八ノ二 「ひまりのために」
窓の外は暗くなりだしている。開けておくと虫が入ってくるため、英語室の窓は全て閉め切ったままで、リーダー達は顔を突き合わせていた。
向かいに座っている都が、下敷きを扇いで風を浴びている。下敷きが上下する度にバタバタと音が立ち、風で都の髪が靡く。それを、ぼんやりと梨奈は眺めた。
英語室にいる全員が、難しい顔をしている。特に、三年生の表情は冴えない。
「ヤバイよ」
未来が言った。何のことかは、すぐに分かった。ひまりの件だ。昨日、ひまりが小指を骨折してオーボエを吹けなくなったことが知らされた。東海大会はひまり抜きで出ることになり、ソロは星子の担当となった。
全部員にとって、あまりにも衝撃的な発表だった。合奏では全体のバランス調整を余儀なくされ、丘の指導の元、もう一度演奏の再構築が行われている。
それが、上手くいっていない。
部員の間に、言いようの無い不安が渦巻いているからではないか、と梨奈は考えている。ひまりはリーダーではなかったが、音でバンドを引っ張る存在の一人だった。ひまりの抜群の安定感が、バンドを支えていた。そのひまりの怪我によって、東海大会の雲行きが怪しくなったのだから、無理もない。
「どうすれば良いの、ほんとに」
未来が顔を両手で覆って、大きすぎるため息を吐き出した。その重さに、場の空気がさらに沈む。
大学で勉学に集中するため、未来は高校で吹奏楽を辞めてしまうのだという。だから、全国大会に行ける機会は、もう今年しかないのだ。
未来がどれほど吹奏楽部に捧げてきたか、同じクラリネットとして、木管セクションリーダーとして、そばで見続けてきた梨奈には、痛いほど分かる。
「皆の間に不安が広がってる」
奏馬が言った。
「どうにかしないと、どんどん音が崩れていく」
「そりゃそうですよ。あと四日しかないのに、こんなことになっちゃいましたし」
正孝の物言いが、梨奈の癇に障った。
「それ、ひまりを責めてるの?」
「え、いやそうじゃないけど」
「そう言ってるようなものじゃんっ」
ひまりは怪我をしたくてした訳ではない。正孝のような言い方は、不愉快だった。
ひまりは、見学しか出来ない。それでも、今日も部に来ていた。合奏の様子を、端に座って眺めていた。
一番苦しんでいるのはひまりだ。誰よりも熱心に練習していたのに、本番をただ外から見ているしかない。しかもバンドの音が乱れた原因が自分にあると思っている。ひまりの心のざわつきがどれほどのものか、想像に難くない。
そういうところに考えが至らない正孝の無神経さに、梨奈は腹を立てた。
梨奈、ひまり、栞、牧絵の四人は、全員中学校は別で、花田高で一緒になった。二つ上の上級生との衝突で、同期が数人辞めた時も、部に残った組だった。同じ木管ということもあり、残った四人で、意気投合した。二つ上の上級生はもうすぐいなくなるから、それまで我慢しよう、と四人で励まし合った。
苦労を共にしてきた仲だからこそ、今の状況で、ひまりを責めるような人間がいることが、梨奈には許せない。
「発言、良いですか」
重たい沈黙を破って、コウキが言った。全員の視線が、そちらへ向く。
「良いよ」
晴子が言うと、ちょっと頷いて、コウキが一人一人を見回した。
「今、俺達は、目先の東海大会だけじゃなく、一年先、二年先まで影響を残すかもしれない問題に当たってると思います」
「どういうこと?」
「今、この状況が一番辛いのは、ひまり先輩と星子さんですよね。二人とも、強く責任を感じてるはずです。なのに周りが焦りや動揺を感じている様子を見せ続ければ、二人は更にプレッシャーを感じるんじゃないでしょうか。対応を間違えたら、二人は心に深い傷を負ってずっと引きずるかもしれない。それって、一番最悪じゃないですか?」
コウキの発言に、正孝や未来がばつの悪そうな顔をした。
