八ノ序 「ひまり」
八月二十一日。
もう、夏休みも終盤に差し掛かっていた。
人の減った図書室で、冷房が駆動音と共に冷気を吐き出している。まばらに残って自主練習をしている部員達は、ちょうど休憩が被ったようで、演奏を止めて雑談していた。
「リーダーはどう?」
バンドの最前列に座っているクラリネットパートの一年生三人組の会話が、ひまりの席まで聞こえてくる。
和の質問に、夕が唸った。
「忙しい。この後もリーダー会議あるし」
「大変だねぇ」
「練習時間が減るのがちょっと辛いなあ」
リーダー達は、夏休みの間、毎日会議をしている。十七時に正規の活動時間が終了し、そこから二十時までは自主練習の時間だ。十九時になると、リーダー達は集まって会議を始める。
新たに一年生が加わってからは、部室では狭いらしく、英語室を使っているようだった。
「二十一時まで練習させてくれればいいのに」
「二十一時はさすがにきつくない? 私と和は、そっから帰ると家着くの二十二時だよ」
綾が言った。綾と和は同じ中学校出身で、電車通学だったはずだ。二人のように、電車や自転車で遠くから来る部員は多い。花田町出身は確か二十人くらいで、後の部員は、何十分とかけて通学してくる。
楽譜を眺めながら、ひまりは何となく三人の会話を聞き続けた。
「まあそうなんだけど……はあ。もっと時間沢山あればいいのに」
朝、もっと早く来れば良いではないかと思ったけれど、口には出さなかった。
ひまりは毎日、四番目か五番目に学校に来る。ひまりより必ず早く来ているのは、コウキと智美と未来だけだ。星子が、たまにひまりより早く来ている。
朝こそ、涼しくて音程も合わせやすいし、静かな環境で練習出来る絶好の時間帯だ。夜を遅くするより、朝を早くした方が絶対に効率的だとひまりは思っている。
コウキと智美は三、四十分かかる距離からの通学で、一日も欠かさずに真っ先に来ているのだから、他の部員は言い訳出来ないだろう。
それ以上三人の会話を聞いている気が失せて、ひまりはオーボエを構えた。
吹奏楽コンクールで吹く自由曲、『歌劇「トゥーランドット」より』。有名な歌劇を吹奏楽のために編曲したこの作品には、オーボエのソロがあり、ひまりは、それを担当している。
三十秒程度のソロ。しかし、この曲の演奏時間は約六分三十秒だ。たった六分半と考えると、三十秒というのは随分長い。
それだけ、この曲におけるオーボエの存在が重要ということである。
このソロで、聴く人の心を掴む必要がある、とひまりはずっと考えてきた。ソロだけですべてが決まるわけではない。けれど、ソロが審査に大きな影響を与えることは間違いない。
リードをくわえ、息を吹き込む。リードが振動し、管内を通って音へと変換される。繰り返し練習してきたソロだ。楽譜を見なくても覚えている。
ひまりは、行き詰まっていた。以前は、吹くほどに演奏が研ぎ澄まされていった。ここ最近は、これ以上どうすれば良いのかが、分からなくなっている。
レッスンを受けているプロからは、表現したい気持ちを音に乗せろと言われていた。しかし、ひまりはそういう吹き方をしたことが無く、未だにその感覚が掴めないでいる。
音楽的に、こうすべきということについては分かる。だから、それに忠実に吹いてきた。すると、文句のないソロが出来上がり、誰もが称賛する。ただ、文句は言われないというだけで、人の心を揺さぶるものではない。
全国大会へ行くためには、心を揺さぶるソロにする必要がある。
全国大会は、吹奏楽コンクールの最高峰だ。吹奏楽に携わる高校生全員が、その舞台に立つことを夢見て、本気で部活動に打ち込んでいる。熾烈な競争であり、生半可な演奏では、太刀打ちできない。
当然、ひまりも、全国大会への出場を目標にして、夏休みの全てを、いや、生活の全てを注いできた。
ひまりにとって、全国大会に出られる機会は、今年と来年の二回しか残されていない。卒業してもオーボエは続けるつもりでいるが、所属しようと思っている企業楽団は、花田高のようにコンクールに本気で取り組む楽団ではない。一会社の抱える、音楽が趣味の人間が集まるサークルのようなものである。
ひまりに辛くあたる母親から逃れるために、社員寮があって楽団も抱えているその会社への就職を目指していた。それが、ひまりが平穏に暮らすための最善だと思っているからだ。
だから、ひまりにとって全国大会に出場する機会は、あと二回しかない。
一度くらい、全国大会の舞台に立ちたいという気持ちが、ひまりにはある。
