二ノ序 「日常」
こどもの人間関係は、成長するほどに複雑になっていく。いじめの問題もより根深くなるし、恋愛なども盛んになっていくものだ。
予想していた通り、中学校生活は難儀した。
こども達は、学校という閉鎖空間で、家族よりも長く時間を共にする。合わない人間はどうしても合わないし、個性というものが強くなってくる時期であるからこそ、小学校の時のように無邪気に皆が仲良しというわけにはいかなかった。
それでも、やはり人と人なのだ。
相手の事が良くわからないから、相手との価値観が違うから、相手を異物だと感じてしまい、自分のそばから排除しようとする。
そこを解決するには、お互いを知る事だ。何か一つでも共通点があったりしないかとか、なぜこういう価値観でいるのかなどを話し合う。
全てはわかり合えないとしても、互いの考えを尊重したつきあい方は出来る。
そういう事を、彼ら彼女らの仲を取り持って根気よく続けていった。
かつての中学時代よりクラスの雰囲気はずっと良かったし、目に見えるいじめもなかった。
それでも一つの学年で三百人はいて、小学校とは人数の規模が違う。
すべての子に目を向けることは出来ず、必然的に、自分の周りの子達の事で精いっぱいになってしまっていた。
しかし、そもそも人間一人が、すべての人に助けの手を差し伸べる事などできないし、それを求めない人もいる。割り切るしかない部分もあった。
だからこそ、せめて自分と関わりのある子達だけは暗い感情に支配されない中学生活を送ってほしいと心から思っている。
なぜ、そうまでして他人に力をつくすのか、と一度聞かれたことがある。
その時は笑って誤魔化したが、コウキは、そうする事で自分という存在を確かなものにしたかったのだ。
自分の本質が悪の側なのだという事は、自分自身が一番理解している。
他人を傷つけて平気でいた、かつての事を思い返すと、自分という人間が嫌になる。
それを打ち消したくて、善い行いを心がけてきた。
それで自分の罪が消えるわけではない。ただ、これから出会う人達にはささやかでも役に立って、傷つけた人の数以上に、幸せな人を増やしたい。
それが、過去に戻った大きな理由なのだ。
人が聞いたら、歪んでいると思うかもしれない。
それでも、コウキはこれが自分のすべき事なのだと思っている。
昔いじめを受けていて暗かったあの子が、今は笑っている。
仲たがいしていたあの子が、一緒に遊んでいる。
彼らのそうした素顔を見ていられるのが、何よりも嬉しいのだ。
最終下校を促す音楽が、学校中に鳴り響いている。
懐かしい曲。洋楽の、なんという名前だったか。郷愁を誘うようなもの悲しいメロディが印象的だ。
今日も部活の後に、最後まで残って練習していた。急いで片付けて校門へ向かう。
以前は吹奏楽部だった。楽しかったが、正直に言うと楽器は下手だった。
人付き合いも得意ではなかったので、女の子に囲まれての活動はなかなかに苦労した覚えがある。
だから、新しい人生では別の部活に入ることも考えたのだが、苦労した思い出と同じくらい、良い思い出もある。
結局、かつて部活動の仲間と一緒に長い時間を過ごした記憶を思い出して、また吹奏楽部に入部していた。
それに、あの時間を、もっと良いものにしたいと思ったのだ。
コウキがこれまで後悔してきた事の中には、部活動関係のものも多い。それを、変えたかった。
どうにか音楽が鳴り終わる前に校門を出ることに成功し、校門に立つ教師やたむろする友人達に挨拶をして、帰り道に着いた。
小学校は家から近かったが、中学校は徒歩で二十分ほどかかる。自転車通学の範囲には入らない微妙な距離だ。少しでも早道しようと、暗くなった細い路地を通っていく。
周りには、同じような考えなのだろう、ちらほらと生徒が歩いている。
