番外十 「幡野美代」
両親が楽器を吹く人達で、幡野美代は、幼い頃から市民バンドの練習に連れていってもらっていた。よく、バンドの団員が楽器を吹かせてくれた。鳴らせる楽器もあれば、全く音が出ない楽器もあった。その中で、美代はトロンボーンが気に入った。スライドを動かすと、音が繋がったまま、どんどん高くなったり低くなったりする。それが面白かったのだ。
十歳で、両親がトロンボーンを買ってくれた。練習するようになって、トロンボーンで正確な位置にスライドを動かして音を出すのは、難しいのだと知った。
すぐに夢中になった。小学校に吹奏楽部はなかったから、どの部活動にも入らず、トロンボーンの練習に打ち込んだ。
海原中学校で念願の吹奏楽部に入って、同年代の子が大勢集まって楽器を吹く環境にいられるようになった。それまでは、市民バンドの団員の大人や両親としか、吹いた経験はなかったから、美代は嬉しかった。
吹いていて、自分は同期よりも上手いのだ、と気がついた。コンクールのメンバーにも選ばれ、ファーストも任された。それは、美代の誇りになった。
十一月の上旬に行われた合同バンドの結成式から、二週間が経ち、初の合同練習の日がやってきた。地域の中学校と高校の吹奏楽部で構成される合同バンドであり、参加する学校は、高校からは吹奏楽コンクール全国大会出場の安川高校、東海大会出場の花田高校と北高校。中学校からは、美代のいる海原中と東中、西中だ。
今年、中学校で全国大会に行ったのは海原中だけである。
美代は、元々は合同バンドに入るつもりはなかった。人付き合いは苦手で、部員ですらうまく関われていないのに、他校の生徒とやっていけるとは思えなかったからだ。ただ、引退した三年生から、トロンボーンパートは全員参加しておけ、と言われた。高校生の技術を盗むために絶対入るべきだ、という話らしい。
特に美代は、二年生になってからトップを務めていることもあって、強制参加だと命令されて、泣く泣く入るしかなかった。
合同バンドには、六校合わせて百五十人が参加している。それだけの人数だと、普通の学校の音楽室に入りきらない。それで、練習会場は安川高校だった。
大所帯の吹奏楽部を抱える安川高校は、音楽室だけでなく講堂もあり、その二つが吹奏楽部の活動の拠点になっているらしい。講堂というだけあって、そこそこの大きさで、百五十人が並んでも演奏できる広さがあった。
すでにメンバーは集まっていて、顔合わせも終わっている。今は、教師陣が入ってくるのを待つ間、思い思いに吹いているところだ。
入りたくもなかったうえに、トロンボーンパートには岸田美喜がいて、美代の気分は最悪だった。去年、海原中を卒業したトロンボーンの先輩だ。きつい性格で、出来ない人には冷たく、出来る人には対抗心をむき出しにする、美代とは相容れない人格の人だった。
今は、隣に座られている。美喜も美代を覚えていたらしく、馴れ馴れしく話しかけられた。適当に笑ってごまかしたものの、内心、すでに帰りたくなっている。
去年は、美喜にきつく当たられることが何度もあった。一年生の時点で美代はファーストを任されていて、美喜の隣で吹くことが多かった。隣にいると、何かと話すのだ。足を引っ張るなと、何度言われたかわからない。
美喜は、確かに上手い。今並んでいるトロンボーンパートの中でも、上位に入るだろう。けれど、上手ければ他人の精神を圧迫して良いとはならない、と美代は思っている。
出来れば、あまり関わらずに過ごしたい。そう思いながらため息をついたところで、講堂に教師陣が入ってきた。楽器の音が止む。
指揮台に、安川高校の顧問である鬼頭が立った。他の教師は、その脇に並んでいる。指揮台に立つ鬼頭の姿は、一見どこにでもいそうな老人という見た目だ。確か、六十歳はかなり過ぎている。あの細い身体で、他校を圧倒するような指揮を生み出す。
「おはようございます」
「おはようございます!」
鬼頭が一度頷いて、全員を見回した。
