九ノ序 「花田高校吹奏楽部」
席を埋める大勢の客が生み出す喧噪と、客の呼び出しに応じる店員の威勢の良い掛け声。ジョッキを打ち鳴らす、乾杯の音。
焼肉屋のこの雰囲気は、どうも苦手だ。肉は食べたい。食べたいが、本当は、もっと静かな店が良い。自分の金で来ているわけではないのだから、文句を言ったりはしないが。
「真二、座って待ってなさい」
背後からかかる母親の声を無視して、真二は壁のポスターを眺めつづけた。
「第二十三回、花田高等学校吹奏楽部、定期演奏会」
ポスターに大きく書かれたその文字を、口の中で呟く。
三月二十五日、十四時から。頭の中に叩き込んで、ポスターの下部に目を移した。演奏曲目が記されている。
『アルセナール』、『アルメニアンダンスパートⅠ』、『ルパン三世のテーマ』。どれも魅力的な曲だ。三部制と書かれているが、全部で何曲やるのだろうか。二部では、ミュージカルもやるらしい。
「真二、座りなさいって」
「分かったよ」
母親に応えて、隣に腰を下ろす。父親と弟が、ゲーム機で遊んでいる。
椅子に座っても、真二はポスターを見続けた。来月には入試があるが、日程は被っていないから、定期演奏会は観に行ける。
真二は、花田高を受験することにしていた。本当はもっと上の高校も狙えたし、安川高校や、隣町の北高校も視野に入っていた。というよりも、元々、夏まではそのどちらかを選ぶつもりでいた。
わざわざ花田高を選んだのは、あの吹奏楽部に入りたい、と思ったからだ。
夏の吹奏楽コンクールで、真二の所属していた花田中央中吹奏楽部は、地区大会金賞で終わった。ずっと県大会や東海大会を目指してきたのに、中学三年間で、一度もその目標は叶わなかった。
高校こそは、上の大会に行きたい。だから、吹奏楽が有名な安川高校か北高校の、どちらかに進学しようと思っていた。
どちらにするか、吹奏楽コンクールの東海大会の様子を見て決めようと思い、高校部門のチケットを買って、観に行った。実際に演奏を聴いて、眼中になかったはずの花田高の演奏が、真二の度肝を抜いた。
安川高校とも、北高校とも違う、心に迫ってくる演奏だった。
全国大会へ進んだのは、安川高校だった。けれど真二には、安川高校よりも、花田高の演奏の方が何倍も良いと感じた。
特に、自由曲のオーボエのソロは、聴いたこともないような次元の演奏だった。高校生で、あのレベルがいるのか、と思った。
全体的なレベルも高かった。安川高校や北高校のように、定員の五十五人ではなかった。四十人かそこらだっただろう。それでも迫ってくる音の圧力は、確かなものだった。
人数が、評価の基準にはなり得ない。ただ、もし花田高が定員の五十五人で出ていたら、どうなったのだろう、とは思った。
東海大会の後、真二の頭に残り続けたのは、安川高校でも北高校でもなく、花田高校の演奏だった。勉強のことを考えるのなら、安川高校に行くべきだとも思った。
悩んで、悩んで、悩み続けた。たどり着いた答えは、それでもあの吹奏楽部に入りたい、というものだった。
ずっと、トロンボーンを吹き続けてきた。小学四年生からだから、もう五年くらいだ。トロンボーンを、部活動で吹くのが好きだった。そして、一度で良いから、コンクールで良い結果を残したかった。残された吹奏楽コンクールに出られる回数は、高校の三年間しかない。
一応、大学や一般の吹奏楽コンクールもある。だが、真二にとっては、高校生までが本物という感覚がある。どうしても、あと三回のうちに、上の大会まで進みたい。そのためには、後悔するような選択だけはしたくなかった。
安川高校も、きっと上の大会へ行くだろう。だが、安川高校は部員数が多い。真二の技術力でコンクールメンバーに選ばれる可能性はあるのか、不安がある。それ以前に、安川高校ではマーチングもやっていて、そちらに回される可能性もある。もしそうなったら、吹奏楽コンクールに出ることは、無くなる。
ならば北高校へ行け、と母親には言われた。それも、微妙だった。北高校の吹奏楽部の顧問は、もう勤務歴が十五年を超えていて、毎年、時期になるとそろそろ異動するのではないかと噂される話も聞いていた。せっかく進学しても、顧問が異動したりしたら、北高校の吹奏楽部のレベルは、落ちるかもしれない。そうなったら、真二の夢は、潰える。
安川高校も、北高校も、不安要素が大きすぎた。
そして何より、花田高の、あの演奏だった。ああいう演奏を、自分もしてみたいと思ってしまった。
両親も担任も、反対してきた。だから、随分と時間をかけて説得をした。どうしても、真二は花田高に行きたかった。
きっと、花田高に行かなかったら、一生後悔する。そう思った。