吹奏楽部の活動は、懐かしさと楽しさとで、コウキの生活に張りをもたらした。
楽器を再開するのは高校卒業以来で、腕はかつてよりさらに落ちていた。それでも、また自由に楽器を吹ける楽しさが、コウキを夢中にさせた。
もう、二年生になっている。
コウキが通う東中学校の吹奏楽部は、去年の大会は地区大会どまりだった。以前の時間軸と同じ結果だ。二年目の今年は、出来れば県大会まで行きたい。
とはいえ、部は顧問がほぼすべてを取り仕切っていて、生徒の自主性を尊重するという感じの部活ではないため、コウキにできることは大してない。
顧問がすべてを担っている部では、顧問の力量次第で決まる。
できることと言えば、やはり女の子が多いので対立が起きやすいため、その間に入って問題を解決する事だった。
生徒同士の不和は音にも出るし、練習の精度を落とす。
それは避けたかった。
自分の練習も、今日のように、とにかく暇さえあれば取るようにしている。
以前は、家でゲームばかりしていた。それで夜更かしも頻繁だったし、朝練はいつもギリギリだった。
同じことは繰り返さない。
今はゲームもテレビも自宅では触らないし、早寝早起きの習慣が身についていたので、朝練は一番に入って練習している。夕練も、部活が終了して多くの部員が帰宅する中、一人残って自主練を続けた。
これで上手くなれるかは分からない。だが、一秒でも長く集中して吹き続ける事くらいしか、上達する方法は思い浮かばなかった。
帰宅する途中で、自宅ではなく洋子の家に寄る。今日は洋子の家で集まる日だった。
洋子と拓也とは、約束した通り、中学に上がっても三人でよく学校の後に会っている。小学生の洋子を夜に出歩かせるわけにはいかないため、平日はもっぱら洋子の家にコウキと拓也が行く事が多かったのだが、洋子の家族はいつも歓迎してくれた。
インターホンを鳴らすと、すぐに扉が開いて洋子が出てくる。
「いらっしゃい!」
六年生になって、洋子は背が伸び大人っぽくなった。髪も伸ばし始めて女の子らしさも増している。一層可愛くなったように思う。
真夏ということもあって、薄着をしている。
「お邪魔します」
「早く早く!」
洋子に急かされて、慌てて中へ入り靴を脱ぐ。
拓也の靴がある。もう先に来ているようだ。
「お母さん、コウキ君来たよ!」
「いらっしゃーい」
洋子の母は、夕飯の準備をしていた。
「今日もすみません、お邪魔します」
「良いの良いの、ゆっくりしててね」
家に上がる度に夕飯まで食べさせてもらっているが、洋子の親には一度も嫌な顔をされた事はない。仕事の関係で夜の就寝も朝の出勤も早いらしく、遅くまでいる事は出来ないが、それでも洋子との時間を過ごすのには十分すぎるほどだ。
母親への挨拶をしている最中にも洋子に引っ張られ、居間のソファまで連れていかれる。
「おー、お疲れ」
ソファに座って携帯を見ていた拓也が、声をかけてくる。
「お疲れ」
鞄を下ろし、拓也の隣に座った。
拓也は中学でサッカー部に入った。結構活躍しているようだし、今ではコウキより身長も高くなって、さわやかな容姿になり、女の子に結構モテるようになっている。
だが相変わらず本人は恋愛事に興味はなく、カードゲームやテレビゲームに夢中で、彼女ができる気配は一切ない。
見た目は変わっても拓也は拓也で、それは嬉しかった。
「今日はどうだった?」
隣に座った洋子が、満面の笑みを浮かべながら問いかけてくる。
「いつも通り。もうすぐ大会だからかちょっと皆ピリピリしてるかな」
集まったら、いつもそれぞれの学校の話などをする。大した事のない話でも、三人で話していると楽しいのだ。
「大会って何日?」
「二十五日だよ」
吹奏楽のコンクールの地区大会は、毎年七月の後半に開催される。夏休みに入ってからすぐだ。
