ニノ一 「地区大会」
夏休みの学校は、朝から部活動に勤しむ生徒で賑わっている。
校庭から聞こえるノックの音。サッカー部のホイッスル。体育館からは、バスケ部のドリブルの音が、開け放たれた窓から漏れ聞こえてくる。
外の木々には蝉が止まり、それらの音をかき消さんばかりに盛大に鳴いていた。
吹奏楽部員はというと、先ほどから四階の音楽室と一階の外廊下を行き来していた。
部員総出で楽器や荷物を運びおろし、外廊下の前に止まっているトラックへと載せていく。
男子部員はこの時とばかりに張り切って、重い打楽器類や低音楽器などを運んでいる。
今日は、地区大会の日だ。
二つ隣の市の文化会館で開催されるコンクールに参加するため、早朝に集まって本番前最後の練習を済ませ、移動するところだった。
依頼した運送業者のトラックで楽器を運んでもらい、部員は貸し切りのバスで移動する。
「萌さん、重いでしょ、運ぶよ」
同級生の橘萌が、担当楽器のチューバと自分の荷物とを同時に運ぼうとして苦労していたので、チューバをその手から受け取った。
「あー、ありがとー、助かる」
チューバは、吹奏楽で使われる金管楽器という金属製の楽器群の中で、一番大きく重いものだ。
同じ階の移動程度なら女の子でも簡単だが、それを、さらに重く大きいケースに入れて四階分持ち運ぶのは、結構な労力がいる。
中には絶対に自分の楽器を他人に触らせないという子もいるが、明らかに萌は大変そうにしていたので手を貸すことにした。
並んで階段を下りていく。
「緊張してる?」
無言の萌に問いかけると、小さく頷いた。
「ミスしたらどうしようかな」
萌は初心者でチューバに配属された。
部員数が大会出場定員の五十人ぎりぎりなので、初心者の萌も今日は舞台に上がるのだ。まだチューバを吹き始めて、一年と少ししか経っていない。本番の回数も、東中は多いとは言えない。ホールで吹くのには、慣れていないだろう。
「不安になるよね」
「うん……あんまり自信ない……」
萌の表情が曇っていく。
こういう時は慰めても励ましても、本人にとっては無意味だ。
萌自身の気持ちの問題が大きい。
「いつも通りにやろ」
初心者の萌には、それしか言う事がない。
いつもより良くしようと思っても実力以上のものは出せない。いつも通り、練習通り。それしかない。
本番だけうまく演奏するなど不可能で、日々の練習でどれだけやってきたかなのだ。当日になってしまったら、後はもう腹を括るだけだ。
「……だね」
萌も小さく笑った。
本番まであと数時間あるが、それまでに本人が気持ちを落ち着けられるか。こればかりは手伝いようがない。
コウキは話術があるわけではないので、言葉で劇的に人の気持ちを変えるのは得意ではない。不安そうにしていたら、そばにいるとか、話を聞くくらいしかできなかった。
萌のチューバをトラックに積み込んだ後は、また音楽室へ戻り、大型の打楽器などを運ぶ手伝いに加わった。
すでに日も昇って気温は高くなっており、重量物を運びながらの階段の上り下りも合わさって、身体はしっとりと汗ばんでいる。ただ運ぶだけでなく、落としたりぶつけないよう注意しながら慎重に運ぶため、神経を使う作業だ。
往復を繰り返してやっと楽器を運び終え、すべて間違いなく積み終えたのを顧問が確認したところで、部員全員で業者に挨拶をした。
業者がトラックで学校を出ていくのを見送った後、顧問の指示で部員はバスへと乗り込んだ。
会場までバスで一時間ほどだが、今日は会場の近くで祭りも開催される日なので、混雑も予想される。そのため早めの出発となった。
正直に言えば、今年の東中の実力で上位の大会に上がるのは、厳しい。不可能ではないかもしれないが、演奏に未熟な点が多い。
三年生は、部をまとめてくれている。だが、東中は顧問の裁量が大きく、部の運営のほぼ全てを取り仕切っている。演奏面で、部員に出来る事は少ない。
せいぜい部員個人個人を見てあげるくらいしかできないのだが、コウキ自身も去年トランペットを再開したのは、吹くのをやめてから十年ぶりくらいだった。
そのため、この一年と数ヶ月は、自分の技術を上げる事に集中していた。
かつての中学時代よりはまともに音を出せているが、まだ他人に口を出せるほどではない。
本来なら、教える人間と演奏する人間というのは別物だ。他人に教えるのが上手い人間が、楽器も上手いとは限らないし、その逆もまた然りだ。
だがその発想は中学生には通用しない。
下手をすると出しゃばりという反感を買うかもしれない。しかもコウキはまだ二年生で、上級生がいるのに前面に出るのは、得策とは思えなかった。
それでずっと、自分の練習と、せいぜい後輩と一緒に練習するといった程度に留めていた。
部員の精神面のケアだったらいくらでもできるので、それは進んで行ってきたが、それと演奏の精度は別だ。できる事なら上の大会に行きたいが、どうなる事だろう。
走るバスの中で、部員がおしゃべりする声を聞き流しながら、会場までの間、コウキは寝たふりをして過ごした。
