八ノ十四 「憧れの部」
両親からは、九月で吹奏楽部を辞めろ、と何度も言われていた。受験に集中するべきだ、いつまでも遊んでいるな、不合格は許さないと、顔を合わせる度に、くだらない話をされている。
未来はそれが嫌で、最近では、自室で夕飯を食べるようにしていた。勉強に集中するから、と言えば、親は文句を言わない。
未来は、遊びで吹奏楽部に参加していない。本気で打ち込んでいるし、クラリネットは、未来にとって力を注ぐに値する、大切なものなのだ。遊びと言われる度に、未来の中で不満が蓄積されていた。
今日も、いつになったら辞めるのだ、と帰宅するなり父親に言われた。辞めない、と返すと、一時間近く説教をされた。それが未来の受験勉強の時間を削っていることに、父親は気づいていない。
受験をないがしろにしているつもりはなかった。吹奏楽部に費やす時間以外は、全て勉強にあててきた。他の誘惑に一切負けず、この三年間、ずっと吹奏楽と勉強だけに費やしてきたのだ。
親に、あれこれと言われたくない。自分の将来は、自分で決める。良い大学に行こうとしているのも、自分でそうするべきだと思ったからであって、たまたま親の望む進路と重なっているに過ぎない。
両親は、それを勘違いしている。未来は自分のために生きている。親のために生きていない。
こんこん、と扉を叩く音が聞こえた。
「どうぞ」
「お姉ちゃん」
扉を開けて入ってきたのは、妹のかこだった。
「どうしたの?」
「ここにいても良い?」
声色がいつもと違う気がして、振り向いてその顔を見た。
「良いけど。どうしたの、珍しいじゃん」
「最近、お姉ちゃんと話せてないから」
確かに、最近は帰宅したらすぐに自室にこもっていたため、かこと話すのは久しぶりだった。
「良いよ、おいで」
嬉しそうな顔をして、かこが未来のベッドに飛び乗る。
「ねえ、花田高も音楽の祭典、出るよね?」
かこは中学二年生だ。未来と同じで、吹奏楽部でクラリネットを吹いている。
「出るよ」
「何やるの?」
「まだ決まってないけど、多分『アルセナール』はやるんじゃないかな」
「かこ、『アルセナール』好き」
「私もだよ。花田の定番だし」
「かこも、早く花田高で吹きたいなぁ」
かこは、未来と同じ花田高に進学したいと言っていた。吹奏楽部に入るためだ。東海大会の演奏を聴いて、自分も花田高で吹きたいと思うようになったらしい。
当然、未来の時と同じように、両親は反対している。花田高は、この地域でも最低レベルの学力の学校である。未来が進学をしようと決めた時も、親は勿論、教師からも反対された。未来の学力で行く学校ではない、と。
未来は、吹奏楽も勉強も両立させたかった。花田町には高校は花田高しかなく、他の町の高校へ進学すると、確実に電車通学になり、時間のロスが生まれてしまう。それが嫌だった。花田高は、近いという理由で選んだ。吹奏楽も、まあ強豪と言って良いレベルだと思ったからだ。近ければ、それだけ移動に時間を使わないで済む。
その選択は、間違っていなかったと思っている。学力が低いと言っても、花田高の進学クラスはそれなりに受験対策もしっかりしている。それに、勉強はどこであろうと出来る。
「かこが入る頃には、うちの吹部はもっと凄くなってるかもね」
「全国大会、行けるかな? かこ、一度で良いから行ってみたい」
「私達も、今年は本当に行けるかもって思った。頑張れば夢じゃないよ。私達だって、春までは全国大会なんて絶対無理だって思ったのが、あと一歩だったんだもん」
「楽しみだなぁ」
ぼふ、と枕の空気が抜ける音がした。かこが寝転がっていた。
花田高は、東海大会で金賞だった。全国大会に出場する代表には、選ばれなかった。
泣いた。泣いて泣いて、泣き疲れた。涙も出なくなったら、それで良かったのだ、と思った。
色々とあった。三年生になってから、満足の行く練習環境では無くなってイライラしたり、それが原因で綾が辞めそうになったり、蜂谷という凄い先生にレッスンしてもらえるようになったり。部の皆で、互いの気持ちを話し合ったりもした。ひまりの骨折もあった。それで、皆が一つにもなった。
どれも、常に全力だった。そして、東海大会での演奏は、心が震えるほど、感動する演奏だった。結果は悔しかったけれど、未来達の奏でた演奏は、本物だった。
それで、良い。
ずっと、結果だけを追い求めてきた。いつまでも曲を吹けない状態に苛立ちを感じたり、フレッシュコンクールで酷い順位になって絶望したり。結果に、振り回されてきた。
綾の退部騒動がきっかけで、それは違うと気づいた。結果だけを追い求めると、大切な何かを失うと、気づいた。
だから、未来は変われた。東海大会金賞という結果も、受け入れている。代表になってもならなくても、あの日、未来達が生みだした音楽の価値は変わらない。
