八ノ二十一 「自分のすべきこと」
自転車の車輪が、からからと音を立てている。設置された街灯が、時折、理絵と月音の足元に濃い影を作る。
並んで、自転車を押しながら歩いていた。花田高から花田駅へは、主にバス通りと田園地帯からの二通りの道がある。バス通りの方が時間はかかるけれど、街灯があるため安全で、そちらを使う花田高生のほうが多い。
理絵は、近いからという理由で、いつも田園地帯を選んでいた。ただ、今日は月音と話すため、バス通りを通っている。
「月音は、コウキ君を信頼してるんだね」
理絵は言った。デュエットの発表で、月音は明らかにコウキに信頼を寄せていた。そしてコウキも、月音を信じていた。二人の信頼から生まれる音が、あの演奏にはあった。
「……信頼、以上かな」
「以上?」
「好きだよ、コウキ君が」
その言葉に一瞬、理絵は戸惑った。
「……いつ、から?」
「文化祭の時から、かな。理絵は知ってるか分からないけどさ、私、ハブられてたんだ、ずっと」
「え」
「喫煙で停学になった不良だって噂が立って、誰も近寄らなくなった」
「そう、だったんだ」
理絵も、月音が辞めてから、近づくのをやめた。ずっと、月音のいる二年五組にも寄らないようにしていた。
「最初は、一人でも平気だと思ってたよ。でも、だんだん、辛くなっていった。文化祭も、クラスの仕事には参加せずに、サボってた。私がいると空気悪くなるからさ。でも、皆楽しそうにしてて、なのに私は一人で……それが寂しかった。なんか、それで急に泣けちゃってさ」
月音の力ない笑いが、理絵の胸をちくりと刺した。
「うずくまって、泣いてたんだ。そしたら、コウキ君が来てくれた。なんでだろうね。誰かにいて欲しいって思った時に、コウキ君がいた。それで、そばにいる、って言ってくれた。それで落ちたかな」
「コウキ君が」
「最初は、ただのお節介な後輩程度の認識だったんだけど。なんか、あれがあってから、更に二人での合わせが良くなってさ。私の気持ちが変わったからかな。たった三日なのに、随分良くなって……それで、今日の演奏が出来た」
二人の演奏は、理絵も、素晴らしかったと思った。口には出していないが、認めざるを得なかった。
「まあ、そんなわけで、コウキ君のことは好きだよ」
「そ、っか」
「うん」
黙って、歩みを進めた。まだ、道は半分も行っていない。歩いていると、駅までは三十分以上かかる。
コウキは、人に寄り添える子だ。今まで、何人がコウキに救われているのだろう。理絵が後輩の中で一番認めているのも、コウキだ。
コウキがいたから、月音は戻ってきた。
「もし、コウキ君がいなかったら……月音は、ずっと戻ってこなかった?」
「多分ね。私だけじゃ、戻してくださいって、言えなかったと思う」
「……どうして、あの時、月音は、私のことは信頼してくれなかったの?」
「え?」
月音が、こちらを向いてくる。目は合わさず、理絵は言葉を続けた。
「辞めるってなった時……私を信頼してくれても良かったじゃん。話してくれたら、私は……私も、コウキ君みたいに、月音の力になったのに」
少しの沈黙の後、月音がぽつりと言った。
「……丘先生にね、信じてもらえなかったの、本当のことを話しても。両親も、そう。尊敬してた人達が、誰も私を信じてくれなかった。それで何か、もういいやって気持ちもあの時はあった。どうせ、誰に話しても信じてもらえない、って諦めてた。自分のせいだから、って」
自嘲するような笑み。そんな顔をしないで欲しい、と理絵は思った。理絵だったら、きっと信じた。信じて、月音に手を差し伸べた。
今、それを言っても意味はない。
「ごめんね。理絵を頼れば良かった。逸乃も……でも、精神的に、駄目だった。ごめんね、ほんとに」
「謝らないでよ。月音は、悪くない。悪くないじゃん」
「うん、でも、理絵を傷つけたよね」
「一番傷ついたのは、月音なんでしょ」
「どうかな……分かんない。でも今は、部に戻してもらえたから、良いの」
相変わらず、自転車の車輪の音が鳴り続けている。土曜日のこの時間だと、車も人も全く通らないため、その音がやけに耳につく。
「……月音は、トランペットをずっと続けてたの?」
「うん。すっごくボロいトランペットだけど、頑張って買ってね。全然駄目なんだけど、ないよりはマシだったから」
「なんで、続けてたの? プロになりたい、とか?」
月音なら、なれそうな気がする。
「死んじゃったおばあちゃんが、トランペットが大好きだったの」
月音が言った。
