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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校一年生・秋編
128/444

八ノ六 「最高の舞台」

 寝苦しさで、目を覚ました。

 布団をはいで起き上がると、ティーシャツに汗がにじんでいた。何か、夢を見ていた気がする。どんな夢だったかは、思い出せない。

 

 水が飲みたい。窓から差し込む月明りで、枕元に置いていた鞄を探る。取り出した水筒を揺すってみたが、空だ。ホール練習で飲み切ったのを思い出して、智美は髪の毛をぐしゃりとかき乱した。


 立ち上がるのは億劫だが、浴場の前にしか水飲み場は無かった。あそこに行くしかない。

 仕方なく、眠っている部員をふみつけないよう気をつけながら、部屋を抜け出した。


 廊下も電気が消えていて、薄暗い。記憶を頼りに歩き、浴場の前までたどり着く。隣に鎮座している自販機の明かりが、眩しい。手で陰を作って明かりを避けながら、水飲み場で、一息に水を飲んだ。


「はあっ」


 大きく息を吐いて、口元をタオルで拭う。

 普段は、夜中に目覚めることなど無い。身体は疲れ切っていたのに、それでも目が覚めたのは、明日の本番を前にして緊張しているからだろうか。


 地区大会、県大会、県代表選考会と、コンクールを経験してきた。何度出ても、まだ慣れない。千人近い観客の前で、審査を受けるのだ。自分が間違えれば、それが原因で代表を逃すかもしれない。その恐怖に負けないように吹く難しさは、陸上部の時に感じていた緊張とは、また違う感覚だった。

 コウキからは、失敗を恐れるな、とくどいくらいに言われている。


「失敗しないようにって意識した瞬間、頭の中では無意識に失敗した自分の姿を思い浮かべることになる。だから、失敗する。失敗しても良いんだ。自分達の音楽を奏でる方が大事なんだから」


 言われてみれば、失敗しないようにと考えると、逆にその姿を想像してしまって、否定しようとする自分がいた。コウキに教えてもらってからは、なるべく否定的な思考で吹かないように気をつけてきた。

 それでも、やはり本番だけは、少なからず意識してしまう。

 花田高が全国大会へ行けるかどうかが決まる、重大な場面だ。意識するなというほうが、難しい気がする。


「あれ、智美」


 暗がりから、ティーシャツに短パン姿のコウキが現れた。


「智美も起きたのか」

「ん、水が飲みたくて」

「一緒だな」


 そう言って、コウキは水を飲みだした。自販機の明かりに照らされて、水を飲み込むたびに喉が動いているのが見える。男の子なのに、コウキはほっそりとしている。


「緊張してるのか?」

「んー、うん」


 タオルで口元を拭い、コウキが微笑んだ。


「大丈夫さ、俺達なら」

「でもさ、どこの学校も、きっと上手いよ」

「かもな」

「花田は、代表になれるかな」

「なるんだよ」


 短い返答だ。もっと、励ますような言葉が欲しいのに。


「ひまり先輩を、連れていきたい」

「俺もだ」

「今日の最後の通し、良かったよね?」

「うん。最高だったと思う」


 吹いていて、智美は胸に来るものがあった。

 皆が時折言っていた、一体感という言葉。それが、初めて理解できた瞬間だった。

 演奏が一つになって、全員の意思が混ざり合ったのではないかと錯覚するような、溶け合う感覚。心がふわふわとしてくるような、高揚感。耳にも、頭にも、心にも、身体の全てに響いてくる、気持ちの良い音。

 そういうものが、あの通し演奏からは感じられた。


 ひまりは、泣いていた。彼女が泣く姿を見たのは、初めてだった。

 これまで、ひまりにはどこか不安定さを感じる部分があった。それが気になって、何度か話をしようと試みたものの、毎回拒絶されていた。心に踏み込まれたくないというような、壁を作られていたのだ。


 そのひまりが、泣いていた。智美達の演奏が、ひまりの心を動かしたのだろうか。


「……だと良いな」

「え?」

「いや、ひまり先輩が、私達に心を開いてくれるようになったら、良いな、って」

「……そうだな」


 コウキが、腕を組んで、うつむいた。


「先輩は、多分、家庭に問題がある」

「……え?」

「何となく、そう感じる。どういう問題かは分からないけど、何かがある」


 智美も、何となく骨折の原因は家にあるのではないかと思っていた。


「でも、話してもらえない」


 コウキでも、ひまりの心の壁は壊せないのか。


「あきらめないけどな。ひまり先輩は、俺たち吹部にとって大切な人だ。その人の悩みを、一人で抱えさせてちゃいけない」

「……うん」


 智美も、陸上部の時は一人で悩んでいた。そこに、コウキが手を差し伸べてくれた。だから今、毎日が楽しいと感じていられる。

 一人では、どうなっていたか分からない。


 ひまりにも、もし本当に問題があるのなら、助けてあげたい。

 一人で悩まないで、頼って欲しい。


「どうしたら、心を開いてもらえるんだろう」

「分からない。でも、不可能じゃない。今日、ひまり先輩は泣いてた」

「うん」

「俺達の演奏が、先輩の心を動かしたんだ」

「やっぱり、そうかな」

「そうだよ。だから、出来る」


 コウキが言うなら、きっとそうだ。

 コウキの言葉は、いつも智美に勇気をくれる。自信をくれる。特別な言葉ではないのに、胸にすっと入り込んでくる。


「頑張ろ」

「ああ」

「絶対、全国も行こうね」

「うん」


 自販機が、重たい音を立てて唸りだした。

 












