番外十四 「互いを信頼する」
設置されている大型のストーブのおかげで、音楽室全体に暖気が回り、廊下や外ほど、寒くない。
冬は、寒さのせいで楽器が冷たくなり、音程が下がったり音色が暗くなったりする。身体も固くなるため、上手く動かなかったりと、吹奏楽部員にとって寒さは天敵だ。
四十人近くの人間が一室にいても、これだけ広いと身体から発せられる熱だけでは室内は暖まらない。暖房の有る無しは、冬の吹奏楽部にとって最重要な問題である。
集まった部員達は、合奏の形に並べられた各自の席に座って、音出しをしていた。
誰もが、いつになくそわそわしている。冬なのに音もどこか上ずったような調子で、この後に始まる合奏を意識しているのだということが、洋子には分かった。
打楽器パートの位置からは、部員の様子が見渡せる。
普段は勝気な様子のクラリネットのかなが、盛んに手鏡を見ては前髪を整えている。華の隣に座る真紀も、トランペットを吹いては構えを解き、音楽室の扉に目を向け、時計に目を向け、またトランペットを吹いている。
普段の皆の様子との違いに、洋子はくすりと笑みを浮かべた。部内にはコウキのファンクラブに入っている子も多く、本人が来るとあっては、いつもと様子が変わるのも当たり前かもしれない。
約束の時間まで、あと十分ほどだ。
「うう、緊張してきた」
隣でマリンバを叩いていた優也が、腹を抑えながら言った。
「コウキ先輩の指導なんて、俺、耐えられるかなあ」
「コウキ君は、優しいよ。緊張しなくて大丈夫」
「いやいや、あのコウキ先輩ですよ? 無理ですって、緊張しないなんて」
音出しの音で満ちているため、話す声も大きめになる。こういう時なら、洋子も少しは大きな声を出すのが平気だった。
「私は、楽しみだけど」
「げええ、楽しみって、洋子先輩、凄いっす……」
舌を出して、優也が座った。
部内に、コウキの全体指導を受けた経験のある部員は、一人もいない。個別に練習を見てもらった部員なら何人かいるだろうけれど、コウキは東中での現役時代、積極的に前に出るようなことはしていなかった。洋子も、コウキがどういう生徒合奏をするのかについては、全くその様子を知らない。
ただ、個別での教え方は分かりやすい、と評判だった。
怒るような指導をしているところも観たことがないし、合奏でもそれは変わらない気がする。なのに部員が緊張しているのは、コウキという特別な存在が、自分達のために来てくれるのだから下手は出来ない、と思ってしまうからなのかもしれない。
しばらくして、音楽室の扉が開き、山田とコウキが入室してきた。ぴたりと音が止み、華の号令で全員が立ち上がる。
「おはようございます!」
一斉の挨拶に、コウキがへらっと笑った。
「久しぶりー」
手を振るコウキに、女子部員が悩ましげな声を上げた。ざわつきが大きくなる。
山田の咳払いで、再び静まった。
「今日は、部長と副部長たっての願いで、卒業生の三木に生徒合奏の指導に来てもらった。皆知ってると思うが、三木は花田高校でトランペットを吹いていて、学生指導者も務めている。忙しい中わざわざ来てくれたのだから、しっかり学べよ」
「ははは、先生、そんな紹介されると皆が緊張するじゃないですか」
「お前は、軽すぎる。じゃあ、頼んだぞ」
「はい。終わったら、伺います」
「ああ、音楽教諭室にいる」
「ありがとうございます」
山田が音楽室を出て行くと、コウキが手を軽く叩き、指揮台の横に移動した。
「じゃあ、改めて。卒業生の三木コウキです。今日は呼んでくれてありがとう。合同バンドの練習で顔を合わせてる子もいるけど、久しぶりの子も多いね。元気だった?」
「はい、元気でした!」