地区大会、県大会、支部大会を経て、東京で開催される全国大会が最高峰であり、日本中から、プロ顔負けの演奏をする学校が集まって、金賞を目指して音楽を競う。
中学生高校生の吹奏楽部員にとって、吹奏楽コンクールの全国大会は憧れであり、そこに至る道は険しい。地区大会でも、近隣の何十もの学校が出場するのだ。
コウキも、以前の時間軸では、一度も地区大会を突破する事すら出来なかった。
「応援行くからね!」
「ほんと? ありがと」
微笑み返して、洋子の頭を撫でる。洋子の髪は、成長しても艶やかでさらさらとしたままだった。絹のような、という表現がぴったりの髪だ。
嬉しそうにしている洋子の姿にも、心が癒される。
「二十五日なら俺も休みだし、今年は行こうかな」
携帯を見ていた拓也がぽつりと呟いた。
去年はサッカー部が忙しくて、拓也は応援には来られなかったのだ。
「マジ? 来てよ」
「じゃあ拓也君も一緒に行こ」
拓也を見ながら洋子が言った。
「え、いいの?」
「いいよね、お母さん!」
料理を作っている母親のほうを向いて、洋子が声をかける。
母親は対面式のキッチンからこちらを見つつ頷いた。
「いいよー」
「ありがとうございます! 助かります!」
この地区の地区大会は、二つ隣の市の文化会館で開催される。電車は乗り継ぎが多いし、近隣の花火大会などのイベントと日にちが重なることも多く、車での移動が一番楽だ。
一緒に行ったほうが何かと好都合だろう。
こちらに向きなおって、洋子が笑いかけてくる。
「だって。みんなで応援するから、頑張ってね、コウキ君!」
「頑張ってね、コウキ君!」
洋子の物まねを拓也がしたので、怒った洋子の拳が拓也の肩を打った。
その様子がおかしくて、思わず笑ってしまう。
以前は大会だからといって、誰かが応援に来てくれる事はなかった。地区大会というと聞こえは良いが、要は一番下の大会だ。どの学校でも出られる一番最初の大会なので、家族であっても別に来たがってくれなかった。それも当たり前だと思っていた。
だが、今はこうしてそばで見ていてくれる人がいる。
一通り互いの話が終わると、洋子がコウキと拓也の足の上に身体をどっさりと乗せてきた。体重が足にかかるが、やはりまだまだ小学生だと軽い。わずか二年しか違わなくても、身体の大きさは大分違う。
「あー私も早く中学に行きたいなー。私も吹奏楽部に入るんだ!」
「あれ、バドミントンクラブは?」
「別にバドが一番好きってわけじゃないよ。コウキ君と同じ部活が良い!」
洋子は四年の時からクラブ活動はバドミントンだ。てっきり中学でもバドミントン部に入るのかと思っていた。
身体をくねらせて仰向けになり、コウキを見上げてくる。
「サッカー部もマネージャー募集してるんだけど?」
拓也が口を挟むと、洋子は口をとがらせて顔を横に向けた。
「マネージャーなんてつまんない。それに拓也君は一人でも大丈夫じゃん」
「えー、なんだそれ?」
「どういうこと?」
二人にそろって聞かれて、洋子は考えるような仕草をしながら言った。
「んー……えっと、拓也君はいつも無理してないっていうか、ほっといても大丈夫かなぁって。でもコウキ君はたまに無理してるなって思う時があるから、そばにいてあげたいの!」
鋭いところを突かれて、どきっとする。
「そうなん?」
拓也に聞かれて、誤魔化すように笑った。
「まあ……そうかもしれないしそうじゃないかもしれないし……」
「絶対そう! たまに心配になるんだよ」
じっと洋子に見られて、思わず目をそらしてしまう。確かに、中学になってからは人間関係や部活と勉強の事などで頭がいっぱいで、パンクしそうになる時もあった。
複雑になった人間関係は、小学校の時ほど簡単に修復できなかったし、勉強も難しくなったので、忘れてしまっているところは勉強しないと、置いていかれる可能性が出てきている。
