八ノ二十五 「冬へ」
妻が子を産んだ。元気に泣く、男の子だった。妻の疲れ切った顔と生まれたばかりの我が子を見た時、ただ、ありがとう、という気持ちしか湧かなかった。
出産を控えた妻を、妻の両親に任せて、丘はずっと吹奏楽部に付きっきりだった。家に帰り着くのは、毎日夜の九時十時が当たり前で、それでも妻は帰りを待っていて、あたたかい夕飯を出してくれた。
妻は、それが丘の仕事で、待つのが自分の仕事だ、とよく言っていた。だが、出産から三日経っても疲労している妻を目の前にすると、もう少しそばにいて、楽をさせてやるべきだったという後悔が浮かんだ。
「ごめん。放りっぱなしになってしまって」
妻が、静かに微笑んだ。
「それが、教師になった金雄君の仕事なの。家庭より、こども達。貴方はこの子だけじゃなくて、沢山のこどもを導かなきゃいけないんだから」
握りしめる妻の手の力が弱い。まだ完全には体力が戻っていないのだろう。顔も、青白さが続いている。
「ゆっくり休んで」
「うん……金雄君は、部活に行ってね」
「こんな時に、ごめん」
「こんな時だからだよ。言ったでしょ、私とこの子は、お父さんもお母さんもいるから大丈夫。今が、こども達には大切な時期でしょ……そばにいてあげて」
「でも、やっぱり心配だから、そばにいたい」
「駄目。貴方は、教師なんだから。貴方は、私達だけのものじゃない。皆、金雄君が必要なの。私は大丈夫だよ。心配しないで」
そこまで言って、妻は静かに眠りについた。
ここに残りたい気持ちはある。だが、目覚めた時に丘がいたら、きっと妻は怒るだろう。寝息を立てる妻の頬をそっと撫で、丘は立ち上がった。息子も、今は静かに眠っている。
「お義母さん、すみませんが、よろしくお願いします」
「気を付けてね。いってらっしゃい」
妻の母親に後を頼んで、丘は病室を出た。正面入口で、買い出しから戻った妻の父親と鉢合わせた。
「すみません、部活へ行きます。妻を、よろしくお願いします」
「うん、頑張って」
丘の両手を握って、妻の父親は笑った。
妻からも、妻の両親からも、丘が学校と部活動にほぼ全ての時間を費やしていることについて、一度も不満を言われたことはない。むしろ、歓迎してくれていた。
家族の支えと理解があるから、丘は吹奏楽部に全力を注げている。本当なら、家事も手伝わなくてはならないのに、それは丘の仕事ではない、と言ってさせてもらえたことがない。
妻の父親と別れ、車ですぐに花田高へ向かった。病院は隣町にあるため、学校へは三十分ほどかかる。もうとっくに活動開始時刻は過ぎているため、生徒達は自主的に練習を開始しているだろう。
景色が、次々に流れていく。曇り空のため、雲を通して照らす太陽の明かりが眩しい。丘は運転席のサンバイザーを下げて、空が見えないようにした。それだけで、大分ましになる。
花田町に住む妻の両親との同居は、丘が教師になると決めた時に、妻が条件として出してきたことだった。教師は一人の人間である前に、多くのこども達を導く存在であり、間違った教育をすれば、こどもは歪んで成長してしまうからこそ、教師には責任があり、仕事に集中しなくてはならない。だから、丘が余計なことに気を煩わないで済む状況を作る、と妻は言った。
丘も、それなら楽だと思って軽い気持ちで了承したが、実際に教師になって、妻と妻の両親の助けが、いかに大きいかを実感した。
教師の中には、家族と仕事との折り合いがつかず、家庭不和を起こしていたり、仕事に忙殺されて生気を失っていたり、あるいは家庭を重視して、教師としてのやる気が無い者もいる。
丘がそうならずに済んでいるのは、妻達のおかげだ。この仕事を応援してくれる三人には、感謝しかない。
花田高に着いて、すぐに丘は音楽室へ向かい、ミーティングのために部員を集めた。合奏の体形で座った生徒の視線が、集まる。
「お子さんは元気でしたか?」
晴子が言った。
「ええ。眠っていましたよ」
息子が生まれたと知らせてから、生徒はしきりに息子の様子を聞いてくる。落ち着いたら、連れてこいともせがまれていた。
息子の誕生を、自分のことのように喜んだり心配してくれる生徒を見ると、丘も自然と笑みがこぼれる。
「さて、少し動きがあったのでお知らせします。音楽の祭典の日にも話しましたが、地区の中高吹奏楽部が集まって作る合同バンドの話が、実現しそうです」
ざわざわと、部員達が声を上げた。手を挙げて、それを静める。
「合同バンドを設立する目的は、すでに述べましたが、地区の吹奏楽部同士の交流を深め、この地区の吹奏楽の発展を目指すためです。また、違う学校との合同練習は、様々な刺激を受けるはずです。それが、全体のレベルの向上にもつながる。現在のところ参加を決めている学校は、うちと安川高校、北高校、東中、西中、海原中の六校です」
合同バンドの話は、数年前から時折話題に出ていた。丘と、安川高校の顧問の鬼頭が中心となって進めていた話だが、中学校の顧問で乗ってくる者がなかなかおらず、夢物語で終わっていた。
