八ノ二十 「理絵と月音」
音とは、何だろう。音楽とは、何だろう。全くの初心者が出すトランペットのドの音も、月音が出すトランペットのドの音も、同じドの音のはずだ。
それなのに、その音は全く違うものに聴こえる。奏でられる連続した音は、確かな音楽となって、理絵の心を震わせる。
認めたくないはずなのに。月音の音を、綺麗だと思ってしまう自分がいることを、理絵は自覚するしかなかった。
ただのロングトーン、ただの音階、ただの跳躍。それらが複雑に絡み合って、旋律となる。言ってしまえばそれだけなのに、実際に音楽的に奏でることは、とても難しい。
月音は、それを成し遂げている。コウキの音が更に奥行きを与え、豊かな響きと心地良いハーモニーを生みだしている。
練習の期間は、大してなかったはずだ。短い時間で、なぜここまでの演奏を、二人は奏でられているのだろう。そんなに、月音は音楽に本気で向き合ったのか。ならば、何故吹奏楽部を辞めたのだ。理絵に何も言わずに、去ったのだ。
二人の演奏を、いつまでも聴いていたいと思ってしまう自分と、もう聴いていたくないと思う自分がいることに、理絵は戸惑った。
月音の透き通った高音が吹き抜ける。目の前に、部員がいる。丘もいる。それなのに、月音もコウキも、緊張した様子もなく、豊かな音を放ち続けている。
二人の目が合った。言葉を介さない、意思の伝達。それは、信頼しあっている仲間同士が見せるそれと、同じだった。
演奏が終わって、部員達は拍手をしていた。左隣に座る美喜が、凄い、と呟く。理絵の手は、動かなかった。動かせなかった。
「私は、喫煙の疑いで今年の二月に停学になりました。でも、煙草は吸っていません。部を辞めたのは、疑いであっても、それで皆に迷惑がかかることを避けたかったからです」
月音が、口を開いた。音楽室が静まり、誰もが、月音の言葉に耳を傾けている。
「でも、本当は、ずっと皆と吹いていたかった。辞めたくなかった……。だから、この話を貰った時、嬉しかったです。また、部に戻してもらえるかもしれない、って。だから、全力で吹きました。お願いします。私を、もう一度吹奏楽部の一員にしてください」
言って、月音が頭を下げた。理絵は、丘を見た。腕を組んだまま、何も言わない。
「月音」
月音が、顔を上げる。右隣に座っている逸乃だった。何を言うのだろう、と理絵は思った。
「何で、何も言わずに、辞めていったの? 私に、何も言わずに」
月音が辞める時、逸乃も真相を聞きに月音の元へ行ったと聞いていた。理絵も会いに行った。駄目だった。逸乃も、教えてもらえなかったと言っていた。
理絵も、気になっていた。なぜ月音は吸っていなかったと、教えてくれなかったのか。言ってくれたら、月音を守ることだってできたのに。
演奏中、月音はコウキを信頼している様子だった。なぜ、理絵のことは信頼してくれなかったのか。
「言えなかった。自分でも、言い訳する気持ちになれなかった。部から逃げてサボって、友達が吸っているところに居合わせた。そして、停学になった。私がしたことは、部にとって最悪だった。だから、言い訳なんて出来なかった」
それは、月音の本心なのだろうか。
「言ってくれたら、私達は、月音を守ろうとした」
思わず、理絵は言っていた。
「なんで、私達を信じてくれなかったの?」
手を、握りしめていた。痛いくらい、爪が食い込む。月音は、応えない。
「私達のことを突き放したのに、今更戻って来たいなんて!」
「理絵……」
逸乃が、腿に手を置いてくる。
一年生の頃、同期の金管は、月音を中心にまとまっていた。オーディションに受かり、月音、逸乃、理絵、よしみはコンクールメンバーに選ばれていた。当然、選ばれなかった上級生の妬みがあった。けれど、月音が一年生ながらトランペットのファーストを吹いていたことで、上級生からの不満を、全て蹴散らしてくれた。
実力のある者がコンクールメンバーに選ばれる。そういう方針を上級生は取って、その通りに、理絵達はメンバーになった。月音がいたから、理絵達は負けずに済んだ。
皆で、頑張ろうと約束していた。なのに、月音は、理絵達の前からいなくなった。
「なんで、部を捨てたの!?」
「捨ててないよ」
まっすぐ、月音が見つめ返してきた。
「私は、一度だって捨てたつもりはない。部が大切だったから、私がいちゃいけないと思った。定期演奏会を間近に控えてたからこそ、迷惑をかけちゃいけないと思った。だから、辞めた」
「そんなの! 吸ってなかったなら、気にしなければ良かったじゃん! なんで、黙って認めちゃったの!」
丘が視線を逸らしたのを、理絵は視界の端で捉えた。月音が、また頭を下げた。