会場に着くと、まずは先に到着していた業者のトラックから楽器を下ろした。
打楽器は舞台裏へ静かに運び込み、その他の楽器は会場内のロビーへと運んだ。大会の会場となる文化会館には、多数の学校が集まるので、楽器の置き場はロビーを指定されている。
適当なところを陣取って、全員楽器の準備を始めた。
先ほどまでの和やかな車内とは一転して、部員は皆緊張した表情をしている。
かくいうコウキも、緊張していないと言ったら嘘になる。だが、学校で萌に語ったように、いつも通りやる事が自分の仕事だ。緊張しすぎても良い結果にならない事は理解しているので、気持ちは落ち着いている。
あらかじめ配られているタイムテーブルに従って、本番前のリハーサル室へ、全員で移動する。
ほんの十数分だが、リハーサルの時間が本番の前にある。ここで最後の通し演奏をしたりしてから本番を迎えるのだ。
現れた顧問も、いつもより険しい真剣な表情をしていた。
まずは、全員の音程を合わせる。音程が合っていなければ、音と音がぶつかって、不快な和音になる。美しい演奏のために、音程を合わせる事は必須になる。
それから、軽く曲を演奏した。これまでの練習を確かめるように、ポイントとなる部分を合わせていく。皆緊張してはいるが、演奏はいつもと比べてもまずまずの出来である。だが、やはり固い音をした子が何人かいる。初心者や、あまり上手くない子達だ。
顧問もそれは分かっているようだったが、今更直すこともできない。下手にいじれば余計に悪くなってしまうかもしれないのだ。
短いリハーサルの時間はあっという間に終わり、部屋を次の学校に渡すため、扉から順番に出ていく。
リハーサル室を出たところで、出演順が一つ前の学校が演奏している音が聴こえてきた。
舞台裏に入るととその音はますますはっきりと聴こえる。上手い。この地区でも上位の中学校で、さすがの出来だった。
舞台袖で待機する部員達の緊張も、さらに高まった気配がした。それは、良い傾向ではない。他校の演奏に気持ちを揺さぶられると、せっかくのリハーサルも無駄になる。
ふと気になって萌を見ると、列の端っこで俯いていた。まだ不安は解けていないらしい。あのままだと、本番できっとミスをする。ミスをするだけなら、良い。それに心を乱されて、演奏が崩れたら終わりだ。
部員の間を縫うように進んで、萌のそばまで近づいた。
「大丈夫?」
萌は顔を上げたが、またすぐに俯いた。
「……うん」
冴えない表情のままだ。到底、大丈夫には見えない。聞くだけ無駄だった。
何とか、気持ちを落ち着かせてあげたい。
どうすべきか考えて、ふと、昔友人に教わった事を思い出した。
「手貸して」
「え?」
言われるがまま、萌が手を差し出してくる。
「うぇ~い」
ふざけた調子で、萌の手と自分の手を叩いたりぶつけたりしてリズミカルに合わせていく。
高校時代の友人に教わったハンドシェイクを、萌に見せた。
アメリカ人がよく手と手をテンポよく合わせたりする挨拶のようなもので、初めての相手ともしやすいタイプの、こちらが動けばだいたい形になるやつを披露した。
この時代、『ウェーイ』はまだ流行ってないかもしれないが、萌は吹き出していた。
「何これ!?」
「アメリカ人がやるやつ」
「あははは!」
小声で会話をしていたが、萌の抑えた笑いに、何事かと周りの部員が寄ってくる。
緊張している子がほかにも何人かいたので、全員に『ウェーイ』しておいたら、良い具合に肩の力が抜けてくれた。ハンドシェイクなど使いどころがないと思っていたが、覚えておいてよかった。
コウキも、高校の演奏会で緊張していた時に友人にされて、本番を落ち着いて迎えられた事があった。あれのおかげだ。彼に感謝しかない。
だが、うるさくするなと舞台のスタッフに怒られてしまった。素直に謝って、自分の列に戻る。
この程度しか出来ないが、やらないよりは良かっただろう。少しでも、皆が自分の実力を出せたら良い。
前の学校の演奏が、クライマックスを迎える。音の洪水が、舞台裏まで押し寄せてくる。
ふと、洋子達を思い出した。もう席について聴いているだろうか。
後で少しでも話す時間があればいいのだが、とコウキは思った。
「は~。ありがとね、三木君!」
本番が終わって舞台からはけた後、東中の部員は、ロビーで楽器を片付けていた。
大会で必ず行われる全員集合しての写真撮影も済ませ、後は結果発表までホール内で他校の演奏を聴いて過ごすだけだ。
演奏が終わってしまえば、皆緊張も解け、和やかな雰囲気に戻っていた。演奏の出来がどうであったにしろ、終わってしまった以上ピリピリしていても仕方がないのだ。
わいわいと騒ぎながら、楽器を仕舞った者から顧問に連れられてホールへと向かっていく。
コウキと萌は、楽器番を任されていたので、残って楽器を整理した。