「いっつも自分の家でトランペットの曲を流してて。私の音も、好きだ、って言ってくれた。演奏会には全部来てくれたし、他に場所がないからおばあちゃんの家で練習してても、にこにこしながら聴いてて、うるさいって一度も言われなかったし……おばあちゃんが、私にトランペットの良さを教えてくれたようなものかな。そのおばあちゃんが、死んじゃう前に言ったの。トランペットを続けてね、きっと、それが将来貴方のためになるから、って。だから、ずっと続けるつもりなんだ」
「そう、なんだ」
「うん。プロとかは、別に考えてない。音大に行くとか、そんなお金、多分親は出してくれないから。トランペットは、どこでも吹ける。ストリートで吹いても良いし、どこかの社会人バンドに入っても良いし、プロだけが道じゃないから」
月音の音が、変わらないどころか良くなっていた理由が、少し分かったような気がした。月音の中には、確かな信念がある。だから、あんな音が出せたのだ。
黙って辞めたことも、今なら、月音にも事情があったのだ、と思える。
駅前の商店街に着いた。もう、駅まではすぐだ。
「話せて、良かった」
「私もだよ、理絵」
「まだ、完全に元通りにはいかないかもしれないけど、月音のこと、ちゃんと仲間としてまた迎えられるように、なるから」
「……うん」
月音の表情が、和らいだ。
「ありがとね、理絵。私が戻ることに、反対しないでくれて」
「……部のためには、それが、一番良かったから」
「うん、嬉しい」
駅に着いた。電車が来る時刻は、もうすぐだ。
「それじゃあ、理絵。明日からも、よろしくね」
「うん」
「気をつけて帰って」
「月音も。家、反対方向だったのに駅まで来てもらっちゃって、ごめん」
「ううん、理絵とは、ちゃんと話したかったから。じゃあ、ばいばい」
「ばいばい」
手を振りながら、月音は来た道を引き返していった。見えなくなるまで、理絵はその姿を見続けた。
理絵と月音の間に何があったのか、コウキは聞いていない。聞くことでもないと思った。ただ、理絵の月音に対する反発心のようなものは、この一週間で、随分と薄くなっている気がした。
部内で最後まで月音の復帰を拒んでいたのは、理絵だ。部に対する想いが強いからこそ、理絵の中にわだかまりがあったのだろう。それは、コウキではどうしようもない類のものでもあった。
こういう時、やはり自分に出来ることは大してないのだと思わされる。理絵と月音が話し合うことでしか解決しない問題であり、それについて月音は、何の手助けも要らない、自分で話す、と言った。だから、コウキは手を出さなかった。
どれだけ部の皆と関わっても、最後のところでは、当人同士にしか出来ないことがある。
コウキがいなくても円滑な人間関係が築けるような部の雰囲気を作り上げることを、今以上に進める必要があると、コウキは改めて思った。
学生指導者サブになって、ひと月以上が経っている。だが、中心となるのは三年生のため、一年生のコウキに動ける余地はまだ少ない。
奏馬は、コウキの意見に耳を傾けてくれる。それでも、最後の判断は奏馬や晴子が下すため、コウキの理想通りの展開ばかりにはならない。
それも、やはり仕方がないのだ、とコウキは思った。コウキが目指しているのは、一人一人が動いた結果、部がより良い状況へ向かって行くことだ。他の部員を差し置いて、自分が部を牛耳って思い通りに動かすのが目的ではない。
三年生は、最も長くこの部に尽くしてきた人達だからこそ、彼らが部を引っ張っていくことが大切になる。今は、淡々と自分の仕事をこなすしかないだろう。
「コーウキ君っ」
「ぐっ」
後ろから、誰かが抱きついてきた。
「月音さん……」
「やっほー、お疲れ様」
「急に抱きつかないでくださいよ」
「なんで、良いじゃん?」
きょとんとした顔で、月音が言った。細い腕が、コウキの腰に絡んでくる。
月音は、部に復帰してから明るくなった。少しずつ、理絵以外の部員とも打ち解けるようになっている。特に、美喜や桃子といった金管の一年生は、月音の技術に完全にほれ込んだらしく、積極的に月音と話す姿をよく見かけていた。
「勘違いされるでしょ」
「されていいよ」
耳元でささやかれて、ぞくりとした。身体をよじって、月音から離れる。背伸びをしていた月音が口惜しそうな表情で、ちぇ、と呟いた。
「そんな思いっきり離れなくてもいいじゃん」
「最近スキンシップ多すぎですよ、月音さん」
「普通普通。好きな子にはするでしょ?」
「好きって……」
ため息を漏らす。九月の三日間の行事が終わった辺りから、月音のコウキに対する態度も変わっていた。露骨に好意を見せてくるようになったのだ。これまで、そんな素振りは一切無かっただけに、コウキは戸惑いを感じていた。
