番外五 「その後の二人」
自分が、男と付き合うなんて、想像もしていなかった。そういうものとは縁が無いだろうと思っていた。ずっと恋愛感情というものを持った事がなく、男は、ただ男だった。
人として認められる男は、そういない。部内では、同期のトランペットのコウキや、学生指導者の奏馬くらいだった。
それが何故か、今、コントラバスの勇一と交際している。
きっかけは、何でも無いことだった。恋に悩む万里のためにコウキに話しかけた時、その隣に勇一がいた。そこで、ハンドシェイクというコミュニケーション方法を教えてくれた。それが妙に気に入って、勇一と話すようになった。
勇一は、美喜を事ある毎に笑わせてきた。いつでもどんな時でも。笑うまいと決めて構えていても、勇一を前にすると、笑ってしまう自分がいた。
ふざけたやつだと思ったけれど、不思議と嫌ではなかった。友人として、認められるようになった。まだその時は、恋愛相手とか、そういうものではなかった。
面白い男だとは思っていた。けれど、それだけではなかった。ふとした時に、どきっとさせられるような優しさを見せられた。そして、美喜を女の子だから、と言って大切にした。
誰かに女の子として見られたのは、初めてだった。そう見られるような接し方を、男に対してしてこなかった。
勇一が時折見せる行動に、美喜は混乱させられた。どういうつもりで美喜を女の子として扱っているのだ、と一度問い詰めた。
勇一は、目を逸らさず、まっすぐに美喜を見つめて、好きだから、と言った。
それに、やられたのかもしれない。
押されるようにして、付き合うようになった。夏の合宿前のことだ。
そうは言っても、まだ恋人らしい行いはしたことがない。せいぜい、一緒に帰るくらいである。
美喜がそういうものに耐性が無いから、手を繋がれそうになった時も、拒んでしまった。以来、勇一は美喜が平気になるのを待ってくれている。その優しさも、美喜を戸惑わせた。
一度だけ、恋愛相談をコウキにした。他の誰に相談して良いのか、分からなかったからだ。勇一の友人だし、コウキなら、決して誰にも言いふらさないだろう、と信じられた。
「デートしたら?」
事もなげに言うコウキ。言われてその光景を思い浮かべて、顔が熱くなった。
「デートして良い雰囲気になったら、自然と手だって繋げるだろうし、美喜さんだって繋ぎたいと思うだろ」
「何でそんなこと分かるの」
「誰だって好きな人とは触れ合いたいもんでしょ」
そういうものだろうか。
「まー、何とかしてあげるよ。一回だけ協力する。それ以降は、二人次第だ」
「協力って?」
「勇一からデートに誘ってくるようにしてあげる」
「なっ」
笑いながら、コウキは任せておけ、と言った。
夏休みになって、盆休みが三日間になると発表された。勇一から、空いていたら遊ばないか、と誘われた。
それで、今、待ち合わせている。昼食をどこかで食べてから、一緒にショッピングモール内の楽器店に行こうという約束をしている。トロンボーンも学校から持ち帰ってきていた。楽器屋で、マウスピースの試奏に使う。
服装は、どんな格好をすれば良いのか、分からなかった。ファッションには一切の興味が無くて、普段はティーシャツにジーパンとか、ラフな格好ばかりだった。それで、万里達に相談した。
さすがにその恰好はやめておけと言われ、部活動の帰りに、近所の量販店に万里と咲と桃子と寄った。
三人がああでもないこうでもないと話し合って、短めのスカートとブラウス、それとサンダルを選んでくれた。今、それを着ている。
容姿に、自信は無い。咲や万里達のように映える顔立ちではなく、どこにでもいる普通の顔だ。自信が無いから、あえて男のような恰好をしていた、というのもある。
女の子らしい恰好は、自分には似合わないと思っていた。それでも、このコーディネートを着て鏡の前に立つと、心が湧き立った。自分は、女の子なのだ、と感じた。
勇一は喜んでくれるだろうか。
待ち合わせの時間まで、まだ十五分もある。緊張して、遅刻したらどうしようかと思って、早く来すぎていた。
「おーい、美喜」
聞き慣れた声に呼ばれて、身体を強張らせた。振り返ると、勇一が笑顔で近づいてきていた。
「おはよ。早いな」
「そんな、変わらないよ」
何か言われるだろうか。美喜らしくない恰好だ。似合わない、と言われるかもしれない。
不安でうつむいていると、勇一が、少し上ずった声で言った。
「私服、かわいいじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、美喜の脳は沸騰した。目を開けていられなかった。顔が急激に熱くなり、自分が赤くなっているのだ、と自覚した。