母親や父親から逃げるために始めたオーボエだが、今ではひまりの身体の一部のような存在になっている。そのオーボエを、最高の舞台で吹きたい。
今の花田高なら、不可能ではない。決して届かない夢ではない。実現するためにも、ひまりのソロの完成が最重要だ。
「ひまり先輩」
肩を叩かれて、はっとした。智美がいた。
「最終下校時刻、近づいてますよ」
言われて時計を見ると、もう十九時四十五分だった。熱中しすぎて、時間を忘れていた。図書室を見回すと、さっきまでいた部員達も誰もいなくなっている。
智美は、鍵管理の係だった。戸締りに来たのだろう。
「ごめん、すぐ片付ける」
立ち上がって、身の回りのものを抱えた。
「ソロ、頑張ってください」
「ありがと」
「お疲れさまでした」
丁寧に頭を下げてくる智美。返事をして、ひまりは部室に戻った。
楽器を片付け、校門を出る頃には二十時になっていた。帰宅するため、自転車を走らせる。
東海大会は六日後だ。もう、時間がない。
どれだけ吹いても、解決の糸口は見えてこない。様々な吹き方を試してみた。何十通り、何百通りの方法でソロを吹いて、どれもしっくりこなかった。
そもそも、人の心を震わせる演奏とは、何なのだ。
何が、人の心を動かすのか。それは、本当に可能なのか。ひまりが勝手に思っているだけで、実際はそんなことは不可能なのか。
凄い、素晴らしいとは言われるが、感動した、心が震えた、と言われたことは一度も無かった。どういう演奏が、人の心を震わせるのだ。それとも、そんなものは実はあり得なくて、幻想でしかないのか。
思考は堂々巡りで、気づけば家の玄関の前に立っていた。横の台所の窓から、明かりが見える。母親はすでに帰っているようだ。遅くなったから、何か言われるかもしれない。
ため息をついて、扉を開けた。
すぐに、気がついた母親が居間から顔を覗かせた。
「遅い!」
「部活」
「全く。早く飯作りなさい」
「……はあ? 先に帰ったほうが作るんでしょ。何言ってんの」
母親の形相が、歪む。
「親に向かって、何だその態度は! 私は働いて帰ってきたんだから、遊んでたあんたが作りなさい!」
その言葉に、頭がふっと沸き立った。
「遊びじゃない!」
「どうでも良いから作りなさい」
「嫌だ。私はお母さんの奴隷じゃない」
「私が働いてるからあんたは好き勝手出来るのよっ。飯ぐらい作りなさい! あんたにお金を出してるのは、誰だと思ってるの!」
投げかけあう言葉で、互いの感情が高ぶっていく。母親がずかずかと近づいてきた。
「謝りなさい」
「嫌だ」
「謝りなさい!」
鬼のような形相で、睨みつけてくる。
先に帰ってきたほうが夕飯を作る。決めてはいなくても、何となくそういう暗黙の了解になっていた。なのに、ひまりに調理を要求してくる母親の理不尽に、謝る必要性を感じない。
母親の視線をまっすぐに受け止めて、ひまりはもう一度、嫌だ、と言った。
その瞬間だった。母親が、短くひゅっ、と息を吸った。
「あっ」
身体が、後方に弾かれた。
視界が流れていく。母親が、両手を突き出している。どんどん、母親が離れていく。突き飛ばされたのだ、と理解した。
どん、という身体が地面に倒れこんだ衝撃と共に、右手に激痛が走り、悲鳴を上げた。支えていられなくなり、そのまま寝転がるように倒れた。
慌てて、右手を見た。小指が、おかしな曲がり方をしている。動かそうとする。その瞬間、激痛が再び走った。とても、動かせる状態ではなかった。
骨折。
嫌な想像がよぎって、どっと冷や汗が噴き出した。
「……折れたかも」
「は、はあ?」
「あ」
オーボエ。
心臓が、ありえない程の早さで打っている。
もし折れていたら。いや、骨折していなくてもこの痛みだと、数日はうまく動かせないかもしれない。
東海大会。
ソロ。
全国大会。
様々な考えが頭を駆け巡る。痛みや焦り、不安といったものが、ひまりの中をぐちゃぐちゃにかき乱した。
「病院……行かなきゃ。車、出して」
「大げさな。明日、自分で行きなさい」
母親の声色が、強がりながらも、不安を感じているようなものになっている。その言葉に、また腹が立った。
ただ、今は痛みと動揺とで、憎まれ口を叩く余裕も無い。
「早く出してっ。出さないなら救急車呼ぶから!」
びくりと母親が身体を強張らせた。ぶつぶつと文句を言いながら、動き始める。
