番外九 「副部長、私が?」
東中の秋の一大行事である文化祭は、父兄や近隣住民にも開かれている。一日目が文化部のステージと有志の出し物、二日目が合唱コンクールだ。最近、生徒会が頑張って文化会館での開催を目指そうとしているらしいけれど、残念ながら今年も体育館での開催である。
それでも、年に一度の行事だけに、生徒の気分は高揚している。来場客も、例年通り多い。
吹奏楽部のステージは一日目午前の一番手で、すでに楽器や合奏体形のセッティングは済んである。開会の言葉の後の入場を待って、吹奏楽部員は全員体育館の外に待機していた。
校長の話は長い。あと数分はこのままだろう。
「洋子ちゃん」
振り向くと、茜だった。
「緊張してるねぇ」
「は、はい。やっぱり何回上がっても本番は緊張します」
クラリネットのパートリーダーを務めている茜とは、小学校も同じだった。そのおかげで、入部してすぐに仲良くなった。パートが違っても、一緒に帰る日も多い。
「まあ、練習ではばっちりだったんだし、大丈夫だよ」
「はいっ」
「今日で、洋子ちゃんと演奏も最後かぁ」
何気なく、茜は呟いたのだろう。けれど、その一言が、洋子の胸を締め付けた。
三年生は、今日の舞台を最後に引退する。もう、茜と一緒に吹くことは無いのだ。洋子は、自分の目が潤むのを感じた。
「泣くのは早いぞ~、洋子ちゃん」
茜の手が、優しく洋子の頭を撫でる。
「良いステージにしようよ」
「はい」
「引退してもさ……友達でいてね」
茜が呟いた。
「え、勿論です」
「洋子ちゃんは、一緒に山に行ってないもんね。また、皆で行きたい」
コウキが不登校になった時、励ますために、智美の秘密の場所に皆で行った話は聞いていた。あの時は、洋子はコウキに近づかない方が良い、と思って遠慮した。
「はい、私も、茜先輩と行きたいです」
「夕陽がね、凄く綺麗なんだ」
「写真で見ました。でも、本物はもっと綺麗なんだろうなあ」
「うん。忘れないかな、あの景色は。洋子ちゃんと華ちゃんと一緒に帰った毎日も、忘れないよ」
「そんなこと、今、言わないでくださいよ」
鼻水が出そうになって、すすり上げた。茜がくすくすと笑っている。
「ごめん。この後は忙しくなって、話す時間なくなるかもだしさ」
体育館から、拍手の音が鳴り響いた。開会式が終わったのだ。先頭にいた顧問の山田が振り向いた。
「行くぞ」
小さく返事をして、部員が順番に入場しはじめる。
「頑張ろうね、洋子ちゃん」
茜が笑いかけてくる。頷きを返して、洋子も足を進めた。
このメンバーで演奏する、最後の舞台。三年生が安心して引退できるように、良い演奏にしよう、と洋子は思った。
ステージは、順調に進んでいる。観客の生徒や来場した地域住民の反応も悪くない。洋子自身も、満足の行く演奏が出来ていた。
曲が進んで、三年生部員の一人が前に出る。ソロを披露し、拍手を浴びた。
三年生は、毎年文化祭のステージで一人一つのソロを任される。全員が、一度はソロを吹く機会を体感して卒業してほしいという、山田の想いから行われている。時には、山田自身が曲の中にソロを書き足すこともあるという。
打楽器パートには三年生がいない。三年生になる前に、一人残らず辞めてしまった。他のパートの下級生のように、苦楽を共にした先輩がいない寂しさは、当然ある。それでも、茜や隼人のように、世話になった上級生は何人もいる。その人達のためにと思えば、洋子も演奏に力が入った。
一人、また一人と、ソロを終えていく。隼人のアルトサックスのソロも、茜のクラリネットのソロも、良い出来だった。全員、自分に出来る最善の演奏をしようと、真剣だった。
拍手を浴びながら涙を流す三年生もいて、それを、洋子は見ないようにした。見てしまうと、貰い泣きをしそうになる。
四十五分のステージは、長いようで、短い。もっと続いてほしいと思うのに、時間は淡々と過ぎていく。決して、止まったりゆっくりになってはくれない。
部員同士の仲が良い部ではなかった。今年になって起きた三年生の金管セクションと木管セクションの対立は、何度も危うい状態になっていた。三年生の一部には、二年生で生徒合奏を仕切る華を陰で快く思わない人もいた。
それでも、洋子にとってはこの吹奏楽部が、学校の中での居場所だった。色んな人がいて、それでも、皆で良い演奏をしたいという想いは一緒だった。やっとこのメンバーでの練習に慣れてきた。なのに、もう別れだ。