それが、夏に実施した東中と花田高の合同練習がきっかけになって、急速に動き出した。
東中の顧問の山田もこの計画に乗り出し、具体的に話を詰めていくようになった。設立が現実のものになる決め手となったのは、音楽の祭典の日だろう。集まった学校の顧問達にこの話を振ったところ、北高校、西中、海原中も興味を示してきた。
参加する六校のうち、もう一つの高校である北高校も、東海大会に何度も進んでいる高校だ。花田、安川、北。この三校が参加するとなれば、合同バンドはそれなりに演奏レベルも高いものとなるだろう。
趣旨としては、吹奏楽部同士の交流と発展を図るためと言っているが、一方で、有力な中学生奏者を早いうちから各高校がスカウトするための場所という側面もある。恐らく、北高校の顧問もそれを察したから参加を決めたのだろう。
誰も口には出さないが、そういうものだ。勘づいているのは丘と鬼頭以外では、東中の山田と北高の顧問くらいだろう。
「早くても来月には、結成式が行われる予定です。また、今後参加する学校もどんどん増えるかもしれません。近いうちに皆さんにも参加の可否を伺います。参加は強制ではないため、各々で決めるように」
生徒が自発的に参加する意欲が無くては、この合同バンドは続かない。やるからには、ちゃんとしたものにしたい。
立ち上げは、丘と鬼頭、それと東中の山田が中心になった。主な演奏披露の機会は、最初は音楽の祭典くらいかもしれない。だが、長く続けば、演奏機会も増えていくはずだ。
「合同バンドについては話が進み次第、またお伝えします。次にアンサンブルの話ですが、曲の選定を、そろそろ終わらせるように。まだ相談に来ていないグループは、早めに来なさい。それと、十一月のミニコンサートの企画も、早め早めに進めるように。以上」
「はい!」
「では、この後はアンサンブル毎に分かれて練習です」
晴子の言葉に、部員が返事をして散っていった。
音楽室に残った打楽器パートが、思い思いに楽器を鳴らしはじめたことで、すぐに音楽室は騒がしくなった。
コンクールと秋の文化祭、それと音楽の祭典が終わり、秋の行事はほぼ終わった。あとは十一月のミニコンサートくらいだ。
季節は、冬に向かっている。
花田高の次の大きな演奏機会としては、十二月のアンサンブルコンテストになる。三人から八人程度に分かれたアンサンブルでの演奏を審査するコンテストだ。
本番まで期間が空くので、練習がだれる時期でもある。ミニコンサートや合同バンドは、生徒にとって良い刺激となるだろう。毎年、中学生でこれはと思うような奏者は、安川高校や北高校、あるいは他の地区の強豪校に流れていた。
学力的に低い花田高は、進学先として選びにくいというのも関係しているかもしれない。進学と部活動を両立させようと思うと、下のレベルにある花田高より、他の学校を選ぶのだろう。
これからさらに高みを目指すうえで、優秀な奏者はもっと欲しい。一人でも多く得るためには、駄目元でも、早め早めに声をかけるしかないのだ。声をかけていけば、ここで吹奏楽をしたいと思う奏者が、一人でも現れるかもしれない。
来年、吹奏楽コンクールの全国大会を本気で目指すのなら、新入部員は最低でも三十人は必要になる。それも、初心者ばかりでは難しい。経験者が欲しいのだ。
今年の初心者達のように、成長の著しい者ばかりであれば良いが、そう上手く集まるとはかぎらない。これが経験者なら即戦力となり、早く内容の濃い練習が出来るようになる。だから、一人でも多く経験者が必要なのだ。
リーダー達にも、いずれ合同バンドの目的を話しておくべきだろう。露骨な勧誘はご法度だが、それとなく部員から花田高への進学の話を薦めていくような形にしたい。顧問の丘からより、こども同士の声かけのほうが、良いはずだ。
ふと、丘は後ろの窓から町並みを見渡した。隣町の病院は、ここからでは遠すぎて全く見えない。妻と息子は、眠っているだろうか。今日の夜も少しは顔を出せると良いのだが、仕事は山積みだ。きっと、間に合わないだろう。
いっそ、妻と息子との時間を作るために、一日くらい部を休みにしてしまおうか。そんな考えが浮かんで、丘は慌てて頭を振った。生徒が真剣になっている時に、丘がそんなことを考えるべきではない。
それに、そんなことをしても、妻はきっと喜ばないだろう。自分の勝手な欲求で、部を思い通りにするわけにもいかない。
「やれやれ」
呟いて、丘は息を吐いていた。空は、相変わらず曇ったままだ。
秋編、終了です。
いよいよ高校一年生編も最終章へ。三年生の最後の舞台である定期演奏会や、卒業、別れがやってきます。
花田高吹奏楽部の今後はどうなるのか、楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです。
その前に、番外編もあります!
洋子や華たちのお話を出していきますので、そちらも楽しんでお読みいただけたら嬉しいです。
せんこう