「参加メンバーは全員出席で、大変幸先の良いスタートだ。今後の目標は、まずは来年の音楽の祭典に向けての合奏である。ただ、まだお互いの癖が把握できていない状態では、良い合奏にはならないと思う。よって、今日は軽い基礎から始め、合わせることを意識して練習していこうと思う」
「はい!」
指揮や指導は持ちまわることもあるものの、演奏会での常任指揮は、鬼頭という話だった。合同バンドに入って良かった点と言えば、鬼頭の指導が受けられることだろう。地域でもトップレベルにある指揮者の指導を受けられる機会など、そうそうあるものではない。
花田高の丘も、指導が上手いという評判だった。
せめて、優秀な指導者の指導を受けて、この嫌な時間を少しでも有意義なものにしたい。美代の願いは、それだけだ。
「それでは、さっそく合わせよう。まずは音階をやる。配られている楽譜の一番から」
返事をして、メンバーが一斉に楽器を構える。指揮台の隣に設置されたハーモニーディレクターから、鬼頭がリズム音を鳴らした。
今日の合奏で、各パートは誰をトップに据え置くかが決まるだろう。トロンボーンパートは、美代になることはない。音出しをちらりと聞いていただけでも、美喜や、その隣に座る花田高の人のほうが上手いし、安川高校の男子部員もかなりの腕だった。
トップでなくても、ファーストが吹けるなら構わない、と美代は思っていた。一年の時からファーストばかり吹いていたから、今更他のパートを吹きたいとは思わない。気を抜く曲であればセカンドなどでも構わないけれど、重要な曲では、ファースト以外は認めたくない。
鬼頭の指導は、はっきりとしたものだった。恐ろしく耳が良いのだろう。百五十人いても、誰がどの音を出しているのかすぐに分かるらしく、指摘は個人に向けてのものも多かった。
バンド全体のレベルも、さすがに全国大会や東海大会クラスの学校が参加しているだけに高い。東中や西中は、下手ではないものの、他の学校に比べると、演奏を乱している部分がある、と美代には感じられた。
互いに探り探りの状態での演奏というのも、これはこれで面白い。海原中で吹いている時とは違う合わせ方が必要になる。
午前中は合奏練習で終わり、今は、昼休憩だった。安川高校は敷地が広く、講堂の傍には芝生のエリアもある。合同バンドのメンバーはそこで休んでいる人が多い。
美代は、海原中の仲間と昼食を済ませた後、講堂に戻ってきていた。午後からのパート練習の前に、少し自分の練習をしたかったからだ。
扉を開けて中へ入ると、数人のメンバーが先に来ていて、思い思いに吹いているのが見えた。トロンボーンパートの席には、美喜がいる。同じ花田高の制服を着ている男子と、楽しそうに話している。
去年まで海原中にいた時には見せたことがないような女の子の顔を、美喜がしている気がした。
「美喜先輩、もしかして、その人とお付き合いしてるんですか?」
近づいて後ろから声をかけると、驚いた表情で美喜が振り向いた。
「幡野さん、何、急に」
「仲が良さそうだったので」
「そうだよ。美喜と付き合ってる、白井勇一です。よろしく」
「あ、よろしくお願いします」
コントラバスにいた人だ。顔が良いというわけではないが、体格が良く、男らしい見た目をしている。そんなことより、美喜が男子と交際している、という事実に美代は驚いた。恋愛に興味があるような人には見えなかった。
「美喜先輩も、女の子だったんですね」
「なっ、何、それ! 良いでしょ、別に」
顔を赤くしている。こういう面もあるのか。思わず、笑っていた。
「何で笑うの」
「美喜先輩は、厳しい人ってイメージだったので、意外で」
「む、昔は……そうだったかもしれないけど、私だって、変わってる」
「そうですか」
確かに、表情は去年より柔らかくなっている気がした。
花田高の環境が、美喜を変えたのだろうか。
「名前は?」
「あ、幡野美代です、白井先輩。海原中で、美喜先輩の後輩です」