トラックに楽器を積み込むまで、盗難に遭わないよう見張っておく。他校の演奏を聴く機会は貴重なので、楽器番は誰もやりたがらない。コウキは、本番の後は静かに過ごしたかったので、すすんで楽器番を引き受けた。萌も似たような感じらしい。
二人で、楽器のそばに並んで座り込む。
「いつも通りできた?」
「うん! おかげさまで」
すっきりとした表情だ。本番前までの沈んだ様子は、もうない。
「失敗はしたけど、ぐちゃぐちゃにならずに済んだよ」
「そりゃ良かった」
「ありがとね。三木君って、おもしろいし面倒見も良いし、次の部長になってほしいなぁ」
萌がスカートの中が見えないように手で抑えて座りながら、こちらを見て微笑みかけてくる。
ロビーで座り込むのは行儀が良いとは言えないが、集中が切れて疲れてしまっていたので、構わなかった。それに、今日はこの場にいるほとんどの人がコンクールの参加者なので、わざわざ咎めるような人もいない。
「いやー……部長はちょっとなあ」
「どうして?」
「あんま楽器上手くないのに俺がやってもね。部長なら陽介君のほうが良いんじゃないかな」
深川陽介はクラリネットの同級生だ。優しいし、面倒見も良く、楽器も上手い。今の同期の中で、部長に適任だ。
人柄は勿論だが、演奏技術の高い人間についていく人間は、多い。
「うーん、深川君も良いけど、私は三木君だったら良いなー。部長って、楽器の上手さだけじゃないと思うもん」
萌の言う通りではあるが、そうやって前向きにとらえてくれる人ばかりではない。それに、以前は陽介が部長だった。コウキとしては、できればそのままが良かった。
「まだ先だし、どうなるか分かんないよ」
「そうだけどねー」
萌がしつこく聞いて来る事はなく、その話はそれっきりになった。
コウキは、あまり触れられたくない話の時はそっけなくするようにしていた。勘の良い子はそれで引き下がってくれる。
それからは、部活とは関係のない他愛もない話で盛り上がった。萌は、話好きな子だ。歳相応に、好きなテレビの話とかクラスの話とかが話題の中心だが、よく喋るので飽きない。
今もだが、前の時間軸でも、萌とはそれなりに仲が良かった。パートも違うのに、女の子の中でも話すほうだった。多分、萌はコウキに異性としての好意を持っていない。友達として接してくれている。だからだろう。
好意を持たれると、告白をされたりする。断れば、相手は泣いたり傷つく。だからといって本当に好きな子以外と付き合う気にはなれず、中学に上がってから何度か告白されても、コウキはすべて断っていた。
断った後のその子との接し方も悩みの種になっていて、最近は、女の子に好意を持たれないような話し方をしようと考えているのだが、うまくいっていない。
悩んでいたり傷ついていたりする子を見かけると、放っておけなくて、話しているうちに好かれてしまう事が多かった。
異性から想いを寄せられるのが、嬉しくないかと言われたら、もちろん嬉しい。だからといって、相手の想いに応える事は出来ないので、断るしかなく、その後の女の子達の表情が辛かった。
その点、萌とはそういう気配にならないので安心できる。
その後は結果発表まで何事もなく過ぎ、コンクールは終わった。
東中は、金賞は得たが、県大会へは進めなかった。予想はしていたので、あまりショックはなかった。コウキとしては、三年生になってからや高校に行ってからだ、という気持ちが強かった事もある。
ただ、周りの皆は落ち込んでいた。消沈した空気のなか、楽器の積み込みも終わらせ、一行はバスで帰った。
洋子や拓也とは、会えなかった。
楽器番をする事になっているとは伝えていたのだが、見つけられなかったのだろうか。できれば少しでも話したかった。
とはいえ、明日は休みで、洋子と拓也と遊ぶ約束もしている。そこで話せるだろう。演奏がどうだったか、聞いてみたい。
大会までの最後の追い込みがあって、しばらく洋子と拓也とは会えていなかったので、久しぶりに会える明日が楽しみだ。
そう思っていたのだが、次の日、洋子は約束の場所に来なかった。
「なんか、昨日コウキに会いに行くってホールから出てった後、暗い顔して戻ってきたんだよ。何かあったのか聞いても教えてくれなかった」
サッカーをしながら拓也に聞いたら、そんな返事をされた。
「でも、昨日俺のとこには来なかったよ」
「マジ? なんでだろ」
「拓也は何で来なかったの?」
「いや、帰りに行こうとしたけど、洋子ちゃんがすぐに帰りたいって言うから、仕方なく結果発表の前にさっさと帰ったんだよ」
なぜだろう。全く見当がつかない。
ホールを出てコウキに会いに来るまでの間に、何かあったのだろうか。約束をすっぽかした事など無い子だったので、余程の事だろう。
心配ではあったが、迎えに行くより、そっとしておいたほうが良いかもしれないと考え、仕方なくその日は洋子抜きで過ごした。
来週また洋子の家で集まるので、その時に様子がおかしければ、それとなく聞いてみるべきだろう。
拓也の蹴ったボールが、まるで吸い込まれるように、まっすぐコウキの足元へと転がってきた。