最後の一曲である、『メモリー』の演奏が始まった。静かな木管のハーモニーから、しっとりとしたメロディーが流れはじめる。元はミュージカルの曲で、感情を揺さぶるような曲調が、演奏会の最後を締める曲として相応しい。いくつか編曲者の違うバージョンがあるけれど、この編曲では序盤に木管のアンサンブルとトランペットのソロが入っていて、奏者の見せ場が多くなっているため、東中の文化祭ステージに相応しい曲である。
木管セクションの三年生が立ち上がって、アンサンブルを奏でる。やわらかで切ないメロディが、静かに会場を包む。この日のために何度も合わせていたのを、洋子は音楽室で見ていた。トランペットの三年生がメロディーを受け取って、ソロで奏でる。あの人は、華と一緒にいつも練習していた。あまり上手くないと、いつも悩んでいる人だった。
今、そのソロは、彼女の渾身の出来だった、と洋子には思えた。
五分弱の演奏など、楽譜を追っているうちにすぐに終わってしまう。感慨に耽る余裕もなく、『メモリー』の演奏は終わっていた。
山田の手が下ろされ、満場の拍手の中で、部員でそろって頭を下げる。全ての曲が終わった。
涙を流す三年生達。洋子は、唇を噛みしめ、ただ前を向いていた。
文化祭から三日が経ち、三年生の引退式の日になった。今日で、正式に三年生が吹奏楽部を去る。
引退の前に盛大な別れの会をするべく、文化祭後の最初の週末に式が行われるのが、東中吹奏楽部の恒例だった。
パーティやゲームをしたり、互いの言葉を伝えあったり、最後の交流がなされる。また、三年生の引退式であると同時に、残る下級生にとっては、新部長と副部長が発表される重要な日でもある。
三年生との別れが生み出す寂しさと、新体制への期待と不安。それらが同時にやってくるだけに、一、二年生の心境は複雑なものとなる。洋子も、例外ではなかった。
すでに引退式は大分進んでいて、終わりが近かった。音楽室の前方に三年生が並び、向かい合うようにして一、二年生は座っている。部長と副部長の発表の時間がきていた。
この三日間、誰が部長になるのか、一、二年生の間では盛んに話題に上がっていた。顧問の山田が最終的には決めるものの、その判断材料として、毎年、三年生の意見が取り入れられる。
大方の部員の予想では、部長は華だろう、と言われていた。洋子も、恐らくそうだろうと思っている。華以上に強烈なリーダーシップを発揮できる子は、今の一、二年生にはいない。それに、華には生徒合奏のまとめ役とパートリーダーを務めている実績もある。部長として、申し分ない存在だ。
金管セクションの華が部長に任命されるとしたら、その補佐をする副部長は、今年の三年生の間で起きていた対立等を考えると、木管から選ばれてバランスを取るのではないか、という気がする。
ただ、相応しい子というと、洋子には今一つ見えてこない。華ほどリーダーらしさを感じる子はいない。部長に関しては誰もが華の名を上げたが、副部長になると、人によってばらばらだった。
音楽室が静まった頃を見計らって、隼人が口を開いた。
「それじゃあ、いよいよお待ちかねの、部長と副部長の発表です。今年も先に新部長から発表します」
隣の子の喉が鳴る音が、聞こえた。
「最終的な決定をされたのは山田先生だけど、先生は俺達の意見もしっかり聞いてくださいました。三年生で話し合って納得したうえで、部長と副部長を推薦しました。一、二年生の皆も、新しい部長と副部長を中心に、結束してほしい」
そこで一度言葉を切り、隼人が頭を下げた。
「今年、俺達三年生は、金管と木管で対立した。それは、部長である俺の力不足だったと思う。申し訳なかった。あの対立のせいで、練習に支障が出ることもあった。新体制ではそんな風にならないでほしい、と心から思う。だから、皆をしっかりまとめ上げてくれる二人を選んだ」
顔を上げ、隼人が一、二年生を見回す。その視線が、一人に注がれた。
「部長、華ちゃん」
「はい」
呼ばれて、華が立ち上がった。部員から、拍手が巻き起こる。
華は、声にも立ち姿にも震えや緊張の様子はなく、自信に満ちている。
「まあ、皆部長に関しては大体想像がついてたと思う。俺達は華ちゃんが相応しいと思ったし、皆もそう思ってたはずだ。実は、去年の先輩達も、そう思っていたと俺は聞いてる」
