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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校一年生・秋編
144/444

八ノ二十二 「やるしかない」

 そっと、オーボエを持った。右手の小指に違和感はない。構えて、リードをくわえる。息を吐き、リードを振動させる。出た音は、自分で出しておきながら、聴いていられない音だった。

 口からリードを離し、ひまりは大きくため息をついた。


「どうですか、ひまり先輩」


 隣に座る星子が、小首をかしげる。首を振って、答えた。


「駄目、やっぱり感覚が悪くなってる」

「だ……大丈夫ですよっ。ひまり先輩なら、すぐ元通りになれます!」


 根拠のない励ましだ。星子に、余計な気遣いをさせている。


「ありがとう。少し、一人で練習してみる。星子ちゃんは自分の練習してて」

「……はい」


 しょげた様子で星子は立ち上がり、英語室を出ていった。朝練の前に、早めに来ていた。いつもの通り、いるのは未来やコウキ、万里、智美といった朝が早い部員達だけだ。


 骨折した小指は、もう、動かしても良いと医者から許可が出た。東海大会前に骨折をしてから、オーボエを一度も吹けていなかった。その影響は大きく、自分でも嫌になるほど、酷い音になっている。

 

 もう一度、音を出す。ロングトーン。音が震える。自然なビブラートではなく、支えられていないがゆえの震え。単調で、色のない平坦な音。以前と同じように吹いているつもりでも、全く違う。


「これは……先が思いやられるなあ」


 呟いて、またため息をついた。

 星子は、東海大会を経て、完全にひまりを超える表現力を持つようになった。今の星子は、おそらくこの地域の高校生オーボエ奏者の中でも、トップレベルにあるだろう。いつか追いつかれると思っていたが、あっさりと抜かれてしまった。


 怪我をしていなければ、どうだっただろう。星子がソロを吹くことも無く、従って、あの表現力を得ることも無かっただろうか。そうだとしたら、きっと今でもひまりの方が上だったかもしれないし、それで安堵していたかもしれない。


 それはそれで、情けない話だ。いっそ、こうして抜かれてしまったほうが、気が楽だと言える。追われるより、追うほうが楽だ。

 ひまりも、この二ヶ月近くの間、ただ見学していたわけではない。星子の音を聴き、プロの演奏会を聴きに行き、丘から指揮や指導、音楽の表現についても学んだ。やることが無かったため、丘が空いた時間で見てくれたのだ。そうやって、楽器を吹かないでも出来ることをしてきた。


 今はまだ技術が戻っていないが、以前よりも、音楽表現について、自分なりに思うところがある。前は、ただこうすれば良いのだろうという型を守るだけの演奏だった。本当に音楽的な演奏の仕方は、分かっていなかった。

 今なら、少しは分かる。それを実際に表現できるようにすればいい。


 やることが明確になっているおかげで、焦りはさほどない。不満に対して苛つくことが減ったのは、部員の家に泊めてもらうようになり、家から離れる時間が増えたからだろうか。


 智美が、ひまりを助けてくれた。ひまりの力になりたいと言って、本当に、何人もひまりを家に泊めてくれる部員を集めてくれた。このひと月弱の間、もう十五日ほどは部員の家に泊めてもらった。智美や二年生の木管の仲間は、ひまりの家にも泊まりに来てくれた。


 はじめのうち、ひまりが家を空けると、母親は文句を言っていた。けれど、ひまりが居ないと怒鳴り合うことも無く、快適だったのだろう。次第に、何も言わなくなった。智美達が泊まりに来た日は、良い母親を演じていた。


 母親の相手をしなくて済むだけで、これほどに心が平穏になるのか、とひまりは思った。すさんでいた心が、落ち着いた。

 今まで、怒りや悔しさを原動力にして、オーボエを吹いていた。もう、そうしなくて良いかもしれない。奏でたいように奏でる。それが、出来るかもしれない。


 ずっと自分の本当の姿を周りに隠してきた。知られたくないという一心で、良い人を演じてきた。それが、嫌いな母親にそっくりであることも嫌だった。

 そういう自分から、抜け出せた気がする。明かすのには、勇気が必要だったけれど、智美が支えてくれた。ただの後輩だった智美が、ひまりに救いをもたらしてくれた。そのことに、感謝している。

 

 隣の総合学習室から、智美達の練習音が聴こえる。一つ一つの音を丁寧に扱い、音階を奏でている。入部したての頃より、随分音が良くなった。

 今の自分は、どうだろう。あの子達と同じくらいのレベルだろうか。ずっとオーボエを吹けなかったために、レベルが相当落ちている。

 それでも良い、とひまりは思った。ここからまた上がるだけだ。上を見るだけで良いのだから、気持ちは楽だ。吹かなくては、進まない。嘆いている暇があるなら、一秒でも多く吹く。それが、今自分に出来ることだろう。










