番外十五 「特別な時間、特別な演奏」
合奏は普通、前に立つ人間だけがほとんど話していて、奏者はせいぜい返事をする程度だ。けれどコウキは、部員に質問を繰り返し、話すことを促した。
答えを教えるのではなく、問いかけてくる。何を考えて吹いたか、どう思ったか、どうすればさらに良くなるか。それに対して、部員が答える。答えた内容のようにやってみろ、とコウキが言う。
行き詰まると、ほんの少し、コウキが助言をする。その繰り返しで、音が変わっていく。
不思議な合奏だった。今まで経験したことがないような、自分達で合わせているという実感のある演奏だった。きっと、言われるがまま吹くのではなく、自分達で答えを探して進むというやり方が、そう感じさせたのだろう。
二時間もやっていたとは信じられない程に時間が早く進み、部員はもっと教えて欲しい、とコウキにねだった。けれど、コウキも忙しい。定刻に、コウキの指導は終わった。
その後、実習棟の裏の日当たりが良い場所で、華とコウキと、三人で昼食を食べていた。昼食を食べたら、コウキは花田高に戻って、練習に参加するのだという。本当なら、朝から部活動に参加していたはずだ。洋子が、どうしても来て欲しいと無理を言って、時間を作ってもらった。
華を見る。梅干しのおにぎりと、唐揚げと、沢庵。華の好きな弁当だ。けれど、ほとんど食べ進んでいない。
「食べないの、華ちゃん」
尋ねると、華は首を振った。
「元気、ない?」
「そんなこと、無いけど」
そう言いつつ、手を動かそうとしない。
自分の合奏とコウキの合奏との差に、落ち込んでいるのだろう、と洋子は思った。
雰囲気が、違い過ぎた。コウキの合奏は、和やかで、伸び伸びと出来るものだった。いつもの華の合奏は、ピリピリとして、ミスの許されない緊迫した空気が漂う。部員の反応で、どちらの方が好まれたかは、はっきりと見えた。
弁当を食べていたコウキが、不意に箸を置き、華の頭の上に手を置いた。びくりと、華の身体が揺れる。
「落ち込む必要はないよ。頑張ってる。華ちゃんは、頑張ってる」
その一言で、じわりと、華の目に涙が浮き上がる。やがてそれは、堰を切ったように流れ始めた。張りつめていた精神が、緩んだのかもしれない。
華の泣きじゃくる声が、洋子の胸を痛いほどに締め付けてくる。
華も、限界に達しかけていたのだ。ずっと、気がつけなかった。まだ、大丈夫だと思ってしまっていた。華も同じ中学二年生だとは思いながらも、どこかで、それでも華は強い、と思ってしまっていた。そんなわけが、無かった。
「我慢しなくて良い」
コウキの、優しい声色。まるで小さなこどものように、華は泣き声を上げ続けている。
華の涙も泣き声も、洋子達部員が、何もかもを華に押し付けたせいで出たものだ。たった一人に全てを託して、期待通りでなかったから批判した。部員がしたのは、そういう酷いことだった。それを止められなかった洋子も、同罪だった。
どれくらい、泣いていただろう。すすり泣き程になった時、華が口を開いた。
「泣いて、ごめんなさい」
「良いんだ」
「私が、皆の成長を、止めてた」
「それは違う」
「そうじゃないですか。先輩の言ったことは、全部正しかった。私が、皆の邪魔をしてた」
「華ちゃんの指導は、厳しかったかもしれない。でも、確実に皆の力を伸ばした部分もあるはずだ。そうでなかったら、きっと早い段階で皆は華ちゃんを見限ってた。今日、華ちゃんは気づいた。なら、変えていけばいい。変わらないものなんて無い。部員との関係も、今から変えていけばいい。仲間なんだ。向き合えば、きっと分かり合える」
擦り過ぎて、華の目元は真っ赤になっている。それに気がついて、洋子はハンカチを華に手渡した。