勇一が、こんなことを言うわけがない、コウキの差し金だ。そう思うことにした。それでも、顔の火照りは収まらない。
「じゃー……バス、乗るか」
「……ん」
勇一が歩き出した。後ろをついていく。
まだ、十一時だ。今からこんな調子で、一日もつのか。美喜は、早くも逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
こんな、ふわふわとして、身体がどうにかなりそうなほどの緊張は、中学生の時の吹奏楽コンクールの全国大会でも感じなかった。
胸が苦しい、と美喜は思った。
スタンダードモデルのマウスピースを中学時代からずっと使ってきて、そろそろ、もう一本、自分の感覚に合ったものを選び直したいと思っていたから、昼食の後、楽器店で試奏させてもらっていた。
マウスピースはトロンボーンと同様に金属で出来ていて、口に当たるリム部分の厚さや幅、カップ部分の深さや大きさなどによって、音の当たり具合、出方、音色などが大きく変化する。
高音域を狙って吹きたいのか、低音域を豊かにしたいのか、音色は明るいのが好みか。自分の求める音に適したマウスピースを選ぶことが重要になる。
美喜は、高音域を狙って安定的に出せるようなマウスピースを求めていた。これから先、演奏会の回数が増える。そういう時に、ソロもあるかもしれない。トロンボーンでソロを吹くのなら、美喜か理絵だ。理絵に、負けたくない。
「ねえ、勇一はどれが良いと思った?」
「ん、そうだなあ」
マウスピースは、吹いた感覚と、実際の音と、どちらもよく確かめる必要がある。それには、人が一緒に居たほうが良い。プロの奏者や優れた奏者に頼むのが一番良いけれど、そう都合よくはいかない。
勇一も、部活動で鍛えられている。それに、弦楽器奏者である分、金管楽器に対してフラットな意見を貰えるかもしれない。
「一本目の方が、音がよりはっきり明快な感じがするな」
「うん、私もそう思う」
マウスピースを選ぶ時は、マウスピースだけで吹くのではなく、楽器につけて吹くのも重要だ。楽器店なら、自分の楽器を持って行けば吹かせてもらえるところも多い。
今は、何本か試奏して、二本に絞っていた。
もう一度、それぞれを吹いてみる。
勇一の言う通り、一本目のほうが美喜の求めている感覚に近い。
「こっちにしようかな」
「お決まりですか?」
そばにいた店員が言った。
「はい、こっちに決めます」
「ありがとうございます」
マウスピースを、店員に渡す。ふと、壁にかかっている時計が目に入った。試奏にじっくり時間をかけてしまったようで、随分時間が経っていた。はっとして勇一を見る。
「ごめん、夢中になりすぎた」
「いや、重要じゃん。気にしてないよ」
平然として勇一が言った。待ちくたびれたのではないかと思ったのに、そんな素振りは見せない。
「……ありがと」
「ん。良いの見つかって良かったな」
ポン、と頭を軽く叩かれる。心臓が跳ねた。
勇一は、すぐにこういうことをしてくる。二人の身長はニ十センチ以上の差があって、勇一からは見下ろす形になるから、頭に、手を置きやすいのだろう。
「すぐポンポンするなっ」
「なんで?」
「私はこどもじゃない」
「へっ。口では嫌がっても、内心喜んでるのはバレバレだ。ニヤけてるぞ」
「うるさいっ」
軽く小突いて、顔を背ける。勇一が笑った。
「これじゃ、バカップルじゃんか」
勇一に聞こえないよう、小さく呟いた。
町中や電車の中で、べたべたとくっつく恋人を見るたび、馬鹿らしいものを見る目でいた。今は、自分達が他の人からそう見えているのかもしれない。
勇一にこういうことをされても、嫌だと思わない自分がいる。別に、勇一は男前ではなく普通の顔だ。身長は高めで体格も良いけれど、際立っているわけでもない。けれど、なぜか美喜には、良い男に見える。
「あほらしい!」
「ええっ!?」
唐突に叫んだ美喜に驚いて、勇一がのけぞった。
「どうした!?」
「……なんでもない!」
こんな感覚は、おかしい。自分ではない。そう思いたいのに、思えない。
好きだという感覚が、美喜をおかしくさせる。
ちらりと勇一の姿を盗み見た。美喜に近づかないよう、離れたところで本棚を眺めている。その何気ない仕草にも、目を奪われる。
万里や桃子が、コウキや奏馬の姿に夢中になって呆けている時があって、馬鹿な子達だ、と思っていた。そんな暇があるなら練習をしろと、何度も叱った。
今、自分がそうなっているではないか。
「ううう……!」
どうしてしまったのだ、自分は。そう思って、美喜は自分で自分の腹を何度も叩いた。
つり革に掴まり、繰り返される電車の揺れに身を任せていた。隣の勇一は、窓の外を見ている。
