人と接するのが苦手な子もいる。その子達が別のクラスになった後、浮いたりせずに、楽しく学校生活を送ってくれるのか。その心配がある。
気にかけていても、違うクラスになってしまえば目は行き届かなくなる。
学校全体でいじめを無くすのは、一生徒であるコウキには困難だ。少しでも減って欲しいと思いながら、どうにも出来ない現実があり、この時期はその想いが強くなってやるせない気分になる。
自分に出来るのは、一人でも多くの人と関わって、互いを尊重しあうという価値観を伝えることだけだ。その価値観を、他の子が良いと思うかどうかは分からない。ただ、伝えておくだけでも、ふとした時に、誰かの心の中で思い出されるかもしれない。
そうやって、小さくてもやっていくしかない。
教室の扉が開かれ、教師が入ってきた。
「起立」
橋田の声で、全員が立ち上がった。礼をして、座る。
教師の声を聞きながら、コウキは窓の外に目をやった。ストーブの熱を逃がさないよう閉め切られた窓の向こうには、冬の澄んだ空が広がっている。
ふと、今年はまだ雪が降っていないことを思い出した。
清水由紀は、以前まで吹奏楽が特別好きなわけではなかった。成り行きで続けているだけだった。
別に、珍しくはないだろう。運動部は嫌いで、文化部で目立って活動しているのは吹奏楽部くらい、となれば、それなりの部活動に入りたい文化部系の子は、吹奏楽部を選ぶ。由紀も、その口だった。
といっても、中学時代の吹奏楽部は、由紀が所属していた三年間で、一度も県大会には行かなかった。
別に、強く行きたいとも思っていなかった分、悔しさや悲しさはあまり感じはしなかった。
そもそも、本当はホルンが吹きたかったのだ。幼稚園の頃から仲の良い矢作柚子がホルンになったから、一緒に吹きたかった。なのに、チューバにさせられた。それも、今一つ熱中できない理由だった。
中学一年生の頃の由紀は、少し太っていた。楽器決めで、顧問からお前はチューバが合っていると言われて、配属された。初心者の由紀とチューバの相性など、分かるわけがないだろう。由紀には、体型で相性を決められたと感じられて、屈辱だった。
痩せて、ホルンにしてもらおうとした。一度決めた楽器は変えられない、と顧問は言った。
チューバが好きなわけではなかったから、部を辞めようとしたけれど、柚子に止められた。ずるずると残るうちに、結局、花田中央中では、三年間吹奏楽部を続けた。
花田高では、柚子と一緒に進学したのを機に、楽器を変えてもらおうと思った。けれど丘は、絶対にチューバを吹くべきだと言って、由紀にチューバを任せた。
他に経験者がいなかったというのも、理由かもしれない。
結局、またチューバだった。柚子がいたから、高校も辞めずに続けたようなものだ。練習は厳しく、気乗りはしなかったが、さぼるような芸当も出来ず、優良部員を演じていた。
そんな調子だったから、他の部員のように、コンクールに向けて真剣にやっていたわけではない。
本気で部に打ち込むようになったのは、東海大会の前くらいからだった。
入部してから、日が経つにつれて、部がどんどん一つにまとまっていった。同時に、音も変わっていった。自分の音がバンドの中に溶け込んで、気持ち良かった。
音楽が楽しい、と思うようになった。それで、真剣になっていた。
けれど、のめりこむのが遅かった。東海大会で代表に選ばれなかった時、初めてコンクールの結果に泣いた。もっと早く打ち込むようになっていたら。チューバを嫌々吹かずに真面目に吹いていたら。後悔が、胸に押し寄せてきた。
最後のコンクールとなってしまった太に、申し訳ないとも思った。
それからは、リーダー達が言うように、来年の全国大会出場を目標にしてきた。本気で、この部の一員として、動きたいと思った。