 丘には、すでに意向を伝えてある。

 冬に開催される、中部日本吹奏楽連盟主催の個人・重奏コンテスト。来年の二月から始まり、地区大会、県大会、本大会と三つの大会を上がっていく形式で、ソロとアンサンブルの二部門が審査されるコンテストだ。

 そのソロ部門に、星子は出る。


 コンテストは、金管楽器、木管楽器、コントラバス、打楽器の奏者に出場資格があり、中部地区の凄腕の高校生が、実力を競うために出場してくる。

 星子は、昔から負けず嫌いで、自分より上手い人がいるのが悔しかった。どこまででも、上手くなりたかった。自分より上手い人がいるなら、その技術を吸収しようとしてきた。

 今は、自分でもかなり実力があると思っている。それが実際にどの程度のものなのかは、はっきりとは分からない。今の自分の腕を知る必要がある。このコンテストは、それに最適だ。


 他の一・二年生の部員は、全日本アンサンブルコンテストに出場するだろう。そちらは、吹奏楽コンクール同様、地区大会、県大会、支部大会、全国大会と進んでいく。

 花田高は部員が少ないため、全パートは出場出来ないだろう。星子も、端からそちらに出るつもりはなかった。


 東海大会を経て、自分がひまりを超えた自信が、星子にはある。それは、ひまりの骨折という事件があったから到達できたことで、素直に喜んで良いものではないかもしれない。しかし、演奏の質が一段上がったのは事実だ。

 

 ずっとひまりを目標にしてきた。この地区のオーボエ奏者で、ひまりより上手い高校生はいなかった。ひまりの繊細で優雅で華やかな音と、完璧な表現力。あれを、ずっと超えたいと思っていた。

 

 音色は、まだ、ひまりほど研ぎ澄まされてはいないかもしれない。けれど、表現力なら負けない。東海大会で、心からひまりのために演奏した。あの感覚が、星子の中に新しい世界を生みだした。音楽を表現することの意味が、少し分かった。それを、もっと確実なものにしたい。

 そのために、ソロコンテストに挑む。


「凄いね、星子ちゃん。一年なのに」


 牧絵が言った。


「ですよねー。私はソロコンなんて絶対出たくないけどなぁ」


 フルートを優しい手つきで布で拭きながら、同期の尾山佐奈が言った。


「佐奈っちは、バンド向きだもんね」

「ですよね! 私は、そのほうが絶対向いてますぅ」


 佐奈は、さほど技量の高い方ではない。ただ、合わせるのは上手い。


「自分の実力を、試したいんです」

「良いじゃん、頑張ってね。星子ちゃんなら本大会まで行けそう。コンクールも、評判だったもんね。ね、ひまり」

「うん。行けると思う」


 ひまりに言われて、星子は顔が熱くなるのを感じた。ひまりに対しては、対抗心がある。同時に、尊敬もしている。だから褒められると、気持ちが高揚する。


「私も、早く追いつかなきゃ」


 その言葉に、星子の心臓が音を立てた。ひまりにそう言われる日がこんなに早く来るとは、思いもしていなかった。追いかける側だったのに、追われる側になっている。ただ、やはり素直には喜べない。怪我が原因なのであって、純粋に星子が抜いたわけではないのだ。何と答えて良いか分からず、星子は黙った。


「ひまり先輩は出ないんですかぁ? 二月に開催ですよね? 四ヶ月近くあるんだし、調子戻りそうですけど」

「うーん、私は、良いかな。今は腕を戻すのに集中したいし」

「じゃあ、アンサンブルは出ましょうよ! 木管八重奏とか」

「どうだろう。人数が足りないと思う」

「うーん、かもね。一、二年だけだし。良い編成が組めないかも」

「えぇ~それ本当ですか、牧絵先輩? 私出たいですぅ」

「そもそも一つの学校からは三チームまでしか出られないから、きっと金管八重奏とサックス五重奏とクラリネット五重奏とか、そんな感じになると思うよ」 

「部内で出るチームをオーディションしたりしないんですか?」

「んー、やるとは思うけど、そもそもサックスやクラがパートで組んじゃったら、私達入れないし」

「あぁ、そっか……」


 がっくりとうなだれる佐奈の頭を、牧絵が撫でる。


「私達も組める編成の曲がないか、丘先生に相談してみよ、佐奈っち」

「! はい!」


 アンサンブルにも興味はあるものの、やはり、自分の腕を試す事の方が星子にとっては重要だ。牧絵達の会話を聞きながら、すでに頭の中はソロコンテストのことで一杯になっていた。





 