頭の中が、滅茶苦茶だった。なんで、どうして、どうすれば。早く、病院に行かなくては。焦りで、苛立ちが募る。激痛は続いたままだ。なるべく小指が動かないように左手を添えて、立ち上がった。脂汗のようなもので、制服が身体にはりついて、気持ちが悪い。
救急車がこんな団地に来れば、嫌でも目立つ。ひまりの怪我を見て、住民が何があったのかと勘繰る。世間体を気にする母親は、それだけは嫌だろう。小さい人間だ。怪我をしたかもしれないひまりを見て、おろおろとする姿も、情けない。
この人が、突き飛ばしたから。怒りで、どうにかなりそうだった。
「急いでよ!」
まとまらない思考のまま、叫ぶ。分かってる、と母親が乱暴に返してきて、部屋から出てきた。
折れていたら。
その考えばかりが頭をよぎって、余計に胸を圧迫していく。心臓が、握りつぶしてしまいたいほどに痛い。コンクールはどうなる。吹けなくなるのか。星子が代わりに吹くのか。ひまりは、外されるのか。
車に揺られる痛みに耐えながら、早く病院が見えてこないかと気が急いた。
丘と向き合っている。職員室で、隣に副顧問の涼子がいて、あとは他の部活動の顧問らしき教師がちらほらといるだけだ。
酷く難しい顔をしながら、丘が腕を組んだ。
「どれくらいで、治るのですか」
「動かせるようになるのは、早くて三週間程度はかかると」
丘が、副木をあてられたひまりの右手の小指を見ながら、そうですか、と言った。重く、絞り出すような声だった。
昨日、病院で診察を受け、小指は骨折していることが分かった。医者からは、無理に動かすと後に響くから、絶対に動かすなと言われた。
帰り道、母親を詰った。言い返そうとする母親を遮って、ありとあらゆる言葉で、母親を責めた。そんなことをして、何が変わるわけでもないけれど、とにかくそうすることでしか、ひまりの心は保てなかった。
母親も、自分が突き飛ばしたことが原因なのは分かっている。だから、ひまりの言葉に、いつものように強く言い返したりはしてこなかった。
家に帰り着いても、ひまりは喚いて、泣いて、暴れた。痛みなどどうでもよく、何か物にあたらなければ、怒りで心臓がどうにかなりそうなほどだった。自室は暴れたせいで滅茶苦茶になっている。昨日は、一睡もできず、泣き続けた。
「オーボエ、吹けないです」
口に出した瞬間、ひまりは、また泣いていた。涙が、地面に落ちて、弾けた。
「大会に、出られません」
声は嗚咽に変わり、言葉にならなくなった。涼子が背中をさすってくる。
「今は、安静にするべきですから、仕方がありません。何が……あったのですか?」
母親に突き飛ばされて、とは言えなかった。
「私の、ミスで」
震える声で言った。
「そう、ですか。ひとまず、全員に事情を話しましょう。佐方は、指が治るまでは、見学を。ソロは、紺野に代奏させます。良いですね?」
頷くしか、できなかった。
話はそれで終わり、図書室に向かった。丘に続いて中に入ると、吹き鳴らされていた楽器の音が一斉に止んだ。部員の視線が丘から、ひまりに移る。なぜひまりが丘の後から、とでも言いたげな表情だった。
「おはようございます」
指揮台に立った丘が言った。部員の返事を受けて、丘が椅子に座る。ひまりは、図書室の入り口に立ったままだった。
部員が、ちらちらとこちらを見てくる。丘が、口を開いた。
「一つお知らせがあります。佐方が、小指を骨折しました」
一斉に、部員がどよめいた。
「完治まで、動かせません。つまり、東海大会は、佐方は抜けます。ソロは、紺野、貴方が吹いてください」
「えっ……」
青ざめた表情で、星子が言葉を詰まらせた。一瞬、星子と目が合った。すぐに、ひまりから顔を伏せて逸らした。
どんな顔をすれば良いのか、どんな反応をすれば良いのか、分からなかった。
「紺野、ソロは、吹けますか?」
「……ひまり先輩みたいに、吹けません」
「構いません。貴方なりのソロで。良いですね?」
「……は、い」
歯切れの悪い返事をして、星子がうつむいた。
部員が、不安に駆られた表情で丘や星子、ひまりを見ている。その視線が、痛かった。
「起きたことについて、嘆いたり、悲しんでいる暇はありません。今出来る最善を全員が選んでいくことでしか、私達は前に進めません。動揺はあるでしょうが、切り替えてください」
「はい」
部員の返事は、どこかいつもより覇気が無く、それが余計にひまりの心をざわつかせた。流すまいと思っても、にじみ出る涙は、止めようが無かった。
八ノ序のタイトルが別作品と被ってるとご指摘いただいたので、変えました。




