番外十二 「顧問のおしごと」
「山田先生」
華の呼びかけに、山田がはっとした。
「私達の目標、決まりました。全国大会出場です。私達、本気です。お願いします、先生」
曖昧に頷いて、山田が前に来る。洋子と華は、下がって自分の席に座った。指揮台に腰を下ろした山田を見る。譜面台に目を落として、黙っている。
「先生?」
部員の呼びかけに、また、山田がはっとした。
「あ、ああ、すまない」
部員を見回している。それから、口を開いた。
「お前達の気持ちは分かった。良い、目標だと思う。ただ……全国大会出場が、どれだけ厳しい道のりか、分かっているか?」
「分かってます」
華が即答した。
「本当に、そうか? 今の練習量で、行けると思うか? 楽譜が配られてもすぐに吹けるようにならない状態で、もっと細部を良くすることができるか? それだけの時間があるか? 気持ちだけで行ける程、全国は甘くないぞ」
山田の言葉に、部員達の顔が曇る。心の底の不安を突かれ、消えたはずの迷いがまた出始めている、と洋子は思った。顧問の言葉は、重い。簡単に、部員の心を変えてしまう。
視界の隅で、華が立ち上がったのが見えた。目を向けると、華の目は、輝いていた。
「今の練習量で行けないなら、もっと増やします。すぐに吹けないのが駄目なら、吹けるようにしてみせます。出来ないことは、全部言ってください。私が、皆を出来るようにします」
山田がたじろいでいる。
「指揮者の山田先生にしか、気づけない部分があると思います。どんどん、教えてください。私達は、それを出来るようにします。出来ないことが一つも無くなれば、きっと上に行けます。ですよね?」
「……あ、あ。そう、だな」
「なら、やってみせます」
「だけどな……お前達は、来年は受験生だぞ? コンクールに集中し続けることが、出来るのか? 全国に行くとしたら、十月まで練習があって、その後すぐ文化祭もある。勉強の時間が、無くなるぞ」
「なら、もっと効率のいい勉強方法を、合同バンドの高校生に教えてもらいます。それで、音楽のことだけじゃなく、勉強も部で出来るようにします。私達、全国を目指す以上、半端なことはしたくありません。先生にも、私達を信じて欲しいです」
華のまっすぐな目とその言葉に圧されたのか、それ以上、山田が何かを言い募ることは無かった。
その日の部活動が終わって、洋子は華と帰っていた。曇り空で、いつもより気温が低い。さすがに十一月ともなれば、寒い日も出てくる。ウインドブレーカーを着れば楽なのだとは思うけれど、どうしてもあのデザインが嫌で、洋子は着る気になれない。
暖かそうな様子の華を見ると、羨ましくなる。
「今日のミーティング、うまく話せたかな」
「うん。ばっちりだったと思う。私は、華ちゃんについて行こう、って思えた」
「そう?」
「山田先生が言ってた話だけど…‥きっとね、山田先生は私達に、全国大会出場なんて目標は無理だって思わせようとしたんだと思う。実際、あのまま山田先生に不安なことを言われ続けたら、皆、諦めたかも。でも、華ちゃんが山田先生に向かってくれたから、あ、大丈夫だ、って思えたよ」
華が、恥ずかしそうに頬をかいた。
「華ちゃんが自信満々で言ってくれたから、私は、不安も消えた。きっと皆もそうだと思う」
「それなら、良かった」
実際、華の言葉と姿は、部員の気持ちを動かしたはずだ。
具体的に、今後どういう練習を組み立てていくのかは山田と相談していかなくてはならないけれど、どんな練習になったとしても、きっと部員はついてきてくれるだろう。
「私は、ほんとのほんとに、本気だからね。不安要素なんて、解決しちゃえば良いんだもん。私はそうやって上手くなってきたから」
「華ちゃんが言うと、説得力がある」
「でも……もしかしたらこれから、脱落しそうになる子もいるかも」
暗い足元に目を落としながら、華が言った。
「私は、そういうの、見落としちゃうかも。だから、洋子ちゃんにお願い。そういう子がいたら、教えて欲しい。一緒に、助けよう?」
「……うん。多分、私に出来るのはそれくらいだから、頑張る」
華が、手を握ってきた。華は、手を繋ぐのが好きらしい。最近は、その回数が増えていた。洋子も、華となら嫌ではない。ひんやりとしてやわらかい華の手は、好きだ。
しばらく、二人で手を絡めたまま、歩いた。
全国大会出場という目標を掲げるようになって、東中の練習風景は変わった。直近の本番であるアンサンブルコンテストに向けての練習は、各アンサンブル毎に熱が入り、華の生徒合奏もそれまでより厳しくなった。
山田の説得は、華と洋子が毎日のように続けていた。部内で目標に対して迷いを感じているのは、山田だけだ。ミーティングの時のように口にはしなくなったものの、指揮者であり顧問である山田の迷いは、部員に伝わる。