「ふーん……かなり上手いよな、幡野さん」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げると、美喜が胸を張った。
「そりゃ、海原中の子だもん。それに、海原中のトロンボーンパートは皆上手いのが当たり前だから」
「まあ確かに、幡野さん以外の子も上手かったな」
「でしょ? 全国行くなら、当然」
海原中は、去年も全国大会に出場した。今年も行ったから、二年連続だ。歴代のトロンボーンパートが皆上手かったという話は、上級生から美代も聞かされている。元々上手い奏者が集まるのか、海原中に来ることで上手くなるのか。顧問がトロンボーンの経験者というのも、関係しているのかもしれない。
「幡野さんは、ずっとトップなのか?」
「あ、はい、そうです、一応今年からは」
「去年は私だったからね」
「ですね、美喜先輩は上手かったので」
「まだ二年生だろ?」
「そうです」
「有望株だな」
「そんな……」
自分が上手いとは思っているし、自信もある。けれど、褒められるのは慣れていない。海原中では、顧問や上級生から誉められることなど、滅多にない。
「もう進学先とかは決めてるの?」
勇一に聞かれ、首を振った。
「まだです。吹奏楽の強い学校に行きたい、とは思ってますけど、安川高校は学力が足りないので……」
あまり勉強は好きではない。学年での順位も、中間くらいだ。安川高校を受験するには壁が高すぎる。
吹奏楽と学力のバランスを取るなら北高校だろうか、という漠然とした思いは抱いていた。県大会で止まるような学校には、出来れば行きたくない。弱い部でトップになっても、意味はない。
「なら、うちに来なよ」
「えっ?」
「花田は学力が低いって言われてるけど、進学クラスはそれなりにしっかりしてるみたいだし、吹部はこれからもっと上手くなっていく。幡野さんみたいに上手い子は大歓迎だよ」
「あ、はい」
「うん、良いね。幡野さんが来たら、トロンボーンパートはかなり良くなると思う」
そう言われても、そもそも、花田高は選択肢に無かった。勇一の言う通り、花田高の学力の低さはかなり下だったはずだ。いくら吹奏楽のためとはいえ、大学まで行きたいと思っているのに、花田高を選ぶのは自分のためにならない気がする。
「か、考えておきます」
「うん、まあまだ二年生だし。これから関わっていくうちに花田高のことも知ってもらえると思う」
そう言って、勇一は離れていった。
花田高に進学するつもりはないものの、褒められたのも、誘ってもらえたのも、嬉しいという気持ちはある。それに、以前の美喜だったら対抗心をむき出しにして、美代が来ることを歓迎するような人ではなかっただろう。
本人の言う通り、少し、変わったのかもしれない。
「私は大歓迎だよ。幡野さんには是非来て欲しい。ほんとに考えてみて」
「あ……分かりました」
美喜が満足そうに頷いて、トロンボーンを吹き出した。隣に腰を下ろし、美代は自分のトロンボーンを眺めた。
進学先について、真剣に考えたことは無かった。行くなら北高校だろうという程度の考えで、行きたくて選ぼうと思っていたわけでもない。今年の結果を見る限り、今この地区で吹奏楽を第一に考えるなら、安川高校か花田高校だ。ただ、どちらも学力面で美代には合わない。
学力を優先するなら、北高校一択だ。ただ、吹奏楽が北高校で満足できるかは、分からない。それと、北高校の顧問は勤続して十五年以上経っていたはずで、下手をすると、美代が在学中に異動になる可能性もある。
学校の吹奏楽部は、顧問の力が大きい。優秀な顧問がいなくなって落ちぶれてしまった吹奏楽部は、全国にたくさんあるという。
それに、顧問が途中で変わるという経験も、出来ればしたくない。
そういうことまで、考えたほうが良いかもしれない。安易に選ぶと後悔する可能性もある。そう思うと、何となく気持ちが引き締まるのを、美代は感じた。
少し加筆しました。