「ごめん。私が、弱かったから」
そんなの。そんな風に謝られたら、責められない。言い訳をしてほしい。そうしたら、いくらだって責められるのに。
「辞めた後だって、戻りたいと思ってた。でも、理絵の言う通り、捨てたと思われても仕方がなかったから、言い出せなかった」
唇を噛む月音の姿に、理絵は何も言い返せなかった。
「……月音ちゃんが部に戻ってくることに、反対の子はいますか?」
沈黙を破り、晴子が立ち上がって言った。
「皆、月音ちゃんが部を辞めた理由はもう知ってるよね。喫煙したから退部したことになってたけど、それは誤解だってことも。今の演奏を聴いて、まだ月音ちゃんに戻って来てほしくない子は、いる?」
晴子が部員を見回す。誰も、何も言わない。逸乃も、うつむいて何も言わない。
「一つ良いか」
奏馬が、手を挙げた。晴子が頷く。
「皆さ、この何週間か、毎日コウキ君と月音ちゃんが部活の後に練習してたのは聞こえてただろ。誰よりも最後まで残ってやってた。コウキ君の話だと、その後も別の場所でやってたらしい。それで、今の演奏だ。二人の演奏に、何も感じなかったか? もし、言い出せないけど月音ちゃんが戻ってくるのには反対だっていう子がいるんなら、言っておく。これだけ努力してきた子を拒む権利が、俺達にあるのか?」
奏馬に言われなくても、分かっている。月音が、どんなに頑張ったか。あの演奏を聴けば、分かる。
「今言い出さないなら、二度と反対だって口に出すなよ。今言えないのに、後から言うなんて卑怯なこと、するなよ」
沈黙が広がる。
「誰も、反対の子はいないね?」
理絵は、もう、何も言えなかった。自分のわだかまりのせいで、これ以上部をかき乱すことは出来ない。皆が、月音が戻ってくることを望んでいる。それを、理絵一人が拒めば、さらに波が立つ。それは、理絵の望みではない。
「それじゃあ、月音ちゃんには、今日から部に戻ってきてもらいます。よろしいですか、丘先生?」
頷いて、丘が立ち上がった。
「皆さんが正しいと思って決めたことですから、構いません。それから……山口が言わなかったので私から言いましょう。山口は自ら退部したのではなく、私が辞めさせました。あの時、私が山口は喫煙をしていないと、信じてやれなかった。部の安全を優先して、山口を切ったのです。そのことを……私は間違っていたと思うようになった。顧問の判断で、皆さんの作り上げてきた関係性を壊すべきではなかった、と。だが、間違っていたからといって、また私の意思で山口を戻すのは、違うと思いました。皆さんが山口に戻ってきて欲しいと思わなければ、同じことの繰り返しになる。だから、こういう形を取りました。それだけは、伝えておきます」
丘が目を逸らしたのは、そういう理由か、と理絵は思った。
「おかえり、月音ちゃん」
晴子の言葉に、月音が安堵した表情を浮かべている。理絵は、その光景から目を逸らし、うつむいた。使い込まれた唾抜き用の雑巾が、今はやけに目障りだ。
三日間の行事が終わって、飾り立てられていた花田高も元の状態に戻っていた。休日練習を終えた運動部員が、談笑しながら正門の急坂を下りていく。休日の最終下校時刻まで練習する運動部は、バスケ部くらいだろう。
自転車を押しながら、理絵も急坂を下っていた。高台に建てられている花田高への出入りは、正門と裏門の二か所からになる。ただ休日は裏門が閉めきられていて、正門からしか出入りが出来ないようになっている。
急坂を自転車を押して上り下りするのは、かなり体力を使う。裏門の方がもう少し緩やかな坂になっているため、理絵は平日は裏門から出入りしていた。
正門が近づくと、活動時間後の自主練習も終えた吹奏楽部員達が、たむろしているのが見えてきた。
「あ、理絵先輩、お疲れ様です~」
携帯をいじっていた星子が、理絵に気づいて手を振ってくる。
「お疲れ様。迎え待ってるの?」
「ですです」
星子は花田町に住んでいて家も近いはずなのに、迎え待ちとは贅沢なことだ、と理絵は思った。理絵は隣町に住んでいるため、自転車で花田駅まで行き、そこから電車で帰る。そして、家までまた自転車だ。片道一時間はかかる。それでも、理絵はこの吹奏楽部に入りたくて、花田高を選んだ。
「星子ちゃん食べるー?」
「わ、ありがとー」
和が、手に持っていたスナック菓子を星子に差し出す。一つ受け取って、星子が口に運んだ。美味しそうに顔を揺らしている。愛らしい仕草まで、星子は見事だ。自分が美少女であることを、自覚しているような振る舞いである。
「和ちゃんと綾ちゃんって、電車通学じゃなかった? 帰んないの?」