「お父さんもお母さんも、花田なんか行くな、ってずっと言うと思う。でも、かこのやりたいようにやりなね」
それが、後悔しないで済む方法だ。未来は、そうしてきた。
「うんっ」
たまには、かことゆっくり話そうかという気に、未来はなった。少しくらい休憩しても、結果は変わらない。椅子から立ちあがって、かこの隣に寝転がった。すぐにかこがくっついてくる。
「お姉ちゃんと、一緒に吹きたいなぁ」
かことは歳が離れすぎていて、学年が被らない。だから、同じバンドで吹いたことが無かった。
「そうだね、私も、そう思う」
「ちぇ」
口を尖らせるかこの頭を、撫でた。かこが、気持ちよさそうに目を閉じる。
「私とは吹けないけど、私が教えてる子達が、花田にはいっぱいいるから。その子達と吹けるのを楽しみにしなよ」
「クラリネットは、上手い人、多い?」
「どうかな。今はまだ、かこのほうが上手いかも。でも、二年後は分かんないね」
クラリネットの一年生三人組は、もう、初心者とは呼べないレベルになっている。初めはついてこれなかった指回しも、しっかりとついてくるようになったし、音もどんどん良くなってきている。特に、夕の上達ぶりは、目を見張るほどだ。
夕は今、未来の下で、木管セクションリーダーとしての仕事を覚えている最中でもある。一年生の中で、未来が、一番任せたいと思った子だった。夕が育てば、パートも部も、きっともっと良くなる。
現に、綾と和は、夕に触発されるようにして、練習に打ち込む度合が増している。夕が、自然と部員を引っ張る人間になりつつあることが、未来は嬉しかった。
「かこが花田に入ったら、クラリネットは安泰かな」
「へへ、頑張る」
にこにこと笑うかこに、未来もそっと笑いかけた。
小学六年生の夏休みに行った花田町のプールで、初めて花田高の吹奏楽部の演奏を聴いた。その日はたまたま親がプールに行くと言い出して行っただけで、吹奏楽部のミニコンサートがあることは知らなかった。
学校にも金管楽器部というものがあって、楽器の音は知っていた。ただ、友達が吹いていた音と高校生の吹く音が、全く別物に聞こえて、理絵は驚いた。楽しそうに吹く高校生の姿が、眩しかった。
プールに泳ぎに来たはずなのに、ミニコンサートの後は親に向かって、楽器が欲しい、自分も吹きたいと、だだをこねた。あんな高いもの買えるわけがないと親に言われ、プールサイドで泣き叫んだ。
ずっと泣いていたら、片付けをしていた吹奏楽部の人がそばに来て、楽器を吹かせてくれた。楽器は、トロンボーンだった。
当然音は出なくて、その女の人は言った。
「中学校なら、大抵吹奏楽部があるから。そこでたくさん練習して、上手くなったらもう一度お父さんお母さんにお願いしてみな」
綺麗な人だと思った。格好良い人だと思った。午後の二回目のミニコンサートは、最前列で聴いた。あの女の人の音だけを聞き逃すまいと、耳を傾けた。目が合うと、彼女は手を振ってくれた。あの人に憧れた。トロンボーンに憧れた。そして、花田高に憧れた。
小学校を卒業して、中学校で吹奏楽部に入った。ユーフォニアムに配属されそうになったのを拒否して、トロンボーンにしてもらった。
思い出すのはあの人の音と、花田高のミニコンサートだった。それを目標に、練習を続けた。毎年、定期演奏会もプールコンサートも、花田高の演奏会は全て観に行った。
進路を考える時期がきて、迷うことなく、花田高を選んだ。自分が吹くべき場所は、花田高しかないと思っていた。あのプールの日から、ずっと追いかけてきた花田高に入学して、吹奏楽部に入った。
想像していた通りの、眩しい世界だった。上級生との軋轢はあったけれど、そんなものは関係無かった。全員が部に対して真剣だから起きたことだったのだと、理絵は思っていた。
花田高の吹奏楽部に入れた。それが、理絵にとって誇りであり、喜びだった。この部のために、自分の全てをかける。そういう想いでやってきた。
同期の摩耶も、部に対する想いが強い子だった。だから、摩耶が部長で、理絵が副部長。それが完璧にはまると思ったから、立候補して副部長になった。
もうすぐ、花田高の吹奏楽部に入部して初めての定期演奏会という時に、同期の月音が、喫煙騒動で退部した。理絵は、信じられなかった。月音は同期の中で一番上手い子だった。吹奏楽を、トランペットを、誰よりも愛している子だった。
問い詰めたけれど、月音は何も言わず、そのまま去った。上級生との問題というつまらないことで、吹奏楽と楽器を手放した。
仲間だと思っていたのに。
月音に、失望した。
月音だけではなかった。一緒に頑張ろうと誓いあった仲間が、何人も退部した。結局、皆本気ではなかったのだ。