もとから頭は良いほうではなく、以前も中学から勉強についていけなった。だから同じ事にならないよう、手を抜かないようにしていた。
そこに部活動の忙しさも合わさって、確かに無理をしている時もあったとは思う。
それに洋子が気づいていた事に、驚いた。
「気にかけてくれてありがと。でも、洋子ちゃんが本当にしたい事をしたほうが良いよ。誰かのためとか、誰かに言われて、とかじゃなくてさ」
本心だった。
コウキは、自分自身がそうだからというのもあるが、本当に自分がしたいと思う事をして生きていくのが、一番大切だと思っている。
他人の顔をうかがいながら生きていく事で得る苦労やストレスと、自分のしたい事をした結果で得るそれとでは、その不快さは別物だ。
洋子は身体を起こして顔を近づけてくると、真剣な目で見つめてきた。
「自分で決めたんだよ。コウキ君の話聞いたり演奏会見たりしてて、吹奏楽部に入ってみたいとも思うようになってたし、そばにいたいんだもん」
頑として譲らないといった表情だ。意志は固そうである。
澄んだその目を見つめ返して、微笑む。
「そっか。なら、俺も一緒の部活だと嬉しいから良いけど」
そう言って、彼女の頭を撫でた。
実際、洋子が同じ部活なら楽しいだろう。
正直なところ、中学では気の許せる友人というのは出来ていなかった。友達は楽しい子達ばかりだが、自然体で気持ちを楽にして関われるという子はいない。
拓也ともクラスは離れていて、学校で会う機会は滅多にないので、部活の時間だけでも洋子がそばにいたら、随分と気持ちが違うだろう。
洋子の優しさに、胸があたたかくなった。
洋子は、他人を気に掛ける事ができる優しい子だ。今もこうしてコウキを見ていてくれる。
新しい人生で、彼女と仲良くなれた事は、一番の幸運だったかもしれない。まるで本物の妹のような、大切な存在に感じる。
そんな思いが沸き上がってきて、不意に彼女に触れたくなり、その小さな額に、自分の額をそっと合わせた。
「ありがとう」
顔を見合わせて、笑いあった。
「ご飯できたよー」
洋子の母親に声をかけられ、三人で食卓に移動した。
出来立ての料理が並んでいる。焼き魚、味噌汁、茄子のお浸しやキュウリの酢の物など、素朴な和食だ。
洋子の母親の料理は、コウキの母親に負けないくらい美味い。
食事も進み料理が半分ほどになった頃、会話をする洋子と拓也の話を聞きながら、ふと、先ほど洋子にしたアドバイスを思い返していた。
小学校を卒業し、私立へ進学していった大村美奈にも、似たようなアドバイスをしたのだった。私立を受験するか公立に行くか悩んでいた彼女は、自分のしたい事を、と考えて私立を選んだ。
コウキがこの時間軸に戻って来てから、初めて異性として好意を持った女の子だった。
卒業して以来、彼女とは連絡を取っていない。家はそんなに離れていないのだが、会う事も全くなかった。きっと、勉強と塾で忙しい日々を送っているだろう。
折に触れて、彼女の事は思い出している。彼女と過ごした時間は、洋子と拓也と過ごした時間と同じくらいコウキにとって大切なものだった。
会えるならもう一度会いたいと思う。だが、自分から連絡を取ろうとは思わない。
たとえ会えたとしても、その時限りだろう。コウキと美奈は、生活のリズムが違いすぎる。会えない中で、互いの気持ちを維持するのは、難しい。
物思いに耽っていると、箸が止まっていたらしい。洋子に顔を覗かれて、はっとした。
「どうしたの、コウキ君?」
「ごめん、ぼーっとしてたわ」
考えを振り払い、慌てて食事を再開する。
「疲れてんの?」
拓也に心配されたが、首を横に振って笑った。
今は、考えても仕方のない事だった。