自分が、そんな気持ちになる日がくるとは、思いもよらなかった。ただ、今はチューバをもっと上手く吹きたいと思っている。迷惑をかけないようになりたい、とも。
四月からチューバは、由紀一人だ。太は卒業して、低音の核は由紀になる。つまり、責任ものしかかってくる。日に日に、その不安が大きくなっている。
今までは、太がいた。隣で堂々と吹き鳴らす太に音を合わせ、練習は太についていけば、安心していられた。太がいなくなったら、チューバは由紀が一番上になる。
コントラバスの勇一がいるから、低音パートのリーダーは彼に任せればいいだろう。けれど、チューバの後輩が入ってきたら、由紀が世話をしなくてはならない。
そういうことは、中学生の時も、同級生に任せてきた。自分が、人にものを教えられる気がしない。
低音の要になるのも、バンドの土台になるのも、自信がない。
「最近、ため息が多いね、由紀」
向かいあって弁当を食べていた柚子が、首を傾げて言った。
「悩み?」
まだ、他の人にこの悩みを打ち明けたことは無かった。
「チューバ、もうすぐ私一人になっちゃうのが、不安で」
「何が不安なの?」
「後輩の面倒を見れるかなあとか、私の音だけで支えられるかな、とか」
弁当箱の中の唐揚げをつつきながら、言った。冷凍の唐揚げは好きじゃないと何度も言ったのに、母親は頻繁にこれを弁当に詰め込む。そのうちに、諦めた。
「由紀はちゃんと音が鳴ってるから、大丈夫だと思うけど」
「チューバが一人の経験は、今まで無いから」
「んー、でも一人の期間なんて後輩が入ってくるまでの数週間じゃない?」
「そうだけど、後輩が入ったら入ったで、今度はその子達を見なきゃいけないし。初心者が入ってきたら教えられる気がしないし」
経験者が入ってきて、生意気な後輩だったらどうしよう、という不安もある。
「チューバって、男子も多いし」
男子は、苦手だった。中学一年生までは、体型をよくからかわれた。痩せた後は無くなったけれど、男子への苦手意識は続いている。
「そしたら、コウキ君を頼れば?」
「コウキ君とは、あんまり話したことないし……」
「何で? 嫌いなの?」
「そうじゃないけど、男子だし……」
「コウキ君は、大丈夫じゃない?」
「……うーん」
確かに、コウキは他の男子とは違うだろう。けれど、男子は男子に違いなくて、苦手なのは変わらない。
「コウキ君がダメなら、セクションリーダーの理絵先輩とかは?」
「あの人も怖いから、ちょっと無理」
「えー」
箸を振って、柚子が顔をしかめた。柚子は、武夫や奏馬とも平気で話している。そんなに男子が苦手ではないのだろう。
由紀が話せるのは、太だけだった。マスコットキャラクターのような安心感が、太にはある。勇一は、同じパートだから仕方なく話すだけだ。
「うーん。まー、すぐ慣れるんじゃない? まだどんな後輩が入ってくるか分かんないし、今悩んでも仕方ないよ」
「分かってる、けど」
「今は定期演奏会だよ! 頑張らなきゃ、曲も多いし、振り付けとかも覚えるの大変だし」
「うん」
柚子は、由紀よりも明るい性格をしている。由紀の本当の悩みは分からないだろう。
幼稚園の頃からの仲でも、二人の性格は違う。ずっと、柚子の明るさに由紀が隠れる、という形だった。
どうしようもない時に柚子が助けてくれた経験は、一度や二度ではない。だから本当に頼れるのは柚子だけだという気持ちはあるけれど、こういう時、柚子の明るさが少し嫌味に感じる。
「落ちこんだ顔してると、音にでるよ!」
「……うん」
無理やりに笑ったけれど、不細工な顔になっているかもしれない、と由紀は思った。
活動報告でもお知らせさせていただきましたが、五章五ノ十六までの修正作業のため、新話の更新頻度が遅くなっており、ご迷惑おかけします。
より面白い作品になるよう頑張りますので、ご理解いただけると嬉しいです。
せんこう