「とにかく、そういうの慣れてないからやめてくださいよ」
「んー、まー、約束は出来ないけど」
いじわるな笑顔を浮かべている。
「はあ……ペア練習、しますか?」
「あ、うん、そうそう。それで呼びに来たの」
月音が戻ってきたことで、ペア練習の組み合わせが一部変わった。新しい組み合わせでは逸乃とコウキが組んでいたが、それがまた変更され、コウキは月音と組むことになり、逸乃は万里と、まこは修と組む形になった。
ペア組の選定にはコウキも少しだけ関わったが、最終的な決定は奏馬と丘だった。今回のペアの組み合わせは、来年を見据えて技術力のある一、二年生を上達させるための組み合わせだ。
「静かなとこのほうが良いから、三階の理科室行こっか」
「わかりました」
「先に行ってるね」
「はーい」
手を振って、月音が離れていく。入れ変わるようにして、幸がやってきた。
「コウキ君!」
「どした?」
「今日一緒に帰ろ」
「え、でも市川さん早く帰るんじゃないの? 俺最後まで残ってくけど」
「ううん、今日は最後まで残る! 良いでしょ?」
「んー……なら良いよ」
「やった」
幸が、嬉しそうに小さく跳ねた。
「じゃあ、また後でね、コウキ君」
「ん、わかった」
球技大会の日に、幸と一緒にサボった。あの時から、幸のコウキに対する遠慮のようなものが無くなったように感じる。
これまでは、幸は一歩引いたような態度をコウキに取っていた。それで何となく、幸がコウキに好意を抱いているのだろうということにも勘づいていた。だから、余計な期待を持たせないためにも、こちらから接触を増やさないようにしていた。
最近は、幸から絡んでくるようになった。幸の心境が、変わったのかもしれない。
「モテモテになってきちゃって、コウキ」
不意に小突かれて、小さく呻いた。
「智美」
「だから言ったでしょ。コウキは自分ではそういうつもりじゃなくても、女の子を勘違いさせてる、って」
「そんな事言われても……」
「自覚持ちなよ。想いに応える気がないなら、変に気を持たせちゃだめだよ」
じろりと睨まれる。
「実際さ、どうすんの」
「何が?」
「コウキの本命は、誰なわけ? はっきりさせないから、皆、自分でも、って期待しちゃうんだよ」
「本命、って……」
「態度をはっきりさせなよ。誰にでも良い顔してると、痛い思いするよ」
「そういうつもりじゃない」
「自分ではそうでも、周りにとってはそうなの」
智美が、こういう話に口を出してくるのは珍しかった。
「こないだ、うちで遊んだ時、洋子ちゃんとまた良い感じになってたじゃん。洋子ちゃんのことも、はっきりさせないと。本当に、高校生になるまで待たせるの?」
「それは」
「洋子ちゃん、花田高に来るような学力の子じゃないでしょ。別の高校に進学したら、コウキのこと忘れるかもしれないよ。今でさえほとんど会えてないんだし、呑気に構えてたら、後悔するよ。それとも、洋子ちゃんはそういう対象じゃないの?」
「……どうしたんだよ智美、今日はやけに」
「はぐらかさないで」
きつい口調で言われ、言葉に詰まった。袖を引っ張られて、近くの英語室に連れ込まれる。中には誰もいない。向きなおって、智美が指を突きつけてきた。
「一部で不安の種になってるよ。コウキが原因で、部が滅茶苦茶にならないか、って」
「は、何だそれ」
「恋愛が絡むと、女の子って人が変わるんだよ。コウキを取り合って部員が争うようになったら、責任とれるの? 万里ちゃん、月音先輩、さっちゃん。私が分かってる限りで、三人もコウキを狙ってる。しかも、月音先輩はぐいぐいコウキにアタックするようになって……今までは万里ちゃんとさっちゃんだけで、しかも二人とも大人しかったから問題にならなかったけど、これからどんどん複雑になってくよ」
「そんな、まさか」
思い切り、額を指で弾かれた。
「いって……!」
「悠長に構えてる暇無いんだって。あんたが原因で、部が壊れるかもしれない。自覚しろ」
今まで見たこともない、智美の鋭い眼差しだった。本気で、智美は言っている。額を抑えながら、コウキは足元に目を落とした。
「橋本さんも、俺を?」
「そう。何……気づいてなかったの?」
「ああ……」
盛大なため息を、智美が吐いた。
「だって、俺はそうならないように、橋本さんを名前で呼ばないようにしてたり、距離も置いてたんだ」
「はじめのペア練習、組んでたじゃん」
「あれは、練習じゃないか」
「馬鹿じゃないの?」
「え……」
腰に手を当てながら、睨んでくる。智美が、怒っている。コウキにはそう感じられた。
「部活の時間なんて、全部練習時間じゃん。関係ないって、そんなの。あんたが万里ちゃんを励ましたり支えたり。そうやってるうちに、万里ちゃんだってあんたを好きになったんだよ」