マウスピースを購入した後、少し楽器店の入っていたショッピングモールを回った。特に何か買ったわけでもないが、勇一と会話しながら歩いていれば、それで楽しかった。
「なあ」
「うん?」
勇一を見た。
「美喜は、リーダーのこと、考えてる?」
「ああ……うん。まあ、学生指導者は三木かなと思ってる」
「それは俺もだな。コウキ以外、いないだろ」
「ね。部長もやってほしいけど、部長と学生指導者は兼任できないんだよね」
「って言ってたな。部長は、誰だろう」
「さあ。適任って子、いない気がするけど」
互いに、窓の外を見ていた。ちょうど太陽が傾き出していて、町がオレンジに染められている。
ビル。公園。川。田んぼ。移り変わる景色の全てが、輝いている。
「あのさ、俺、副部長になろうと思うんだわ」
「え、マジ?」
「マジ」
「なんで?」
「部長は、荷が重い。コウキと張れる気がしない。でも、リーダーにはなりたい。となると、俺に出来るのって、副部長だけだから」
金管木管セクションリーダーは、各セクションから選ばれる。部長になりたくなくて、学生指導者はコウキなら、確かに、そうだ。
「でも、副部長って雑用多いよ」
「ああ、そういうの得意だから」
「……そっか」
「なんて言うか、俺らの代は、コウキを中心にまとまっていくと思うんだわ」
「まあ」
美喜も、そう思っている。
「俺、誰かの下につくとか好きじゃなくて。だから奏者の少ないコントラバスってすげえ向いててさ」
「うん」
「でも、コウキならついていけるなって思うんだよ。あいつなら俺らをまとめてくれる気がする」
勇一が、そこまでコウキを評価しているとは知らなかった。部内でも、コウキを評価する声は多い。極端に評価する人と、まあ認めているという程度の人に分かれはするが、勇一が前者だとは思わなかった。
美喜は、中間あたりだろう。
「だから、コウキを支えられたらって思うわけ」
「良いんじゃない?」
まっとうな理由だ。
「でも」
それで良いのだろうか。
「三木は、多分それを嫌がるんじゃないの。あいつ、皆平等みたいなこと、よく言うじゃん。誰が上とか下とか無い、って。だから、勇一が副部長をやるのは良いと思う。でも、あいつと対等であろうとして良いと思うけど」
「……そうかな」
「うん。ていうか」
丘は部員同士で立候補の意思などを明かすなと言っていたのに、勇一は明かしてきた。美喜を、信頼してくれているからなのだろうか。
「私も、リーダーに立候補するつもりだから」
「えっ、マジ?」
「うん。金管セクションリーダー」
「ああ、なるほど」
「その……勇一が一人じゃコウキと張れないって言うなら……私も、いるじゃん。私と勇一なら、三木と並べるんじゃない」
美喜の言葉に、勇一がぽかんとした顔をした。
美喜も、コウキにだけは敵わないと思っている。演奏技術の話ではない。それは負けていない。人として、リーダーとしてだ。けれど、美喜と勇一、二人なら、コウキと対等にリーダーをやれる。
「別に、対等とか並ぶとか、どうでも良いことかもしれないし、三木は絶対そう思ってるだろうけど。でも、私達が金管セクションリーダーと副部長なら、胸を張って良いと思う」
「美喜」
「なに?」
「ありがとなぁ。俺、絶対リーダーなりたいって思ったわ」
「ふん」
照れ隠しで、顔を背けてしまった。勇一の笑いを噛み殺す声が聞こえてきた。
「笑うな」
「いや、これは、褒めの笑いだから」
「何それ」
「良いの良いの」
また、頭を触ってくる。
「それ、やめてってば」
「嫌なのか?」
「嫌、じゃないけど」
「だろ?」
良いように遊ばれている気がして、悔しくて睨みつけた。気にした風もなく、勇一は笑みを浮かべている。
「次は、花田駅、花田駅」
アナウンスが流れる。勇一の降りる駅だ。
「今日はありがとな、楽しかったよ」
「ん」
もうすぐ、勇一がおりてしまう。コウキに、手を繋げると良いな、と言われていたのに、デート中、結局繋ぐことはなかった。
電車が減速し、ホームへ入っていく。
「気を付けて帰れよ。夜、メールする」
「ん」
「じゃあな」
空気の抜けるような音が響いて、扉が開く。勇一がホームに降り立った。
振り向いて、手を振ってくる。美喜も、小さく振り返した。
「ばいばい」
「おう」
扉が閉まって、電車が走りだした。勇一の姿が、遠くなっていく。駅のホームを抜け、窓の外は、田園風景に変わった。
手を、繋ぎたかった。繋いできてほしかった。誰だって好きな人とは触れ合いたくなるもの。コウキの言った通りだ。
「意気地なし」
もとはと言えば、美喜が拒んだからなのに、今は、勇一が手を繋ぎに来てくれないことが許せない。
我ながら、面倒くさい女だ、と美喜は思った。