山田をその気にさせられるかどうかが、鍵となっていた。
華は、それまで絶対に欠かさなかった自主練習の時間を削って、部員の練習を見るようになっている。朝練の時間も早め、部員が出席してくれるよう働きかけることも、洋子と分担して行っていた。
平日の夕練は、最終下校時刻が決まっていて長く練習は出来ない。練習量を増やすなら、朝練を増やすしか方法がない。部員も、それは分かっている。ただ、いきなり早まった時間についてこられる部員は、多くは無かった。
一人一人に、朝練の重要性を華は説いている。洋子も、自分なりの言葉で伝え続けた。
全員出席。最初の目標は、そこだった。
華と話していて気がついたことがある。朝練は、山田はほとんど顔を出さない。つまり、生徒中心での練習となる。華が思うような練習が、可能ということだ。
山田の負担を増やす必要がなく、華が部員を見られるというのも、華が朝練の全員出席を目指す理由の一つだった。
確実に、部は変わりつつある。
トランペットの真紀やクラリネットのかなを中心とした、パートリーダ達の協力も大きいだろう。
三年生がいた頃より、部は活気が増している。
山田だけだ。山田さえその気になってくれたら、部は、きっともっと良くなる。
自分に、華と同じくらいの話術があれば、と話す度に思うものの、やはり、華のように山田に物怖じせず話しかけることは出来ない。
そばにいるとはいえ、実質華に頼り切っている自分が、情けなかった。
「洋子、集中力切れてるぞ」
基礎打ちの最中だった。隣でスティックを操る史の言葉に、慌てて首を振った。
「ごめん、気を付けるね」
メトロノームに合わせて、打楽器パートの五人で、スティックを叩く。タイミングや音量を、きっちり揃えるように意識する。
正確に叩く技術は、打楽器パートにとって重要だ。バンドの勢いやリズム感を守る存在だからこそ、気を抜いてはいけない。
どんどんテンポを上げていく。どのテンポでも、正確に叩く。身体に染みつくまで、繰り返す。
「次は、メトロノーム無しで」
史がメトロノームを止める。洋子の合図で、先ほどと同じ遅いテンポから基礎打ちをした。
メトロノームが無くても、全員のテンポ感や叩き方が揃えられるようになるべく、新たに始めた練習だ。実際の合奏では、メトロノームは無い。全員の体内のテンポ感が合っていなければ、曲のリズム感を守るのは指揮者の山田頼りになってしまう。それでは、打楽器パートとして足を引っ張る原因になる。
だから、コウキに教わった腕時計を使ってテンポ感を身に着ける方法も、四人に教えた。
時計の針は、一分間に六十回動く。つまりテンポ六十ということで、それが頭の中に叩き込んであれば、倍にするとテンポ百二十、三倍でテンポ百八十、それを半分にするとテンポ九十、というように、実際の曲で使う大体のテンポに合わせやすくなる。
打楽器パート全員がこれを身に着けて、メトロノーム無しでも合わせられるようになれば、バンドの演奏の安定感はぐっと増すはずだ。
本当に効果が出るかは、分からない。自分なりに考えだした練習方法だったけれど、同期の文と史も、賛成してくれている。
やるだけは、やってみる。駄目だったら、変えれば良い。
華が本気で部を変えようとしている。せめて自分のパートくらいは、華に負担をかけないようにしたい。
「じゃあ、アンサンブルの練習に移ろっか」
「はい!」
四人の返事を受けて、洋子は頷いた。
部内でどのアンサンブルがコンテストに出場するかのオーディションは、もうすぐだ。できれば、打楽器五重奏で出たい。
だから、洋子も真剣だった。他の四人も、本気である。
十二月になって、二回目の合同バンドの練習日だった。前回同様、安川高校の鬼頭の指導で練習は進められた。
東中からは、全部員の半数の二十人ほどが参加している。参加率としては、悪くないだろう。強豪校と共に吹く経験は、生徒にとっても大切だ。
その日の晩、山田は鬼頭と丘に頼み込んで、食事の席を設けた。
「山田先生からのお誘いとあれば、断れませんよ」
笑顔で丘が言った。丘はこどもが生まれたばかりで無理かもしれないと思ったが、快く来てくれた。
鬼頭は、すでに酒を飲みだしている。
安い居酒屋で、酔った客で店内は賑わっていた。
「それで、お話とは?」
「実は、つい最近うちの部は新体制になりまして」
「三年が引退したんでしたね」
「はい。それで新しい部長と副部長が、これがやる気に満ちた子達で」
「ほう、良いですね」
「ところが、部に目標を作ろうと言い出したんです。最初は、私も良いと思ったので許可したんですが、その目標が、全国大会出場、となりまして……」
せいぜい部訓を変えるとか、その程度だろうと思っていた。そこまで大げさな目標を生徒が立てるとは、予想もしていなかった。