 奏馬のことは、常に追いかけ、仰ぎ見る存在だった。中学生の頃から同じ学校の同じ吹奏楽部員で、先輩として、奏馬はいつも武夫を気にかけてくれていた。

 ホルン奏者としても、男としても、奏馬には敵わない。カリスマ性のある人で、武夫にとって、あこがれの人だ。どれだけ吹いても、奏馬のような音は出せない。


「武夫、無理してる」


 園未が言った。


「何が?」

「気を、張り過ぎてる」

「そんなことないけど」

「焦っちゃだめだよ」


 背中をそっと撫でられる。笑って、応えた。園未は、口数は少ないが、いつも武夫の様子を敏感に察知して、励ましてくれる。

 奏馬と同じで、園未も同じ中学校だった。ずっとホルンパートで一緒で、家も近所にある。互いのことも、嫌というほど知っている。武夫にとっては、頼れる仲間である。


「どうやったら、上手くなるんだろうなぁ」

「わかんないけど……奏馬先輩は、特別」

「だけどさ、俺達が、来年はトップを吹くんだぜ」

「うん」

「少しは、奏馬先輩みたいにならなきゃ」

「でも、気を張り過ぎたら、逆効果だと思う」

「分かってるって」

「あ、園未先輩、いたいた」


 ホルンを脇に抱えた柚子が、英語室の入り口から顔を覗かせた。そのまま、中へ入ってくる。


「ペア練しましょー」

「分かった」

「じゃあ、ここ使っていいよ」

「ありがと、武夫」

「うん」


 立ち上がって、柚子に椅子を差し出す。礼を言って、柚子が座った。


「じゃ、頑張って」

「はーい」


 手を振る柚子に頷いて、武夫は英語室を出た。柚子も、中学校から一緒だ。あまり部員数の多い中学校ではなかったため、一つ下の後輩は柚子だけだった。生意気だが、可愛い後輩でもある。園未と柚子と、三人でいつも一緒だった。

  

 今、ペア練習の組み合わせは、奏馬と武夫、園未と柚子で組んでいて、余っている桃子も奏馬が見ている。奏馬の負担が大きいが、それが最善の組み合わせだと、丘と奏馬は判断したのだろう。


 はっきりしているのは、奏馬以外の四人は、大してホルンが上手くない、ということだ。奏馬がいたから、ホルンパートはその力に引っ張り上げられていたようなものである。


 奏馬が卒業したら、ホルンパートは各段にレベルが落ちる。もし、奏馬のような上手い後輩が入ってきたら、別だろう。だが、そんな都合のいいことが起きるとは限らない。可能性の低い希望に縋っている暇などない。

 奏馬の後にパートリーダーを務められるのは、自分しかいない。園未は、人を引っ張り上げられる性格ではないからだ。自分が、やるしかない。


「武夫~、なんか歩き方が暗いぞ」


 背中を勢いよく叩かれ、呻いた。修と太がいた。


「痛いですわ、先輩」

「武夫の背中が叩いて欲しそうにしてたからさ」

「してませんよ」

「で? 暗いのは何か悩みか?」

「何も無いです」

「お、なんだ。強情だな。言いたくないオーラ出して」


 太が、修の脇をつついた。


「話したくなさそうなのに無理に突っかかるなよ、修」

「いや、どうせこいつ、奏馬には言えないような悩みで悩んでるんだぜ」


 言われて、ぎくりとした。前に一度、奏馬には愚痴ってしまった。奏馬は、悲しそうな顔をしていた。その顔を見たくなくて、もう、奏馬には言うのはやめよう、と決めていた。

 普段、おちゃらけているくせに、こういう時、修は目ざとい。

 

「今日、太とラーメン食べ行くけど、武夫も来るか?」

「いや、良いですよ、邪魔しちゃうし」

「お前なぁ。こっちが誘ってるんだから邪魔だと思うわけないだろ」


 修が肩に手を回してくる。


「決定な。武夫も行くぞ。良いよな、太」

「俺は良いよー」

「じゃ、練習の後、帰るなよ?」

「……はい」


 よし、と言って、修がまた背中を叩いてきた。今度は、少し軽かった。


「食って、話したら、すっきりするぜ。特別に今回だけお前の愚痴を聞いてやるよ」

「軽いなぁ、修は」

「良いんだよ、そんなんで」


 わいわいと言い合いつつ、修と太は音楽室へと入っていった。

 武夫は、自分の心が少し楽になっていることに気がついた。普段、修と太と食事に行くことなどない。たまには、いいかもしれない。


 奏馬は、武夫にとって神格化したような存在でもある。気軽に話せる間柄ではない。修と太は気さくで、話しやすかった。園未や柚子にも相談しにくいことだし、二人になら、話せそうだ。


 心の中で二人に礼を言って、武夫は踵を返した。時間まで、少しでも練習をしよう。それが、今の自分の仕事だ。

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