 会場の駐車場に、バスが整然と並んでいる。コンクールに出場するため、各学校の生徒が乗ってきたものだ。一般客の車も止めきれないほどで、係員が臨時駐車場の案内をしているのが車内から見えた。


「着いたら、まずは搬入時間に裏に行って楽器おろすよ。それから、準備ね。私達は、愛知県の代表として来てる。周りの人が、私達の姿を見てる。気を引き締めて行こう」

 

 晴子の言葉に、全員で返事をした。駐車場にバスが止まり、下りた。日差しと、バスの吐く熱と、アスファルトの熱とが同時に襲ってきて、むっとする。

 会場に続く正面の広い道を見ると、出場する学校がいくつも集団を作って立ち止まっているのが見えた。


「あ、安川高校だ」

「あれ、三重の星南高校だよね」

「長野の上西だ。ブレザーかっこいー」

「おい、ちょっと皆、止まって」


 奏馬が言った。すぐに全員止まって、道の脇に集まる。


「俺達、アイドルのコンサートに来てるんじゃないんだぞ。堂々としてろよ。花田高だって、他の学校と同じ県代表なんだ。今からその調子じゃ、負けるぞ」


 部員達の空気が、固まった。


「そうだよ、皆。周り見てみて」


 晴子が言った。


「私達だって、見られてる。一緒だよ、私達も。自信持って行こ」

「はい!」


 丘と涼子が頷きあっている。

 再び歩き出し、ロビーの空いている一角に固まって集まった。すでにコンクールは始まっていて、ホール内の演奏が、スピーカーから聞こえてくる。ロビーの端の方では、録音と録画されたばかりの演奏が、CDとDVDとして予約受付されており、保護者らしき人達が行列を作っている。


「それじゃあ、智美ちゃんとひまりちゃんは荷物番お願いね。他の子は、楽器を下ろしに行くよ」

「はい!」


 去って行く部員。ひまりと、並んで立つ。微妙な距離感が、今の二人の関係性を表しているようだ、と智美は思った。

 ロビーの喧噪が、無言の気まずさをかき消してくれる。今はそれがありがたい。


「智美ちゃん」


 不意に、ひまりが話しかけてきた。


「は、はい?」

「本番、頑張ってね」


 こちらを向いて、ひまりが笑った。


「あ……はい! 聴いててくださいね。昨日くらい凄い演奏、してみせます」

「楽しみ。もう一回、聴きたいな」


 柔らかな笑顔だ。骨折してからのひまりは、いつも怖い顔をしていた。コウキが言った通り、昨日の演奏が、ひまりの心を動かしたのかもしれない。


「先輩」

「うん?」

「私、先輩の力になりたいです」

「……うん?」


 身体ごとひまりに向き、まっすぐにその目を見つめた。


「今日のコンクールが終わったら、先輩の悩み、聞かせてください」

「え……悩み、なんて」

「嘘。あるはずです。私、先輩を助けたい。私だけじゃない。部の皆が、先輩のこと、本当に大切に思ってます。一人で抱え込まないでください」


 目を見開いたまま、ひまりが固まっている。

 それから、数度瞬きをした後、ひまりが微笑んだ。困ったような表情だ、と智美は思った。


「ありがと」

「本気ですよ、私。今日の演奏、絶対客席で聴いてくださいね。星子ちゃんみたいに上手くないけど、私も、先輩に想いを伝えますから」

「……わかった」


 ひまりの抱える問題の大きさも、今は知らない。それでも、助けたいという気持ちは本物だ。ひまりの時折見せる陰を、消したい。


「全国、行きましょう」


 ひまりが、静かに頷いた。

















 リハーサル室での通し演奏が終わった。

 本番前、最後の合わせだった。狭い室内に、部員と丘、卒部生数人が入っている。


「佐方、時間は」

「十一分四十九秒です」


 十二分に、ぎりぎり収まっている。アクシデントさえなければ、本番でも大丈夫だろう。

 ソロの手ごたえも、良かった。


 集中力は、昨日から冴え渡っている。自分でも驚くほど、音が乗っている。これなら、本番でも最高の演奏が出来るはずだ、と星子は思った。


「では、そろそろ時間でしょう。藤、相沢、何か、話しておきたいことはありますか?」


 丘が言った。束の間、晴子が沈黙して、それから部員の方に身体を向けた。


「私達の演奏なら、絶対に全国に行ける。楽しんで吹こう!」


 おー。

 部員のあげた気勢に、丘が微笑んだ。


「奏馬は?」

 

