八ノ一 「星子」
星子に、唐突に訪れた機会だった。
春先に楽譜が配られてから今日まで、欠かさずソロを吹き続けてきた。家の一室が防音室になっているおかげで、夜でも練習をすることが出来るのだ。
練習の時に思い浮かべるのはいつもひまりのソロで、それを超えようと、何度も吹いた。しかし、どうしてもひまりを超える演奏を、星子は出来ずにいた。
やはりひまりは凄いという想いと、何故超えられないのだという想いとが、星子を悩ませた。
近づいたと思えば、離される。一歩どころか、二歩も三歩も離される。近づけば近づくほど、ひまりの演奏は磨き上げられ、星子を圧倒する。
どこまで行っても、ひまりは星子の先を歩き続けていた。
ひまりのソロを超えられた時、ソロのオーディションを丘に頼もうと密かに決めていたが、そんな機会は、いつまでも来そうにもなかった。
そのひまりが、骨折によって、メンバーから外れた。ひまりを超えることは無いまま、自動的にソロの担当になった。
発表の後、すぐに合奏が行われた。人前でソロを披露するのは、初めてだった。
周りの反応で、星子のソロが期待を超えるものではなかったのだと、容易に理解できた。星子自身ですら、同じ想いを感じた。
バンドと共に吹くと、ひまりの音が、いかにこのバンドの中核をなしていたのか、ソロが優れていたのか、そして、欠けてはならない存在だったのかがはっきりとした。
奇跡は起きない。
ひまりの指がある日突然治って、復帰するような事態は、ありえない。東海大会は、どうあがいても、星子が吹くしか道はないのだ。
今の自分の演奏で、出来るのか。ひまりに遠く及ばない、このソロで。
もし、自分の演奏が原因で東海大会を抜けられなかったら。それを思い浮かべると、身体が震え、昨晩は眠ることが出来なかった。
今日も、また、合奏だった。トゥーランドットを合わせている。
「紺野、もっと、表現にメリハリをつけて歌ってください」
「……はい」
ひまりは、ソロについて、一度も丘に指摘をされたことは無かった。丘は、ひまりを信頼し、任せきっていた。事実、ひまりは誰に指摘されなくても、自らそのソロを研ぎ澄ませていった。
星子の演奏が質を上げていけたのは、そのひまりを参考にしていたからだ。
なるほど、こう吹くのか。こういう意図があって吹くのかと、ひまりの演奏を参考にして吹いていると、多くの発見があった。星子では思いつかなかったような音を、ひまりは独自に見つけ出していった。
これで、星子が丘に指摘されたのは何度目だろうか。今までひまりの音から学んできたことを表現すると、そうではない、と言われる。
自分でも、分かっている。今は、ひまりの劣化版でしかない。ひまりを追い続けて作り上げたソロでは、ひまりを超えるどころか、並ぶことすら出来ない。ただ、ひまりのソロを真似ようとなぞっているだけだ。
「他の人も、バランスが変わっている以上、それを考慮して吹いてください。これまで通りでは、ズレが生じます。少しのズレが、不調和につながります。お互いの音をよく聞いて」
「はい」
「もう一度、ソロから」
丘の手が揺れるのに合わせて、音を出す。
どうすれば良い。どう吹けば、正解なのだ。どうすれば、納得の行くソロが吹けるのだ。
出口の見えない迷路に迷い込んだような感覚だ。星子の心に、暗い陰が差しだしていた。
誰にも、ソロを聴かれたくなかった。今は、人の評価に晒されたくない。人の目も耳も気にせず、一人で練習していたかった。
だから、練習が終わって、早く帰ろうとしていた。家なら、防音室で一人で吹ける。
「星子ちゃん」
呼び止められて、振り返った。フルートの二年生の溝口牧絵が立っている。
「帰るの?」
「はい。家で練習しようかなと」
「その前に、ちょっとだけお話しない?」
牧絵は、気品を感じさせる人だった。少しふくよかな体型をしているけれど、動作はいつも落ち着いていて、優雅だ。奏でるフルートの音色は、うっとりとするような優しい音をしている。
ひまりほど突出した才を持っているわけではないものの、強豪校でもコンクールメンバーに選ばれるであろう程度には、優れた演奏技術も持っている。
人間的にも、星子が尊敬している先輩の一人だった。その牧絵に言われたら、断ることは出来ない。
「はい」
牧絵の後についていき、東端の非常階段の外に二人で出た。むわっとした蒸し暑さに晒されて、思わず顔をしかめてしまう。
自主練習でもしているのだろうか。体育館から、運動部のボールが跳ねる音が聞こえてくる。音的に、バスケ部だろう。
「上手く吹けなくて悩んでる?」
直球だった。牧絵は、回りくどい話し方をする人ではなかった。星子も、そのほうが今は良かった。素直に、頷きを返す。
「ひまり先輩を超えたくて、楽譜を貰ってから、家で、ずっとソロの練習をしてきました。でも……超えられる気が、全然しなかったです。近づいたら、近づく前よりひまり先輩は離れていく。近づけば近づくほど、どんどん近づけなくなっていく。ひまり先輩は、やっぱり凄いです。ひまり先輩と吹きたくて花田に来て、良かったと思ってます。なのに、そのひまり先輩の代わりに吹かなきゃいけなくなるなんて……」
自分のせいで、東海大会で終わってしまったら。口にすると、本当になりそうで、言えなかった。
フルートとオーボエは同じパートとして行動を共にしている。だから牧絵は、よく星子の相談に乗ってくれていた。憧れと同時に、超えるべき存在として認識しているひまりには言えないようなことも、牧絵になら話せた。