最前列に座るかなが、手を挙げて言った。コウキが笑って、頷く。
「かなちゃんが元気なのは、最初の挨拶で気づいてたから。めっちゃ声聞こえたし」
どっ、と部員の笑い声があがる。部員の固い表情が、少しだけほぐれた。コウキらしい始め方だ。一対一で練習する時も、決して相手が緊張しないような練習を心がけている、と以前言っていたことがある。それは、全体を見る時でも、同じなのだろう。
「さて。早速合奏に入ろうと思うけど、その前に、皆に合奏をする時に大切にしてほしいことを話す」
何人かが、首を傾げた。
「かなちゃん」
「は、はいっ」
「合奏をする時、いつもかなちゃんは何を気をつけてる?」
「え? えっと、皆と合わせよう、とか」
「うん、良いね。他には?」
「間違えないようにしよう、とか」
「なるほどね。じゃあ……真紀ちゃんは?」
「は、はひっ。わわわたしですか。なんだろ。えっと、華の音を聴いてます!」
「なるほど。音を合わせるために?」
「はい!」
「トップは、華ちゃんだよね?」
「そうです」
「真紀ちゃんも、ファースト?」
「は、はいっ」
「そっか、頑張ったね」
コウキの言葉に、真紀の顔が真っ赤になった。真紀は、ファンクラブの会員だったはずだ。
隣に座っている華が、苦笑している。
「じゃあ、他……君、優也君、だよね」
「は、はい! そうです!」
「優也君は、何を気をつけてる?」
「お、俺いや僕は」
「俺で良いよ」
「はひっ。俺は、テンポを守ることを意識してます!」
うん、とコウキが頷いて、それからにっこりと笑った。
「皆、良いね。ちゃんと考えてる。その自分が考えていることは、これからも大事にしてほしい。どれも、重要だからね。でも、他にも気持ちを向けて欲しいことがある。心構え的なね」
何だろう。
「それは、互いを信頼することだ」
「互いを」
洋子は、口の中で呟いていた。
「例えばさ、自分で自分を駄目な奴だ、下手くそだ、足手まといだ、と思ってたら、どうなる? 多分、迷惑をかけないようにしようって緊張して、身体は硬くなるし、音も悪くなって、でも何とか合わせようと苦しい思いをして吹くことになると思う。そういう経験がある子は、いる?」
かなりの人数、手が挙がった。この子が、と思うような子も手を挙げていて、洋子は驚いた。
「ありがとう。じゃあ例えば、隣で吹いてる子に対して、こいつは下手だ、足手まといだ、音を乱してる、って思いながら吹いてたらどうなる? それは、自分とその子の音が合わなくなったり、合わないことにイライラしたり、その子が嫌いになったりすると思う。これは手を挙げなくても良いけど、心当たりがある子は、いると思う」
何人かが、目を伏せた。
「責めてるわけじゃない。誰にでも、経験のあることだ」
コウキが、笑って手を振った。
「最後にもう一つ。前に立つ人を嫌っていたら、どうなるかな」
どきりとした。
「多分、その人がどんなに正しくても、素直に聞けないんじゃないか? そうなったら、そもそも合奏してる意味がなくなるよな。前に立つ人の指示で合わせようとしてるのに、その人の指示が聞けないんだからね」
コウキが言っているのは、華と部員の関係だろう、と洋子は思った。
「自分がいて、一緒に吹く仲間がいて、そして前に立つ人がいる。合奏は、全員で音楽を奏でるってことだから、互いを、また自分をも信頼していないと、上手くいかないんだ。皆、一緒に奏でる仲間なんだ。仲間を信頼出来てなかったら、良い音になるはずがない」
今まさに、東中はその状態だ。部員同士がかみ合わず、不協和音のように嫌な空気が流れている。華の指示が、部員の心に染みこまない。
