八ノ五 「一つに」
ホールに着くと、すぐに合奏の形に舞台上が整えられ、基礎合奏が始まった。奏馬が指揮台に立ち、ロングトーンを全員で吹いている。ひまりは、丘と涼子と一緒に、客席に座ってその様子を眺めていた。手伝いに来た卒部生の姿が見えないのは、裏で動いているからだろう。
音を、混ぜ合わせていく。奏馬の音、晴子の音、未来の音。個々の音がそうだと分からないくらいに、一つに溶け合わせていく。発音で誰か一人が飛び出すと、それが違和感となる。処理が合わなければ、音の印象が崩れる。
全員が、同じように吹く。音を調和させていく。
「次」
音階の調を変えて、再びロングトーン。
「待った」
奏馬が止めた。
「ホルン、ずれてるよ」
「はいっ」
「もう一度」
ハーモニーディレクターから、リズム音が鳴る。奏馬の合図で、ロングトーンを吹く。普段の基礎合奏であれば、リップスラーやアルペジオなど、様々なリズムパターンで演奏する。だが、ホール練習の時間は限られている。
基礎力の向上のための合奏というより、簡単な合わせでこのホールでの感覚を掴むことが目的だ。
音楽室や図書室、今まで演奏してきたホール。そのどれとも違う。当然、明日の本番の会場も、違う。会場の違いに戸惑わないよう、どんな場所でも音を合わせられる感覚を身につける。丘がよく言うことだった。
「終わります」
奏馬が指揮台を降りた。
「先生、お願いします」
奏馬が下がり、丘が指揮台に上がった。
「二曲、通します」
「はい!」
「佐方、計測をお願いします」
「分かりました」
ひまりは、舞台袖に立って、ストップウォッチを構えた。事前に、卒業生から時間計測の仕方を教えてもらってある。
「集中しましょう。本番だと思ってください。後ろには、満員の聴衆です。審査員が、あそこに座っています。他校が、私達の演奏を品定めしようとしています。全部、受け止めて、この時間を楽しんでください」
「はい!」
「では」
丘が、構える。使いこまれて、元の長さから大分短くなった指揮棒。譜面台をよく叩くから、どんどん折れていったのだ。丘が腕を振り続けてきた時間が、あの指揮棒に刻まれている。
静かに、指揮棒が動いた。
ホールの中は、太陽が一切見えない。頼りになる時計も客席側を向いているので、今が何時なのか、腕時計をしている丘以外には分からない。
「一度休憩しましょう。次で最後です。もう一度通して、終わります」
「はい!」
十五分の休憩が取られたが、トイレや水分補給を済ませた部員は、また自分の席に戻って楽譜と向き合っている。誰もが、もう残り少ない練習の時間を、無駄にしないようにと、真剣になっている。
あの中に、ひまりも入っていたかった。
舞台袖に用意した椅子に座りながら、ひまりは自分の右手を眺めた。忌々しい、骨折。これさえなければ。
ストップウォッチを持つ左手に力が入る。
手を叩く破裂音が聞こえて、顔を上げた。
丘が指揮台に戻っていた。音が止み、全員が丘に注目している。
「では、通します。時間もギリギリなので、通しが終わったら、すぐに撤収でしょう。その前に、一つ話しておきましょう」
丘が、一度、全員を見回した。
「私達は、誰にも恥じる必要の無いほど、努力をしてきました。今作り上げられる最高の音楽を、用意しました。後は、それを出し切るだけです。私達で、全国大会への切符を掴みましょう」
部員が、今日一日の疲れを感じさせないほど勢いのある返事をした。不意に、星子が立ち上がった。振り返って、ひまりを見つめてくる。
「ひまり先輩。私は、ひまり先輩のためにソロを吹こうと思って練習してきました。私は、普門館でひまり先輩に、ソロを吹いてほしいです。だから、それを実現させるために、最高の演奏をします。聴いててください」
息を呑んだ。今まで見たことも無い、真剣な表情。星子の、本気だった。