 部員が、奏馬の方を見る。


「ここまで来れて、俺は嬉しい。でも、終わりじゃない。もう一つ、進もう。ひまりちゃんのために。そして、俺達のために」

「はい!」


 二人とも、短い、けれど、十分すぎる程の決意の言葉だった。

 初めの頃は、晴子は頼りない部長に見えたし、奏馬は無愛想で冷たい人に見えた。何故この二人がリーダーなのだろうとも思った。けれど、共に過ごす時間が増える程に、二人は今の花田高にとって最高のリーダーなのだと感じるようになった。

 星子が認められる人は、少ない。二人は、今ではその少ないうちに入っている。


「佐方は、何か言いたいことはありませんか。皆、貴方の言葉が聞きたいはずです」

「え、私、ですか」


 驚いた様子を見せるひまりに、梨奈が声をかけた。


「聞きたい!」

「私も、聞きたい」

 

 牧絵が言った。星子も、頷いた。

 うつむいて、ひまりは思案するような表情を見せた。全員、黙ってその言葉を待つ。


「……皆の演奏、最高です」


 ひまりが言った。


「私にとって、昨日の演奏は、本当に特別なものになりました。もう一度、あの演奏を、聴かせてください。客席で、見守ってます」

「はい!」


 全員で、答えた。

 ちょうど、リハーサルの終了時間が来た。扉が開いて、係の人が声をかけてくる。


「では、行きましょう」


 順番に、部屋を出ていく。牧絵と目が合った。互いに、頷いた。

 通路を抜けて、舞台裏へ入る。

 反響板越しに、音の圧力がぶつかってきた。前の学校の演奏だ。力強い、爆音とでも言うような演奏。それなのに、音の粒がはっきりとしている。

 

「うっま……」

 

 フルートの同期の佐奈が、不安げに言った。牧絵が、大丈夫、と言っている。

 星子は、目を閉じて呼吸を整えた。


 前の学校がどうかなど、今の自分には関係ない。ただ、自分ならではの演奏をする。客席にいるひまりに、届ける。それが、全てだ。

 その想いを得てから、星子の演奏は、がらりと変わった。自分でも驚くほど、豊かな表現が出来るようになった。

 迷いはない。


 最後の一音が鳴り響き、盛大な拍手が打ち鳴らされる。しばらくして、反響板扉が開き、係員から中へどうぞ、という合図が出された。


 順番に、扉をくぐっていく。薄暗かった舞台裏に、舞台上の明かりが差し込んでくる。ちらりと見える客席は、完全に埋まっている。あのどこかに、ひまりがいる。

 自分の番が来て、星子は扉をくぐった。眩しさと、暑さを感じた。そのまま、自分の席まで向かい、座った。


 配置が確認され、全員が腰をおろした。会場が、徐々に静まっていく。観客に背を向けてこちら側を見ていた丘が、一人一人と目を合わせ、頷いた。

 ブザーが鳴る。アナウンスで、校名と演奏曲、丘の名前が告げられる。打ち鳴らされる拍手。


 そして、静寂。

 丘が、指揮台に上がった。指揮棒が、構えられる。空気が、変わる。

 

 『架空の伝説のための前奏曲』が、始まった。

 良い出だしだ、と星子は思った。初めて吹くホールでも馴染んでいるし、今まで積み重ねてきた全てが、表現しきれている。

 順調に、曲が進んでいく。星子は、丘から目を離さなかった。丘のどんな小さな要求も、全て見逃さないようにと。

 丘の目が、訴えかけてくる。もっと、もっと。いつもより激しい指揮が、星子の気持ちを昂らせていく。クライマックスの六連符が、寸分の狂いもなく、完璧に決まった。

 曲間のアクシデントも無く、良い流れで『歌劇「トゥーランドット」より』へと移った。


 これまで、どれだけの時間をこの曲へ費やしてきただろう。学校でも家でも、毎日だった。

 全ては、今この時のためにあったのだ。

 丘と目が合う。いけるか。いけます。言葉を介さなくても、互いの意思は伝わり合った。

 ソロが、くる。


 始まる前に、舞台裏で丘が声をかけてきた。


「ソロは、貴方に合わせます。私も、部員も。貴方の思うように吹きなさい」


 皆が、星子を信頼してくれている。全て、この時のために積み重ねてきた。

 思い切り、吹こう。

 星子の放つ音が、ホール内に響き渡った。星子のソロに、ぴったりと全員が合わせてくる。昨日の最後の通し演奏よりも、さらに溶け合っていた。気持ちが良い、と星子は思った。

 想いの、全てを、音に乗せた。ただ、ひまりのために。


 気がつくと、リードを口から離し、ホールの天井を見上げていた。満員の客席から、激しく拍手が打ち鳴らされている。拍手の大きさが、星子達の演奏の出来を物語っているように感じられた。


 全て、終わった。十二分という時間は、瞬く間に過ぎ去った。舞台裏にはけた時、星子の頬を、一筋の涙が伝った。

 何故だろう。悲しくないのに、涙が出た。昂った感情が、流させたのだろうか。

 心に、言い表しようのない、あたたかな感覚が満ちていた。

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