「星子ちゃんのママが駅まで送ってくれるんです」
綾が言った。
「二人がもっと練習していきたいって言ったから、最近乗せてるんですよー」
「へえ、優しいね、星子ちゃん」
「頑張る子には優しいですよ、私は」
良く見ると、正門前に集まっているのは一年生ばかりだ。
「モッチーさあ、髪伸びすぎじゃね?」
少し離れたところにいた美喜の声が聞こえた。見ると、久也と勇一と咲と、四人でかたまっている。
「そうかな。そんな自分じゃ分からんけど」
「長すぎて邪魔そう」
「確かに、モッチーは切ったほうが良いかも」
「橘さんまでそう言うなら、切るかなあ」
前髪をいじりながら、久也が言った。一年生達は、いくつかのかたまりになっている。さらに離れたところには、ファゴットの中野ゆかやバスクラリネットの杉崎由菜、バリトンサックスの元子がいた。
「コウキ君は?」
これだけ一年生が集まっているなら、中心にコウキがいそうだと思ったが、姿が無い。
「智美ちゃんと先に帰りましたよ。久しぶりに小学校の頃からの親友と、智美ちゃんの家で会うって、嬉しそうに言ってました」
和が言った。コウキと智美は、誰とでも仲良くなれる性格をしているし、友達が多そうだ。吹奏楽部以外にも、付き合いはあるだろう。
「そうなんだ」
「コウキ君が気になるんですか~?」
星子がにやついてくる。首を振って、応えた。
「そういう訳じゃないよ」
少し、月音の話を聞きたいと思っただけだった。居ないなら別に良い。
「理絵先輩って好きな人いないんですか?」
「え……それを聞いてどうするの、星子ちゃん」
「えー、だって気になるじゃないですか」
「私の恋愛話聞いても、意味ないでしょ」
「理絵先輩って吹部命って感じだから、やっぱ居ないんですか?」
聞いてないな、この子は。ため息をついて、理絵は笑った。
「いないいない。そんな暇ないよ」
「ちぇっ、つまんない。二年の先輩達って、摩耶先輩以外恋愛全然ですよねー」
「さあ、話したことないや」
「ええ……嘘ですよね?」
「ほんとだよ。そんな話しないもん」
星子が、唖然としている。興味が無いのだから、話す必要もない。逸乃や栞達が誰を好きかなど、理絵にはどうでも良い。
摩耶が正孝と交際したのも、意外だったくらいだ。部に悪影響が無ければという心配はあったけれど、二人はそういう様子はない。だから、触れないでいる。
「なーんかうちの部、恋愛少なくてつまんなーい。もっとそういう話聞きたいのになぁ」
携帯の画面の明かりに照らされた星子の顔を眺める。綺麗な顔立ちだ。星子こそ、言い寄る男子は多いだろう。今も、熱心に指を動かしている。メールでもしているのか。
尋ねても良かったけれど、面倒に感じて、理絵は黙った。
「しょうがないよ。だって実質奏馬先輩かコウキ君か、じゃん。吹部のフリーの男子だと。二人ともライバル多すぎでしょ」
綾が、小声で言った。
「へー、そうなんだ」
何気なく呟くと、星子と綾が驚いた表情を見せてきた。
「え、何?」
「理絵先輩って、ほんとに恋愛興味ないんですね」
「……無いって言ってるじゃん」
「女子高生なのに……」
「関係ないでしょ」
肩をすくめる。恋愛は、部活動には足手まといになる要素だ。そんなものは大人になってからすればいい。今は、もっと部を良くすることの方が、理絵にとっては大切である。
「あ、来た」
校門の前に、黒いバンタイプの車が止まった。星子の母親らしい。軽く会釈すると、手を振られた。
「じゃ、理絵先輩、さよなら」
「ばいばい」
和と綾も頭を下げて、星子の家の車に乗り込んだ。美喜達も、手を振っている。
一年生は、仲が良いようだ。最初の頃は、そこそこのグループに分かれて固まっていたように見えたが、今は、そういうグループはなくなったのだろうか。
扉が閉まり、車は駅の方向へ去って行った。理絵も帰ろうかと思ったところで、美喜が声を上げた。
「あ、山口先輩」
身体が、固くなる。ゆっくりと、急坂のほうを振り向いた。自転車を押しながら、月音が下りてきていた。最後まで、残っていたのだろう。
「お疲れ様です」
「お疲れ様、えっと、岸田さん、だよね」
「はい」
「またね」
「さよならー」
月音が、こちらに近づいてくる。目が合った。理絵の方が、月音より背が高い。というより、月音が中学生のように背が低いのだ。必然的に、見下ろすような形になる。
長い、沈黙。先にそれを破ったのは、月音だった。
「理絵、話せるかな」
まっすぐと、理絵を見据えてくる。
「一緒に帰ろうよ」
理絵は、頷いた。
丁度良い。コウキが居ないし、月音から来たのなら、直接聞いてみれば良いのだ。