骨折をしてから、一度も二人きりで会話をしていなかった。星子には、重い責任を押し付けたことになる。その罪悪感もあって、向き合えなかった。それが、星子から、ひまりに向かってきた。
なら、それに答えなくてはいけない。
「……わかった」
「私達もだよ。皆、ひまりのために吹くから」
梨奈が言った。私も、俺も、僕も。何人もが、口々に、言った。
「皆で、佐方を全国へ連れていくと決意しました。佐方、時間計測は良い。この通しだけは、私達の演奏を、特等席で聴いてください」
隣に、いつの間にか卒部生が立っていた。客席の一角を指さす。コンクールにおいて、審査員が座る位置だ。
卒部生が、ひまりの手からストップウォッチを受け取り、背中をそっと押してきた。
客席に移り、ホールの一番中心、その少し後ろの辺りの席に、腰を下ろした。部員全員の様子が、はっきりと見える。
「では、いきます」
「はい!」
空気が、張りつめた。今までにないほどの静寂に、ひまりは感じた。思わず、唾を飲み込んでいた。
丘の手が揺れ、『架空の伝説のための前奏曲』が始まった。ホールが、震えている、とひまりは思った。
逸乃のソロが、耳に飛び込んでくる。摩耶の叩くスネアが軽快なリズムを発し、梨奈が、栞が、牧絵が、一つの塊となって、細かなパッセージを丁寧に繰り広げていく。乱れが無い、正確な音だ。
緊張を煽るリズムから、静かで流れるような中間部へと移っていく。牧絵のフルートが、正孝のサックスが、そして、星子のソロが、一つ一つが溶け合い、一体となる。
曲は最終局面を迎え、冒頭のメロディが繰り返される。そして、最後の六連符の洪水が、駆け抜ける。タンギングの仕方一つで、印象ががらりと変わるクライマックスで、ずっと練習してきたところだ。今、全てがぴたりとはまっていた。勢いが衰えない、完璧な六連符だった。
丘の指揮棒が空を切り、残響が消え去る。
すぐに『歌劇「トゥーランドットより」』が始まった。課題曲の空気から、がらりと世界観が変わる。
壮大なメロディが、木管群から放たれる。それを、美しい、とひまりは思った。音が、調和していた。
誰一人として、真剣でない子がいない。全員、丘をまっすぐに見つめ、その指示を見逃すまいとしている。
そして、星子のソロだった。ホール中に、星子の音が広がっていく。甘美で、切なく、訴えかけてくるようなソロ。
それは、ひまりの心を震わせた。
思わず、泣いていた。
音楽で、心を表現する。
いつまで経っても、ひまりにはそれが理解できなかった。けれど、今、星子のソロからは、確かに星子の言葉が伝わってきた。幻想ではなかった。
星子は、ソロを通して、ひまりへと語りかけてきた。これが、心を、気持ちを、表現するということか。
星子は、いつの間にか、ひまりを超えていたのだ。ひまりに到達できなかった領域に、踏み込んでいる。なのに、星子は、ひまりに吹けと伝えてきている。ひまりを超えて、なお、ひまりの音を星子は求めている。
音楽で涙を流したのは、初めてだった。
クライマックスの旋律が、押し寄せてくる。星子だけではない。全員の音から、ひまりへの想いを感じた。
丘の背中が、ひまりに目を逸らすなと言っている。
涙があふれて滲む視界で、それでも、ひまりは前を向き続けた。この瞬間を、目に、心に、焼き付けようと思った。
ひまりが腐っていた間も、他の部員は、全力で音楽に向かっていたのだ。心を震わせる演奏を、作り上げていたのだ。
ひまりは、ずっと近くに座って聴いていたはずなのに、気がつかなかった。心を閉ざして、皆の想いを感じ取ろうとしていなかった。
こんなにも、あたたかい音なのに。こんなにも、満ち足りた音なのに。
いつのまにか、演奏は終わっていた。ザッという音が響き、舞台上で、部員と丘が立ち上がって、ひまりを見ていた。
涙も嗚咽も、隠せなかった。
「ありがとう」
皆の耳に、届いたかは分からない。ただ、言わずにはいられなかった。