牧絵が、唐突に、手に持っていたフルートをそっと口にあて、静かにメロディを吹いた。何か、聞き覚えのある曲だ。何の曲だっただろう。心がむずむずとするような甘いメロディで、牧絵が吹くと、一層その甘さが際立つ。
「それは?」
「私が、中二のコンクールで吹いたソロなの。吹けなくなった先輩の、代わりに」
「え」
「私の中学も、部員はそんなに多くなくてね。フルートは今と同じで二人だった。当然ソロは先輩が吹いてた。けど、東海大会前になって、先輩が風邪で倒れちゃったんだ。それで、私が代わりに吹くことになった」
初めて聞く話だった。
「今の私達と、似てますね」
「ほんとに。驚いたよ」
昔を思い出すように、牧絵は遠くを見ながら言った。
「プレッシャーは、それはもう、凄かったよ。眠れなかったもん」
同じだ、と星子は思った。昨日は、眠れていない。
「どう、したんですか、結局」
「ボロボロ。私は、ソロは先輩が絶対に吹くものだと信じてたから、練習なんてしてなかった。付け焼刃の練習じゃ、プレッシャーに勝てなかったよ」
「そう、なんですか」
「本番でミスをして、動揺して、思う通りに吹けなくなって。そこから、全体もガタガタになって。東海大会の結果は、銅だった。泣いたなあ、あの時は。本番が終わった後、ずっと泣いてた。どう考えても私のせいだったから」
牧絵はふと目線を下げて、自嘲的な笑いを浮かべた。牧絵にそういう過去があったとは、想像もしていなかった。失敗の人生を歩んできたような人には、見えなかった。
「でもね」
牧絵が、顔をあげた。星子を見つめてくる。
「部員は、誰も私を責めなかった。むしろ、ありがとうって言ってくれた。吹いてくれて、ありがとうって。私がいなかったら、この曲は成立しなかった、私のソロのおかげだ……って。責められても仕方がなかったのに……なんで、こういう事態に備えて練習しておかなかったんだろうとか、なんで、失敗して心まで乱したんだろうとか、色々考えて潰れそうになってた私に、皆が感謝してくれた」
鳴きわめいていた蝉の声が、いつの間にかやんでいた。体育館のボールの音も、聞こえない。
「皆のその言葉のおかげで、私は立ち直れて、今もフルートを吹いてる」
牧絵のまっすぐな眼差しに吸い込まれ、星子は目を逸らせなかった。
「星子ちゃんも、同じだよ」
「……同じ?」
「ひまりの代わりは、星子ちゃんにしか出来ない。でも、それは単なる代わりじゃないの。私達が求めているのは、星子ちゃんの音。星子ちゃんが吹くソロが、私達は欲しい。ひまりのように吹こうとせず、自分の思う通りに吹けば良いの。余計なことは全部忘れて、音に集中してみて。自分の表現したい音に」
「表現したい、音」
牧絵が、頷いた。
「どんな演奏だって良い。私達は、星子ちゃんの音を求めてる。ひまりの音には無くて、星子ちゃんの音にはあるものも、ちゃんと存在してるから」
「牧絵先輩……」
「楽しんで吹く。私達フルートオーボエパートの目標だよ」
そう言って、牧絵は笑った。
牧絵とひまりとフルートの同期の尾山佐奈と。四人で、県大会の前に目標を立てた。どんな状況でも、楽しんで吹こう、と。
牧絵は、励ましてくれている。今まで、牧絵が直接的な助言を星子にしてくるようなことはなかった。黙って話を聞いて、同調してくれるだけだった。
星子を想って、言葉をかけてくれたのだろう。あまり自分を語らない牧絵が、過去を打ち明けてまで。
星子の胸に、熱いものがこみあげてきていた。
「牧絵先輩、ありがとうございます」
それだけを言うので精一杯だった。涙は見せたくなくて、横を向き、何度か目を瞬かせ、こぼれ落ちるのをこらえた。
牧絵は、ただ黙っていた。
オーボエを吹く。それが、ひまりの生きている理由だった。
はじめは、逃げるために始めたことだったのに、今では、人生において最も大切なものになっている。
そのオーボエを、吹けなくなった。
何故こんなことになったのか。ひまりのせいなのか。いや、そんなはずがない。何も、悪くない。左手を、痛くなるほど握りしめた。
母親がひまりを突き飛ばさなければ、こんな事にはならなかった。母親が手を上げなければ、今もソロを吹いて、譜面に向かっていたはずだ。
全部、母親が。
「ひまり先輩」
隣に、智美が立っていた。心配そうな表情をしている。
「ものすごい怖い顔してますよ」
言われて、顔を逸らした。感情が表に出ていたのかもしれない。
「ごめん、何でも無いから」
「……お家で、何かあったんですか?」
どくん、と心臓が音を立てた。
「何?」
「一昨日の部活、先輩は最後まで残ってました。それで、昨日の朝には骨折って判ってた。夜に、お家で、何かあったのかなって」
一昨日、最後に会ったのは智美だった。図書室で、戸締りに来た智美に話しかけられた。
「何も、無いよ」
「でも」
「私のつまらないミスだから。ごめんね。そっとしておいてくれる?」
「あ……」
ひまりの拒絶に、智美は一瞬寂しそうな表情を浮かべた。
胸が少し痛んだが、すぐに、智美から視線を外した。顔を、合わせていたくない。
ごめんなさい。ぽつりと言い残して、智美は離れていった。
あのまま話し続けたら、心の中のどす黒い感情を、智美にぶつけてしまうかもしれなかった。そうしたくなくて、冷たく突き放した。
左手の違和感に気づいて手の力を緩めた。ずっと握りしめていたようで、手のひらが、真っ赤になっている。
「何、してるんだろう、私」
呟きが、誰に聞かれることも無いまま、空しく消えていった。