「良いですね」
また丘が言った。
「いやいやいや、私があの子達を全国大会に連れて行くなんて、無理ですよ」
「何故です?」
「一度も、東中を県大会に連れて行ったことも無いような男ですよ、私は」
丘は、山田より年下なのに落ち着いた挙措をしていて、つい、敬語になってしまう。確か、三十前半か中盤くらいだったはずだ。山田は、四十を半分超えている。
鬼頭は、六十五歳を過ぎた吹奏楽界の重鎮のような人だから、当然敬語で接していた。今日の席も、誘っても来てくれないとは思ったが、駄目元で頼んだら、来てくれた。いざ向かい合うと、やはり迫力があり、委縮してしまう。
「だからこれからも無理ということにはならないと思いますよ、山田先生」
「ですが」
「怖気づいてるんだな、山田先生は」
鬼頭が言った。
「私が、ですか」
「そうだ。自信が無いんだろう。だから、無理だと思い込んでる」
「で、ですが、私は本当に」
「でも、だって、ですが。そんな弱気では、本当に無理だろうね」
言葉に詰まった。鬼頭が、酒を呷る。
「こどもが本気になったのなら、山田先生も本気になるしかないですよ」
「しかし、どうやって全国を目指せば良いのか、想像もつきませんよ、丘先生。学生時代だって、私は県大会くらいまでしか行ったことがない」
「生徒はね、山田先生」
酒のグラスを勢いよくテーブルに叩きつけて、鬼頭が言った。
「自分達でやると決めたら、本当にやる。私達に出来ることは、全国大会に連れて行くことじゃない。そんなのは、私達にどうにかできる問題じゃない。他の学校が私達より上手ければ、そっちが行ってしまうんだからな。そうじゃなくて、私達は、生徒が奏でられる最高の音楽表現を、用意してやるだけだ」
鬼頭の言葉に、丘が頷いている。
「本気の生徒と、その子達が奏でる最高の音楽。それがあれば、自然と全国大会という結果がついてくる。狙って行けるものじゃない」
「私も、そう思います」
「丘先生」
「今、うちの子達も、来年こそは本気で全国大会に出場したいと考えています。だから、私もそれに応えようとしている。けれど、実際に行けるかは、分かりません。私に出来るのは、あの子達にひたすら要求し続けることだけです」
「要求、し続ける」
「はい。上を目指すあの子達に、もっと上があるぞ、と教えてあげるだけです」
「そうだ」
短く言って、鬼頭がまた酒を呷った。もう、何杯目だろうか。丘は、まだ一杯目を飲んでいる。
「そもそも、私達顧問がどれだけ全国大会を目指そうとしたって、生徒が行きたいと思わなければ、絶対に無理だ。全国のバンドの顧問の多くは、どうやって自分の生徒にやる気を出させればいいのかと、その段階でつまづいている。その点、東中は生徒自ら全国に行きたいと言い出したのだろう? 幸運だよ、それは」
「そうですね。山田先生は、どっしり構えていて良いのではないでしょうか」
「しかし、あの子達の練習を見なくては」
「今、こども達は自主的に頑張っているのではないですか?」
「それは、まあ」
確かに、朝練の時間を早めて、自主練習を活発にしているようだった。部長の華と副部長の洋子が中心となって、日に日に出席者が増えているという。
「でしたら、何も問題はありませんよ。後は山田先生は、もっとこうした方が良い、という点を教えてあげるだけです。それにこども達が応えれば、更に上の要求を出して。その繰り返しをしているうちに、高みへ行けるはずです」
「丘先生は良いことを言うな」
鬼頭が笑った。
「その通りだ。我々は指示するだけで良い。それに応えるか応えないかは、生徒次第だ。勿論、応えやすくなるような指導の仕方というのはあるだろうが、そんなものは人それぞれだ。せっかく合同バンドもあるのだから、我々や他の学校の先生方の指導法も見て、山田先生なりの指導を作れば良い」
「一歩ずつ一歩ずつ、ですよ。山田先生」
「……全国に連れて行く、と気負わなくて良い、ということでしょうか」
「まあ、そうですね。連れて行ってあげたいという気持ちは必要でしょうが、どうにもならないことをどうにかしようとすれば、目が曇るだけです。私達は、私達に出来ることをしましょう」
「そうだ」
「……はい」
「困ったら、いつでも相談してください。若輩者の私がこんなことを言うのはおこがましいかもしれませんが、せっかく合同バンドという夢が実現したのですから、互いに協力しあいましょう」
「ありがとう、ございます。丘先生、鬼頭先生」
「構わんよ」
生徒達が全国大会出場を目標にすると決めて、山田は、焦った。自分には荷が重い、と。そこまで連れて行く自信が無い、と。だが、そうではないのか。
もっと、楽にやれ、と二人は言っているような気がした。
目の前のグラスを眺め、山田は勢いよく、それを飲み干した。