「じゃあ、何で信頼すべき仲間を悪く思ってしまうのか? それは、バンドの中にいる自分が、奏者ではなくいじわるな聴衆になっているからだ、と俺は思う。つまり、本来は一緒に音楽を作る仲間なのに、相手の音を審査員のように評価する人間になってしまっている。仲間の音に価値をつけようとしてる。だから、上手くいかないんじゃないかな」
思わず、洋子は頷いていた。
「俺達奏者の仕事は、仲間を評価することじゃない。一緒に、音楽を作ることだ」
一度言葉を切って、コウキが全体を見回した。洋子も目が合った。
「皆の音を聴いて、それに対して意見を言うのは、前に立つ人の仕事だよ。東中なら、先生や華ちゃんだな。皆は演奏に集中して、前に立つ人が助言をする。それを受けて、奏者はさらに良くしていく。合奏練習っていうのは、そういうものなんだ。だけど」
コウキが、華を見る。
「前に立つ人も、いじわるな聴衆になっちゃいけない。例えば……ごめん、例えてばっかだね」
くすくすと、部員が笑った。
「前に立つ人が、誰々さん音が汚いよ、もっと綺麗に吹いて! って言ったら、言われた人はどう思う? きっと、自分は汚いんだ、でも、そこまで言わなくて良いのにって思っちゃわないかな。皆ズレてるよ、もっと集中して! って言ったら、皆は集中してるのにって思っちゃう」
頷きがあちこちで起こり、華が、目を伏せた。けれど、すぐに顔をあげ、コウキを見据えた。華は、コウキの言葉を、部員の態度を、受け止めようとしている。
「確かに、もっと演奏を良くしたくて、悪い所を直しなさい、って言いたくなる。でも、それは、奏者を否定してるんだ。それって、言われたほうは全然気持ちよくないと思う」
山田も、そういう指導をする。顧問だから生徒は従うけれど、時折不満は耳にする。
「音楽を学ぶ人が陥りやすい、仕方ない部分でもある。良い所よりも悪い所を見て、もっとこうすべきって思うのは、人間がやってしまいがちなことだ。皆も個人練習で経験があると思う。自分はまだまだだ、もっとこうしなくてはいけない、って。でもそういう練習の仕方って、苦しいだけだと思わないか?」
洋子にも、経験はある。
「また例えだけど、出した音が割れたようだったとする。それは、悪くとらえると汚い音と言えるかもしれないけど、見方を変えると、大きな音を出そうとした、とも言える。なら、大きな音を出すっていう良い仕事は出来てるんだ。その良い部分を活かしたまま、音を豊かに響かせるにはどう吹けば良いだろう、って考えれば良い。音が割れてるから綺麗に吹け、ではなく大きな音が出せてるから、そのまま豊かに響かせようと意識して、って言ってみる。伝え方を変えてみるだけで、奏者の演奏は、ガラッと変わることもある」
コウキは、一人でずっと話し続けているのに、吸い込まれるようだ。他の部員も、そうなのだろう。前のめりになって聞いている部員もいる。
「奏者が前に立つ人を信じるのと同時に、前に立つ人も奏者を信じて、一緒に音を作っていくんだ。どんな演奏にも、良い所はある。極論、音を出しただけでも、音が出せたっていう良い結果がある。良い結果があるなら、それをさらに伸ばせば良い。悪い所を見てそれを改善しようとする練習より、ずっと心に優しいと思う。音楽は、心がとても大きく影響するから、どういう考えで練習をするかで、練習の質はうんと変わる。皆には、これを意識してみて欲しい」
自分を、互いを信頼すること。聴衆にならず、一緒に吹く仲間であろうとすること。前に立つ人とも信頼し合うこと。否定ではなく、良い所を見ること。
コウキの教えは、どれも、頷けるものだった。
「それじゃあ、早速ちょっと音出してみようか。音階をやろう」
「はい!」
部員の雰囲気が、変わったような気がする。良い音が出そうだ、と洋子は思った。