「自信を持って良い。皆、華ちゃんがリーダーに相応しいと思ってる。今は、すれ違いがあっただけだ」
「……はい」
華の頭をぽん、と叩き、コウキが弁当の包みを丁寧に元通りにした。
「行くの、コウキ君?」
「うん。練習に遅れる」
「見送るよ」
「私は、ここにいます」
「分かった。華ちゃん。いつでもメールしておいで。俺に出来ることは、協力するから」
こくん、と華が頷いた。二人で、来客用の下駄箱へ向かった。
「ありがとう、コウキ君。華ちゃんのことも、合奏のことも……忙しいのに、来てくれて」
「後輩が困ってるなら当然だ」
「本当は、私がどうにかしなきゃ行けなかったのに、何も出来なかった」
「そうやって、自分を責めちゃだめだ。洋子ちゃんも、華ちゃんも、普通の人には出来ない仕事を任されてる。最初は上手く出来なくて当然だよ」
コウキが、来客用のスリッパから自分のスニーカーに履き替える。
「華ちゃんは学ぶ力が強いから、きっとすぐ変わる。洋子ちゃんは、今まで通り、華ちゃんの傍にいてあげて」
「……うん」
もう、行ってしまう。引き留めたい気持ちが、湧き上がってくる。それを必死に押し込めようと、洋子は胸を抑えた。
「会えて、良かったよ、洋子ちゃん」
「……私も。でも、ゆっくりお話は出来なかったね」
「次は、年末だね。楽しみにしてる」
「うん」
「じゃあ、またね」
手を振りながら、コウキが玄関を出た。
「じゃあね」
小さな呟きは、コウキには届かなかったかもしれない。
リーダーとは、何だろう。部長とは、何だろう。
誰よりも強くあろうとした。恨まれてでも、部員を引っ張るのが責務だと思っていた。
それが、部長だと。
コウキの生徒合奏は、華のその想いを、見事に否定した。そんなことをしなくても部は変えられるのだと、指導で、コウキが伝えてきた気がした。
部員への合奏指導だった。実際は、コウキと華の一対一の指導だったのではないか、とすら思える。コウキの一言、一つの動作。全てが、華に向けられていた。
もっと、お前は上へ行ける、と言われた気もした。だとしたら。
「もう、泣くのは終わりだ」
呟いていた。手元の弁当は、全く減っていない。コウキが教えに来てくれる大切な日だと知って、母親が作ってくれた、華の大好物ばかりが入った弁当箱。かきこむようにして、それを食べ尽くした。食べて、立ち上がった。
泣くのは、一度だけで良い。変わらなくてはならない。全国大会へ、皆を連れて行くと決めたのだ。止まっている暇はない。今すぐに、始めなくてはいけない。
小走りで、洋子が戻ってきた。コウキは、帰ったのだろう。軽く息を弾ませた洋子が、首を傾げる。
「すっきりした顔してるね、華ちゃん」
「心配かけて、ごめん。もう大丈夫」
「そっか」
洋子がちょっと笑った。
「ありがとう、洋子ちゃん。私、今日先輩の指導を見れて、良かった。私、変わるから。ちゃんと、変わってみせるから」
「私も、手伝う。華ちゃんのために、何もしてあげられてなかった。私も、頑張る」
頷く。
どちらからともなく、笑いあっていた。
それからの日々は、コウキに教わったことを、自分なりに噛みしめる日々が続いた。
染みついている今までの厳しい指導の仕方は、簡単には消えない。上手くいかない時、前の指導方法が、顔を出しそうになることが何度もあった。その度に、コウキの教えを思い出し、根気よく言葉を選び続けた。
仲間と一緒に追求する。共に、考える。繰り返し、それを実践した。
山田とも、語り合う日々が続いた。コウキの指導を直接見ていなかった山田にも、知って欲しいと思ったからだ。 話を聞いて、山田がどう感じているかは、分からない。華の伝え方で、コウキの話した全てが伝わるとも思っていない。少しでも、感じるものがあれば良い。