「今俺達に出来るのは、いつも通りでいることだと思います。ひまり先輩を腫物のように扱わず、星子さんを特別扱いもせず、ただいつも通り練習を続ける。オーボエの二人が乗り越えられるかは、二人の問題だ。他の人間は、二人に余計な負担をかけず、ただ信じて待つ。それが最善だと俺は思います。それに、星子さんのソロにすべてを託すんですか? 一人一人の音が、このバンドを作ってるんじゃないですか? 俺達こそ、今のバンドの音をもっと良くするために、集中すべきだと思います」
再び、沈黙が流れる。
時折、窓にこつん、こつん、と何かが当たる音がする。カナブンが、光に吸い寄せられて窓にぶつかるのだ。
コウキはリーダー会議では積極的に発言する。そしてその言葉は、いつも的確だ。自分が一年生だった時は、緊張してほとんど発言など出来なかった。
コウキのことは、一年生の中でも特に認めている。彼がリーダー決めで学生指導者に立候補した時は、諸手を挙げて賛成したし、コウキ以外に適任者は居ないとすら思っていた。
「……確かに、そうだな。焦ったら、結果が良くなる訳じゃない。星子ちゃんを信じるしかないわな」
「私達、知らないうちに態度で二人を責めてたのかもね」
奏馬と晴子が言った。
「皆、不安になるのは、当然です。でも、こういう時だからこそ、大丈夫って口に出すのは大切だと思います。ひまり先輩のためにも、動揺してる暇なんてないですよ。むしろ俺達で、ひまり先輩を全国に連れていきましょうよ」
その言葉に、梨奈は、はっとさせられた。同時に、立ち上がっていた。勢いよく立った拍子に、椅子が地面とこすれて音を立てた。
「そう、そうだよ。私達で、ひまりを全国に連れていくんだ」
靄のようなものに覆われていた頭が、すっきりとしたような感覚だった。コウキの言葉が、梨奈の中の迷いを消し去っていた。
「もし私達が東海大会で終わったら、ひまりはもっと自分を責める。私達で、ひまりを普門館の舞台に立たせてあげる。それが、私達からひまりに出来ることなんだ」
「そうです、梨奈先輩」
コウキが、大きく頷いた。
「皆にも伝えましょう、晴子先輩。コウキ君の言う通り、動揺してる暇なんてない。やらなきゃ」
ひまりは、よく全国大会に行きたいと言うようになっていた。春頃までは、一言も口にしていなかったどころか、今年は無理かも、と諦めたような言葉を吐いていたのに。
梨奈も、似たような想いだった。春頃の花田高は、酷いレベルだった。二つ上の上級生との衝突で、今の二年生と三年生から何人も退部者が出た。実力的にバンドの中核となる存在だった子達が多く、バンドの力量はかなり落ちた。
だから、ひまりが諦めを感じるのも無理はなかった。それが、フレッシュコンクールの後くらいから、見る見るうちに変わっていった。もしかしたら全国大会に行けるかもしれない、という夢を見られるまでになった。
期待が膨らんでいたのに、骨折で出られなくなってしまった。ひまりは悔しいはずだ。平静を装っているけれど、内心では相当苦しんでいるに違いない。
そのひまりを安心させるためには、他の四十人で、全国大会への切符をつかむことだ。そして、ひまりを全国大会の舞台、東京の普門館に立たせる。
なぜ、こんな簡単なことに、もっと早く気がつかなかったのだろうか。
「うん……そうだね。明日、ミーティングを開こう。ひまりちゃんの目の前で話すと、気を遣われてると思って逆に嫌がるかも。ミーティングの間、ひまりちゃんに誰か一人ついてて、その間に、ってことでどうかな」
晴子が言って、奏馬が答えた。
「それで、良いと思う」
「決まりだね」
ひまりには、梨奈がつくことになった。
「コウキ君」
リーダー会議が終わった後、出て行こうとするコウキを呼び止めた。
「何ですか?」
「ありがとね。コウキ君の話で、視界がクリアになったみたいな気がした。迷いみたいなものが消えた」
「ん、役に立ったなら、良かったです」
「呼び止めてごめんね、練習頑張って」
「はい」
英語室を出て行くコウキの背中を見送った。