万里は、誰にでもああいう態度だった。恥ずかしそうにうつむきがちで、声は小さく、自分の意見はあまり言わず、感情表現も大きくない。そういう静かな子だと、コウキは思っていた。
「あんたが、部のためを思って皆の支えになろうとしてるのは分かってる。それのおかげで、部が変わったのも分かってる。でも、勘違いしてる子もいる。それは自覚しなよ。変えるんでしょ、この部活。恋愛で滅茶苦茶にしちゃって、良いの?」
「……良くない」
「なら、そろそろ自分の態度をはっきりさせるべき。忘れないで」
鼻を鳴らして、智美は英語室を出ていった。
「自分の、態度……」
コウキはまた自分の足元に目線を落とした。
自分が、部を危険に晒しているのか。口の中で呟いて、がしがしと、頭をかき回した。
「違う、武夫。もっとイメージしろ」
「はい」
メトロノームに合わせて、二年生のホルンの加藤武夫と一緒に音階を吹く。武夫の音が、ある一定の箇所に来ると、必ず音の繋がりが悪くなる。
基礎の音階練習で、音の滑らかな移動を出来るようにしなくてはならない。でないと、曲で吹いた時に悪目立ちする原因となる。
「高音に対するマイナスのイメージが強すぎてないか?」
「……かもしれない、です」
「良いか武夫。ホルンの高音は、高音じゃない。誰にでも出せる音なんだよ」
「でも、どうしても意識しちゃうんですよ」
「まずはその意識をやめてみろ。誰にでも出せるんだと考えろ。小さなこどもにも出せるのに、お前に出せない訳ないだろ? 原因が何かあるんだ。その一つが、音に対する苦手意識だ」
「……はい」
「もう一回合わせよう」
再び、二人で音階を吹く。武夫は、高音が苦手だった。曲中でも高音に差し掛かると音が固くなり、吹き方が崩れて無理が出る。それが奏法全体に影響して、音が乱れる原因となっている。
決して下手な男ではない。高音に対する苦手意識が無くなり、常に安定した奏法で吹けるようになれば、今より飛躍できるはずだ。
来年、奏馬が卒業すれば、ホルンパートのレベルの低下は避けられない。誰が聞いても、奏馬以外の四人のレベルは、平均かそれを下回るところにあるからだ。
パートリーダーを担えるのは、武夫しかいない。武夫が上手くならなければ、来年、ホルンパートが部にとって足を引っ張る存在になる。全国を目指すうえで、それは避けなければならない。だから、奏馬は武夫とペアを組んだ。見てあげたい後輩は大勢いるが、誰よりも武夫が最優先だった。
「そんな顔をするな、武夫」
酷く苦しそうな顔を武夫がしている。奏馬はその肩を掴んで、優しく揉んだ。
「楽器は、苦しみながら吹くものじゃない。今吹けなくても、ひと月後や半年後はどうなってるか分からないんだ。常に進む意欲があれば大丈夫だから、そんな顔をするな」
「……はい」
奏馬は、高音への苦手意識は持ったことが無かった。出て、当然のものだった。だから、武夫の苦しみは本当には分からない。気を遣った発言しかできないのが、悔しい。
自分では、指導が上手い方だとは思っていない。どうしても教えられるのは、自分でやってきて良かったことだけになってしまう。それは、奏馬には効果的でも、他の人にはそうでない場合もある。どうすれば武夫に合う助言が出来るのか、奏馬も頭を悩ませていた。
「休憩しようか」
「わかりました」
ホルンから管を抜いて、溜まった水分を抜いていく。武夫も同じようにしている。
これまで学生指導者として、指導法も自分なりに考えてきた。間違ったことはしていないはずだ。けれど、的確でもない。確実に皆を伸ばす指導が出来ているかというと、自信を持って頷けない。
あと数ヶ月の間に、武夫をパートリーダーを務められるだけのところまで、引き上げてあげられるのか。
「奏馬先輩が卒業したら、うちはヤバイですよね」
「ん?」
「俺もですけど、園未と柚子も上手いって程じゃないし、桃子ちゃんはやっとホルンに慣れて伸びだしたところですし……来年、ホルンパートに上手い子が入ってこなかったら、かなり足手まといになる気がします」
自嘲気味に、武夫が笑った。
「今も、足引っ張ってますけど」
「そんな風に言うな」
顔をそむけたまま、奏馬は言った。
「これから変われば良い。コウキ君の音を思い出してみろ。月音ちゃんと練習しだしてから、また一段と良くなった。たった数週間でだ。武夫も、きっかけさえあればすぐに伸びる。今は、そんな風に考えずに、頑張れば良い」
「……はい」
力なく笑う武夫に、奏馬はそれ以上言葉をかけてやることが出来なかった。