何もかも、手探り。けれど、それで良かった。
駄目なら、変えれば良い。変わらないものなんてない。仲間とも、分かり合える。
その言葉は、胸に刻まれている。
今まで以上に、部員と話すようにもした。部長になってから、孤高の存在になりすぎていた。部員を指導し、引っ張り上げる立場だという意識から、距離が空いてしまっていた。
そうではなかったのだ。共に進む仲間なのに、意思の疎通が図れなくなったら、上手くいかなくて当然だった。
部会も立ち上げ、部長と副部長とパートリーダーでの会議も始めた。運営方法について、部員の意見も聞こうと思ったのだ。
華は、コウキではない。コウキのように、まだ上手く部員を導けない。だから、一緒に歩く。一緒に上を目指す。それが華なりの、皆を上へ連れて行くための方法だった。
時間は瞬く間に過ぎ、年が明け、冬休みも終わって三学期となっていた。
一月の凍てつく寒さの中でも、朝練は続けた。部員の出席率は、九割を超えている。今の自分達に不足しているものが基礎力であると、誰もが理解し始めたからだろう。
基礎力をつけるためには、もっと、互いに音を合わせる意識が必要であることも、感じ始めている。個人練習では身につかない、互いの音を知り、合わせる力。それを、生徒合奏で追求する。
全国大会出場という大きな目標と、基礎力をつけるという目の前の目標。その二つが明確になり、東中の練習の質は、一段上になっている。
「やれる」
手の中のトランペットを見つめながら、呟く。
「私達なら、やれる」
「うん」
隣の真紀が、頷いた。トロンボーンの一年生が。ホルンの同期が。金管八重奏の皆が、頷く。
愛知県アンサンブルコンテスト県大会。年末のアンサンブルコンテストの地区大会では、華の率いる金管八重奏だけが、県大会へ通った。
舞台裏で、自分達の出番を待ち構えていた。反響板の隙間から漏れる、筋状の光。監視モニターの明かり。自分の鼓動に、仲間の動く衣擦れの音。楽器に、息を吹き込む音。
自分が今いる空間が、時間が、はっきりと感じられる。
今、この八人は、特別な場所にいる。
「いつも通りじゃなくて良い。この時間を、楽しもう」
八人で決めたことだった。
本番は特別な時間だ。それを、いつも通りでいようとするのは、違うと思った。特別な時間は、特別な演奏にすれば良い。緊張も、不安も、全部受け入れて、ありのまま、自分達の出来る演奏をすれば良い。
やれるだけのものは積み上げてきた。あとは表現するだけだ。
客席から、拍手が鳴り響く。前の出演団体の演奏が終わった。
やがて、反響板の扉が開いた。
「入ってください」
係員の指示で、舞台へと抜ける。照明が、眩しさと熱を、華の身体に感じさせた。観客の息遣いや話し声が聞こえる。
地区大会の時よりも、広いホールだ。聴衆も多い。真ん中より少し後方の位置には、審査員が座っている。
聴いてもらえば良い。自分達は、互いを信じて、音楽を作るだけだ。
セッティングが終わり、反響板が閉まる。アナウンスが入り、会場がしんと静まった。
他の七人と、目を合わせる。目だけで、全員が準備が完了したことを伝えてくる。
華は、楽器を構えた。
アンサンブルに、指揮者はいない。息遣い、アイコンタクト、互いの体内のテンポ感、音楽性。それら全てを駆使して、指揮もメトロノームも無しで、音楽を作り上げるのだ。
今のこの八人なら、出来る。華には確信があった。
トランペットを、振る。その合図で、八本の楽器から、切り裂くような音が飛び出した。
会場を突き抜けたそれは、聴衆の耳に、どう届いたのか。
華は、ただ、吹いた。自分を、仲間を、信じて。
結果は、審査員が決めることだ。
自分達は、自分達の奏でたい演奏をするだけで良い。
音が、ホールに満ちた。