「内藤さま、四名でお待ちの内藤さまー」
店員の呼ぶ声で、母親が立ち上がった。
「行くわよ」
真二も立ち上がり、家族の後に続いた。
三月二十五日、十四時から。頭の中のそれは、絶対に忘れない、と真二は思った。
中学三年生のこの時期の教室は、陰鬱としていて気が滅入る。受験に向けたストレスのせいだろう。ぶつぶつと呟きつつ、目をぎらつかせている男子や、勉強の愚痴を声高に言い募る女子が、教室内の雰囲気をますます悪化させる。
窓の外に目を向けて、真二はため息をついた。
「真二まで、嫌になるようなため息つかないでよ」
隣に座っていた金川心菜が言った。
「ついてないよ」
「ついたじゃん。もう、雰囲気が暗いよこのクラス」
「そりゃ、受験がもうすぐだからな」
「別に落ちたからって、人生が終わるわけじゃないのに」
「中三は、お前みたいに能天気な奴ばっかりじゃないの」
言ってから、しまった、と真二は思った。心菜の拳が、真二の頭を直撃した。鈍い衝撃に、涙目になる。
「そういうあんたは、勉強してんの」
「してるよ……余裕だけど、一応は」
「ふん、余裕だけど、なんて嫌味ですかぁ? 頭が良い真二君は、一応勉強するだけで合格できちゃうんですね~偉いですね~」
言い返したくなったが、何か言えば、また拳を喰らう予感がして、黙った。
「そんなに余裕なら、勉強教えてよ。どうせ同じ高校行くんだから」
「えぇ……」
「何」
睨まれて、真二は首を振った。
「良いけど、何を教えるんだよ」
「数学。苦手なんだよね」
「はあ……どこ?」
心菜が数学の問題集を開いて、真二の机に置いた。そのまま、身体を寄せてくる。心菜から、良い香りがした。
「近い」
「隣じゃないと見えないじゃん」
「見えるよ」
「もー、そんなのどうでも良いから、童貞! 早く教えて」
「てめっ」
「ほら、ここ」
血が昇りかけているのを必死に抑え、問題集に目を落とす。何か言えば、言い返される。手早く教えてしまって、やり過ごそう、と真二は思った。
示された箇所を、心菜に教えていく。なるべく理解しやすいように、言葉をかみ砕いて伝える。心菜は理解力はあるから、丁寧に教えれば、すぐに答えにたどり着く。勉強が嫌いなだけで、地の力はあるのだ。
ほんの少し解くための考え方を教えたら、心菜は問題集をすらすらと解き始めた。
「やっぱ真二に教わると分かりやすいわ」
「そうかよ」
「褒めてるんだよ」
「はいはい、どうも」
「照れちゃって」
「照れてねぇよ」
にやにやと笑う心菜を睨む。
分かったなら早く席に戻れ、と言おうとしたところで、心菜が、あ、と声を上げた。
「そういえば、真二って部活どうするの? 花田高でも吹部?」
「ああ、勿論、そうだけど。ってか、そのために花田を選ぶんだし」
「やっぱそうか~。あんたなら安川高校とか行くかと思ってたけどね」
「あそこは、部員数多すぎるよ。俺のレベルでついて行けるか分からない」
「ふーん、そういうもん」
「心菜は、どうすんの。入るの」
「どうしよっかなぁ。迷ってんだよね」
「何で?」
「そんながっつりやりたいわけじゃないしさぁ」
「もったいないじゃん。お前、結構トランペット上手いのに」
「上手いとか上手くないとかじゃ、ないんだよねぇ。上手くたって、県大会行けないし」
それは、そうだ。一人の奏者が上手くても、全体がばらばらなら、合奏としては下手になる。組織力が、吹奏楽には求められる。
「でも、丸井は入るんじゃなかったか?」
「千奈? うん、千奈は入るって言ってたかも」
「なら入ればいいじゃん」
「そうだねぇ。まあ、千奈が入ったら私も入るんだろうなあ」
「適当だなぁ」
「適当だよ。もともと吹奏楽がっつりやりたくて入部したわけじゃないし」
スピーカーから、五時間目の開始を告げる予鈴が鳴り響いた。心菜が自分の席に戻ろうと立ち上がる。
適当と言いながらも、部でファーストを任されていた心菜は、やはり才能はあるのだろう。やる気さえもっと出せば、トップだって担えるはずだ。
吹奏楽部の同期で花田高を目指しているのは、心菜と打楽器の丸井千奈と、親友でチューバの江上隆だけである。できれば、四人とも吹奏楽部でいたい。知っている人間がいる方が、心強いから。
すぐ手を出してくるのは苦手だが、心菜も、三年間共に吹いてきた仲間なのだ。受験も合格してほしいし、部に入って欲しい。
「何?」
心菜の顔を見ていたことに気づかれて、慌てて目を逸らした。
「別に何でも」
「変なの」
がら、と扉を開ける音がして、次の授業の教師が教室に入って来た。委員長の起立、の声がかかって、真二は立ち上がった。
タイトルがおかしくなってたので修正しました。