一、二年生が、ざわつく。それを制して、隼人が言葉を続けた。
「皆が、華ちゃんに期待してる。頑張ってな」
「はい、任せてください」
「うん。次に、副部長を発表します」
誰が呼ばれるのだろう。華と同じトランペットパートの、真紀だろうか、と洋子は思った。真紀なら、華とずっと同じパートで一緒にやっていたし、仲も良い。部長の補佐をする副部長に、相応しい気もする。それともやはり、木管セクションから選ばれるのだろうか。だとしたら、見当もつかない。
やがて、隼人が口を開いた。
「副部長、洋子ちゃん」
どよめきが上がった。予想していなかった名前に、洋子の思考は停止した。
ざわめきと共に、部員の視線が集まる。何十という視線を一気に受けた瞬間、洋子の全身から、汗が噴き出した。
聞き間違いではなかった。隼人は、洋子を見ている。
「洋子ちゃん、立って」
「あ、は」
慌てて、立ち上がる。視線が、ついてくる。頭が、瞬間的に沸騰したかのように熱くなった。
「副部長は、悩んだ。悩んで、俺達は洋子ちゃんであるべきだと思った。この半年、洋子ちゃんが打楽器パートのパートリーダーとして、丁寧な仕事をしていたのを俺達は知ってる。華ちゃんと組み合わせた時の相性の良さも、間違いないと思ってる。華ちゃんの強烈なリーダーシップをカバーできるのは、洋子ちゃんだ。だから、洋子ちゃんに副部長を任せる」
冷や汗が、洋子の背中を伝った。握りしめた手にも、じっとりとした汗が滲んでいる。
隼人の言葉は、鐘のように鳴り続ける頭の中の音で、よく聞こえなかった。これは、自分の心臓の音か、と洋子は思った。
副部長、私が。
心の中で呟いた瞬間、立ち眩みを感じた。動悸が激しくなり、呼吸が荒く、小刻みになる。
「わ、私」
また、立ち眩みで、倒れそうになった。その瞬間、誰かが洋子の手を掴んだ。
華だった。いつの間にか、隣にいた。
「洋子ちゃん。私が、洋子ちゃんを引っ張る。だから、大丈夫」
華が、まっすぐに見つめてきた。握られた手から、華の体温が伝わってくる。
「無理、だよ」
かろうじて、搾りだす。
「一人じゃない。一緒だよ。頑張ろう」
「迷惑、かけるだけだよ」
「そんなことない」
華の両手が、洋子の目の横にあてられた。視界が遮られ、華の姿だけが目に映る。
「私は、洋子ちゃんとなら絶対上手くやれると思う。皆を引っ張り上げるとか、大きな声をだすとか、洋子ちゃんが苦手で出来ないことは、私がする。洋子ちゃんは、部員のケアをしたり一人一人に目を配ったり、私が出来ないことをしてほしい。そうやって二人で協力しあえば、きっと大丈夫」
「でも……そんなの」
「誰にだって出来ないこと、苦手なことはある。私も、他人に厳しすぎるところがあるって自覚はあるし、それを中々変えられない。でも、洋子ちゃんはそういう時、ついてこれてない子に気がついて、助けられる優しさがある。二人で補いあえば良い。私と洋子ちゃんを合わせて、一人前になれば良い」
華の目は、本心を語っている、と洋子には見えた。
今まで、パートリーダーですら苦悩の連続だった。後輩の喧嘩の仲裁一つ、一度で終わらせられないような人間なのだ。そんな自分が、副部長などという大役を任されて、許されるのか。そういう想いと共に、ここまで華が言ってくれることが嬉しい、という感情も、洋子の中に湧き上がっていた。
華が、求めている。完璧ではない今の洋子を、求めてくれている。
「……私で、良いの?」
「うん」
その頷きが、洋子の気持ちを押した。
やれるだけのことは、やってみよう。華が、いてくれる。こんな自分でも、必要だと言ってくれる。それで、良い気がする。思って、洋子は笑っていた。華も笑っている。
「……もう、俺から、何も言う必要ないね」
隼人の声で、はっとして、華が両手を離した。
周りの部員を忘れて、二人で話しこんでいた。慌てて、頭を下げる。
「ご、ごめんなさい」
「いや、むしろ、今の二人の会話で、二人を選んだのは間違いじゃなかったと確信できたよ。な?」
隼人が、三年生の顔を見る。同意を示す頷きが、次々に返される。
「東中吹部を、頼んだよ」
隼人の言葉に、華が勇ましく返事をした。
洋子も、精いっぱいの勇気を振り絞って、首を縦に振った。