それなのに。月音が、再び入部したいと言い出した。コウキから、それを聞いた。
ふざけるな、という気持ちだった。一度は吹奏楽部を捨て、しかも喫煙という事件を起こした人間が、どの面を下げてもう一度入りたいと言うのだ。
全員の前で、月音とコウキが演奏を披露することになった。奏馬には、逆らえなかった。あの女の人同様、奏馬も、理絵にとっては花田高を体現する憧れの人だったからだ。けれど、誰に何を言われようと、理絵は、月音を認めるつもりはない。
「理絵先輩、アーバンやりましょう」
いつのまにか、新しくペアになった美喜が後ろに立っていた。
「あ、うん」
前のペアは、部全体の技術の底上げを目的とした組まれ方だったと思う。未熟な子を上手い子が観る。そういう組み合わせだった。
今回は、上手い子を更に上手くするための組み合わせだった。
美喜は、恐らく今後、トロンボーンパートの柱になる。今はまだ理絵のほうが上手くても、来年は分からない。その美喜を成長させるために、学生指導者達は理絵と美喜をペアにしたのだろう。
美喜が自分より上手くなろうと、構わない。それが結果的に部にとってプラスになるのなら、喜んで自分の技術を美喜に伝える。そういうつもりで理絵はいた。
ペアになってからは、金管楽器向けの教則本を使って、個人練習の仕方を教えていた。自己流で上手くなってきた子だから、基礎をもっと重点的にやってもらうためだ。
一時間ほど、美喜と教本を使って吹いた。ただ吹くのではなく、何故こう吹くのか。今出した音はどうだったか。次はどうするか。そうやって、頭で考えながら吹くことを意識させる。ただ吹くだけでは、意味がない。上達するために音への要求度を高めて練習することが、基礎練習では何よりも大切で、美喜にはそれをくどいくらい言ってきかせた。
「少し休憩しよう」
「はーい」
管内に溜まった水分を、足元の雑巾に抜いた。金管楽器は吹いているうちに、管内に水が溜まっていく。水分が溜まり過ぎると、管内の空気の振動を妨げて音が震えたりするから、定期的に水抜き部分から抜くのだ。
「ねえ理絵先輩。月音先輩って、どういう人なんですか?」
「え、何急に」
「戻ってくるかもしれないんですよね」
「……さあ」
「今聴こえてくる音が、月音先輩なんでしょう?」
二人で、美術室にいた。
下の階から、二本のトランペットの音が聴こえてくるのは気がついていた。
一本は、コウキの音だ。まっすぐで、芯のある音。もう一本は、輝くような明るい音。月音の音。理絵が認めていた、あの音だ。
「退部した後も、楽器吹いてたってことですよね。めちゃくちゃ綺麗ですもんね、音」
美喜が、他人の音を褒めるのは珍しい。楽器を半年以上吹いていなかったとしたら、あんな音は出せないだろう。美喜の言う通り、月音はずっとトランペットを続けていたのかもしれない。
慌てて、頭を振った。そんなことはどうでもいい。月音が吹奏楽部を捨てたのは、変わらない。
「月音先輩が入ったら、トランペットパートもっと上手くなりそうですね」
「私は、絶対認めないよ。月音が戻ってくるなんて、ありえない」
美喜が驚いた顔を見せた。それから、遠慮がちに尋ねてくる。
「喫煙のことがあったから、ですか?」
「そうだよ。部を、危険に晒した。許せないよ」
自分だけの問題ではない。それが発覚することで、他の皆も巻き込むことになったかもしれないのだ。その自覚がなく、月音は軽率な行動をした。
「でも……月音先輩は、喫煙してなかったんですよね」
「そばにいたら、同じ」
美喜が、首を傾げた。
「それは、違うんじゃないですか?」
美喜を睨む。
「なんで?」
ひるまずに、美喜が返してきた。
「人殺しの傍にいたから、その人も人殺し、って言ってるのと同じですよ、それ。人殺しの手伝いをしてたのならそうかもしれないですけど、たまたまそこにいただけなら、人殺しとは言えないんじゃないですか」
言葉に詰まった。
「脅されてそばにいたのかもしれないし、たまたま通りがかったのかもしれないし、話してたら急に相手が吸いだしたのかもしれないし、事情は分からないけど、事実としてあるのは、月音さんは吸ってなかった、ってことだけじゃないですか?」
理絵は、勢いよく立ち上がった。その拍子に、椅子が地面とこすれて嫌な音を立てた。
「もう、練習終わり。あとは個人練で頑張って!」
美喜の声を聞きたくなくて、足早に美術室を出た。
「違う、違う」
呟いていた。月音は、部を捨てたのだ。理絵達を、捨てたのだ。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
まだ聴こえてくるトランペットの音を聴きたくなくて、廊下を走った。音が、遠くなっていった。