ひまりはどうしているだろう。まだ、残っているだろうか。探してみよう。何かかけられる言葉があるわけではないけれど、何となく、ひまりと話したい、と思った。
机に置いていたクラリネットを持ち、梨奈は英語室を出た。
ひまりの演奏は、このバンドの核となるものだった。決して乱れない音程に、いつも耳に届く美しい音色。それが、他の生徒の気持ちを引っ張っていた。丘も、その技術力の高さには信頼を寄せていたから、今年の自由曲で、オーボエソロのあるトゥーランドットを選んだ。
だが、ひまりの骨折によって、ソロは一年の星子に代わり、演奏のバランス調整も必要になった。バンドのサウンドの中心であったひまりの不参加と、これまで積み上げてきたものを作り直す作業の、二つが同時に押し寄せた。生徒達の動揺は、避けられないものだった。
特に星子は、相当な重責を感じているだろう。自分の演奏が、バンドの運命を左右するかもしれないと。
星子は、同年代のオーボエ奏者と比較しても、飛び抜けた技術力を有している。実力を発揮できれば、ひまりに劣らない演奏が出来るはずだ。だが、本人は何か、ひまりを強く意識しすぎている傾向がある。
ひまりのソロを再現しようとしているのか、思いきりの良いソロになっていなかった。無難な、特筆すべきものは何もない、ただ聴き流されるだけのソロである。今日になって、少し変化してきているようには感じたが、まだ、その癖が抜け切れていない。
それについて、丘は音楽的な指摘のみに留めた。星子が自分で乗り越えようとしているからだ。まずは、やりたいようにやらせてみる。
ただ、東海大会は四日後にある。明日明後日は学校で練習し、三日後には三重県に移動してホール練習となる。そして、その次の日は本番。時間はない。
星子が壁を突き抜けられるか、微妙なところだろう。つい、口出しをしたくなる。だが、ここは信じて待つしかない。
一晩経って、翌日、生徒の前に立ち、合奏をした。
昨日まで崩れかかっていた演奏が、立ち直っていた。音に芯が戻り、これならたて直せるかもしれない、という演奏になっていた。
昨晩、リーダー会議の後に、晴子、摩耶、智美がやってきた。毎日、部長は練習後に顔を出させ、一日のまとめを報告させている。学生指導者も同様だ。
その時にリーダー会議の内容を聞き、今朝ミーティングをするという許可を出していた。
結果は、晴子達の狙い通りだった。ひまりを全国へ連れていく。その気持ちで全員が一致したのだろう。
ひまりには聞かせないようにすると言っていたから、知らないはずだ。端に座って見学している彼女の表情が、驚きに満たされているのが証拠だった。
未熟な高校生は、心一つで、大きく演奏が変化することは珍しくない。ひまりの骨折で揺れた部員の心が、何のために吹くのかという意識を取り戻したことによって、再び定まった。
この日は、昼休憩以外の時間は全て、全員での合奏にした。音が戻ってきたのだから、演奏を調整するのに時間を使うべきだと判断した。
十七時で活動時間は終わりの予定だったが、生徒の希望で、十九時まで延長して合奏を行った。初めてのことだった。
活動が終わって、職員室で待っていた涼子がコーヒーを淹れてくれた。香ばしい香りが、職員室に満ちる。湯気が立つコーヒーをすすり、大きく息を吐いた。
十時から合奏だったから、休憩を抜くと、七時間以上指揮を振り続けた計算になる。その間、耳も、目も、頭も、全てを集中させていたため、さすがに身体にこたえた。
涼子が雑務の全てを引き受けてくれているおかげで何とかなっているが、今から帰宅するのは億劫だ。腕は疲労でうまく動かないし、腹も減っている。
食事を済ませたらゆっくりと眠りたいところだが、休んでいる暇は無い。いくら音を立て直したといっても、危機的状況に変わりはないのだ。夜は今日録音した演奏を聴きながら、明日重点的に見るべき箇所などを出しておく必要がある。
完全に陽が落ちた窓の外を見ながら、丘はもう一口、コーヒーをすすった。




